恐怖症クラブ「包丁」

「死ね」と言われた。

「一緒に死んで」と言われた。

 込められている感情は全く違う。

 けれど共通してもたらされるのは命の終わり。

 銀色の閃き。

 それを拒絶するのは、本能だ。

 忘れていた。ずっと。

 ずっと、忘れたフリをしていた。



 ぞり。

「いってぇ!」

 

 残業中、鳥肌がたつような嫌な痛みを指先に感じて、思わず飛び上がってしまった。

 

「大丈夫?」

「ヘーキヘーキ」

 

 顔を向けた同僚に反対の手を振った。

 見れば何のことはない、コピー用紙で指を切っただけだ。

 少し深かったようで、右手の親指の腹に走った線に沿って血の玉が膨らんでくる。

 舐めとると誰でも知っているであろう血の味が口の中に広がった。

 

「負傷したんで帰っていいっすか」

「明日早出するならね」

「げー、キビシー。早出って手当つかないのに」

 

 大袈裟に騒いでしまった照れ隠しに、冗談を交えながら残りの仕事を片付ける。

 今日は早く帰ってやりたいことがあった。



「よし」

 誰もいない部屋に帰り、電気を点ける。荷物を放り、キッチンへ。

 妻と子どもは実家に里帰りしていた。

 1人の内に料理の練習をして、帰ってきた家族を驚かす。妻が家を空けるのが決まった時から、密かに決めていた。

 愛する家族の驚いた笑顔が楽しみだった。

 

 肉と野菜、調理器具を並べて包丁を握った時、利き手の親指が痛んだ。

 絆創膏に血が滲んでいる。

 さっき紙で切った感覚が蘇った。皮と肉の間を鈍い異物が通り抜けていく痛み。

 頭を振って振り払い、包丁を握り直す。

 猫の手。左手の指の背に冷たい金属が当たる。

 

「う……っ!」

 

 不意に、左の肩から鎖骨にかけて引き攣れるような痛みが走った。

 それは親指の小さな傷などとは比べにならない。

 堪らず包丁を離して作業台に肘をついた。

 

 肩を押さえた手の下、そこには薄い線状の古傷が残っている。

 まだ幼い頃、心を壊した母に切り付けられた物だった。

 とうに塞がり、わずかに白い痕が残るだけのその傷が、まるで今し方出来たように鋭く痛んでいる。

 

 目の前に、包丁が光っていた。

 昨日までは何気なく毎日見ていたその薄い刃が、とてつもなく恐ろしい。

 

 あの日、包丁を振りかざした母は、自分に死ねと繰り返した。

 体の中をあの冷たい刃が通り抜け、次の瞬間熱が爆発する。

 狙われたのは首だった。

 死にたくなかったから、避けた。

 怖かった。

 まだやりたいことや見たいことが沢山あった。

 

「母さん」


 自分の声が耳に届いて初めて、もういない母を呼んだことに気付く。

 今の自分は、あの時欲しかった「沢山」を手に入れた。

 なら今この傷が痛むのは。

 もう良いだろうということか。


 ──良くない


 もっと、ずっと先を見たい。

 だから、その為に包丁を取って。

 俺が切り付けるのは命を持った肉ではなく、家族の為の糧であるべきだ。

 

「もう、許してくれよ……」


 刃境が白く光る。木製の柄を握った指が痛んだ。

 指と肩だけではない。

 生き延びる為に負ってきた傷が全て、今出来たように痛む。

 もう満足しただろうと。猶予は終わりだと。

 俺は本当はあの時、死んでいたのだと。

 

 ようやく欲しかったものを手に入れたのに。

 この残酷な余暇は何の為だ。

 

 切先が皮膚を破り肉に潜る、刃先が傷口を伸ばしながら、その切先を引きずり内側を裂いていく。

 紙で指を切った時の様に、その痛みがありありと思い起こされる。

 握り締めた銀色が震えるほど恐ろしいのに、痛んでいる筈の指が離れなかった。

 

 不意に思い至った。

 この先も、欲しかったものを手放さない為に。



 

「ただいまぁ」

「パパぁ、おみやげー!」

 

 軽やかな声が、澱んだ空気を揺らす。

 小さな足音が、フローリングを駆ける。

 大切なもの。

 自分にもう猶予がないのなら。

 あの時死んでいたのなら。

 これは死ぬ前に見た夢で、幻。

 俺が欲しがったから与えられたもの。その為の余暇だった。

 なら持って行ってもいいだろう?


 まな板の上の野菜は溶け、肉は腐臭を放っている。

 全身が痛む。


 銀の光だけが、俺を支えていた。

 


ーーーーーーー


この作品の中の一編です。

「恐怖症クラブ」

https://kakuyomu.jp/works/822139838019962225

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