第一章 神託(三)
薄暗い山道を抜けると、視界が開けた。イサセリは瞬きを繰り返す。雲一つない青空の下には、サヌキの里が広がっていた。
百歩ほど先に里の柵があった。胸の高さほどの木の棒杭が隙間なく並んでいる。一箇所だけ開いており、左右には太い栗丸太が立っていた。
簡素な門を通り抜けたイサセリは、水音に気づいた。柵の内側に沿って掘られた深い水堀のそばで、里の男たちが三人、赤土で焼かれた壺を抱え、水汲みをしている。
顔を上げた一人がイサセリに気づいた。一番年嵩のスマだ。
「イサセリ様」
スマは壺を置き、近づいてくる。
「お帰りが遅いので心配していたんですよ」
「これを取っていてな」
イサセリは手に持っていた
「裳で包むとは、なんと!」
裳とは腰から下を一周して覆う布のことだ。男は筒袴を履いているため、装飾以外の役割はないのだが、スマの言わんとすることはわかった。
思ったような反応が得られなかったイサセリは、わずかに唇を尖らせた。
「籠を持っていなかったのだ」
「そうだとしても、美しい絹布をこのように使われては、また宮女様に叱られますぞ」
「かまわない。もう、この裳を着る機会はないだろうから」
「それはどういう意味で?」スマは首を傾けた。
先の見えない旅に出るのだ。そう返すべきなのに、喉が震えて声にならない。まだ、覚悟が足りなかった。
「とにかく炊事場に預けておくから、これはスマたちで食べてくれ」
イサセリはそそくさとスマたちから離れた。
里の中へ進むと、最初に炊事場が目に入った。藁葺きの山形屋根からは白い煙がもくもくと立ち上っている。中に入り、地表から三段ある土の階段を下りると、熱気が顔に押し寄せた。炊いた米の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
パチパチと薪の爆ぜる音が響く中、赤く燃え盛る火に照らされ、汗止めの布を頭に巻いた女たちが四人、忙しなく働いていた。身重の者がいるから、いつもより一人少ない。それにもかかわらず、里長たち大勢の客人の食事を用意せねばならず、朝食が終わったそばから昼食の支度に取り掛かる彼女たちの姿に、イサセリは頭が下がる思いだった。
恰幅のいい女がイサセリに気づいた。スマの妻である。
「あれ、イサセリ様。どうしました?」
「これを」
イサセリは空いた器に山の恵みを入れた。
「これも里長たちに?」女たちの表情が硬くなる。
イサセリは慌てて弁明した。
「ちがう、彼らに出す必要はない。これは里の者で分けたらいいんだ」
ほっと表情を緩めた女たちは、口々に礼を告げ、調理を再開した。
炊事場を出ると、イサセリの耳に童子たちの笑い声が届いた。
童子たちは、工房用の大きな壁付きの建物の前にいた。十歳ばかりの年長者二人が、まだ手伝いもままならぬ幼子たちの面倒を見ている。
「あ、イサセリさまぁ」
足に抱きついてきた童子の頭を撫でる。全員を抱きかかえる体力がイサセリにはない。一人抱くと他の子もねだるため、いつも撫でてやることしかできないことが申し訳なかった。
「なにをしていたんだ」
「かけらをつんでるの」
「だれがいちばんたかくつめるか、しょーぶしてるの」
彼らの足元には、割れた土器の欠片が積み重なっていた。土器ではなく石を積み上げている子もいる。なるほど、とイサセリは頷いた。冬になると、土器や青銅器、石器などを製作する工房の周囲には、こうした遊び道具がたくさん落ちていた。
「手を切らないようにな」
年長者二人の目を見てから、イサセリは里の奥へ進んだ。
炊事場や工房の内側には、里人たちの住居が五つ、円をなすように等間隔に並んでいた。どれも成人の男四人が入っても窮屈しない大きさだった。炊事場と同じく地面に穴を掘って作ってあるが、屋根の作りは違っていて、藁のかわりに栗の木の樹皮を敷いて土を被せていた。こちらの方が暖かく、住居に適しているのだ。
さらに内側には、高床の貯蔵庫が二つあり、一つには収穫した米や麦、稗や粟といった穀物を、もう一つには農具や漁具などを収めていた。
そして、里の最も中心にそびえ立つのは、モモソヒメの邸だった。イサセリは首を後ろに反らし、高床の二階建ての建物を見上げた。十人の宮女と三人の祝とともに姉が暮らすその邸は、正門横の見張り台を除けば、里で最も高い。里人は常に巫女を見上げながら生活しているのだ。
イサセリもかつてはこの邸で暮らしていた。当時はまだ母も生きていた。戻ることはかなわない穏やかな幼少期である。
邸からは大王や里長たちの声が聞こえてきた。これからについての話し合いが続いているらしい。まだ山に留まっておくべきだったかな、と思いながらイサセリは邸の横に建てられた我が家へと戻った。
二年前、十四歳で成人した時に新たに建てられた家だった。作りは里人たちと同じ。モモソヒメからは「高床で作ればいいのに」とさんざん文句を言われたが、何の役にも立っていないイサセリである。立派な家に住む気にはなれなかった。
家の中は出入り口から漏れる光があるだけで暗かった。光を遮らぬよう壁沿いを歩き、奥にある棚に近寄った。
土を盛り上げて作った棚には、弓矢や木の根で編んだ籠が並んでいた。それらの横に首飾りがあった。首飾りは土器で作った専用の台にかけられている。青色ガラス製の管玉が紐に等間隔に通され、親指の爪ほどの翡翠の勾玉が先端に付けられた豪華な品だった。
イサセリは首飾りの前に、摘んできたノゲシを三本置いた。勾玉を撫でる。ひんやりとしていた。
この首飾りはイサセリの亡き妻の物だった。成人してすぐ隣の里から娶った妻アズキ。彼女は、幼いころから病気がちだったイサセリとは対照的に、溌剌と生命力に満ちていた。
しかし、そんな彼女は里に来てわずか三ヶ月でこの世を去った。高波にさらわれ、あっけなく逝ってしまった。消極的なイサセリが感化されるほどの明るさを持っていた彼女が先に旅立ってしまうとは、残酷な皮肉だった。
「アズキ」
イサセリは妻の名を呼び、今日の出来事を静かに語りはじめた。
「今日は、弟と言い合いになってな」
彼は首飾りに向かって小さく息を吐いた。
「大神の思し召しは、私には荷が重すぎて……」
未来への不安や神託の重圧。すべてを、先に旅立ってしまった妻に預けるように、イサセリは一人家の中で言葉を紡いでいった。
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