あなたの車で、極楽まで

南條 綾

あなたの車で、極楽まで

 この小説はフィクションです。

登場する人物・団体・地名などは実在のものとは一切関係ありません。

また、本作には風俗業を題材とした描写が含まれます。

風俗業に従事する方々への敬意を欠く意図は一切なく、あくまで一人の女性の感情と恋愛を描くための設定として用いています。



 今日も私はあの人のいる場所に、あの動く密室に。年末の朝、凍えるような空気の中、ラブホテルのネオンがまだ薄暗く残っていた。別れた客は本当に最低だった。何度も本番をせがまれ、断ったら「いくらならいい?」と平気で聞いてくるような男。ようやく解放されて、コンビニで買った缶ビールを一気に飲み干し、フラフラしながらタクシーを呼んだ。


 少しして、タクシーが横付けされた。ドアを開けた瞬間、息が止まった。運転席に座っていたのは、信じられないくらい綺麗な人だった。黒髪を短く切り揃え、制帽の下から覗く顔立ちが整いすぎていて、朝の薄青い光の中でまるで別世界の人のようだった。疲れきった私の目に、彼女は眩しすぎたし、何でこんなきれいな人がタクシーの運転手って思った。


「おはようございます。お客様、どちらまででしょうか?」


 丁寧な声で自己紹介をされたけれど、私はただ見とれてしまって、ぼんやりと呟いた。


「……極楽」


 彼女は一瞬だけこちらを見て、それから静かに微笑んだ。


「極楽ですね。わかりました」


 え? 本当に極楽に行くの? と思ったけど、この人と一緒にどこか遠くへ消えて死ねるならそれでもいい、なんて酔った頭で考えてしまった。


 車が走り出して30分ほど経った頃、突然道路脇に停まった。


「ここからどちらに向かえばいいのですか?」


 振り返った彼女の声に、私は慌てて窓の外を見回した。


 ……え?てっきり、青木ヶ原樹海みたいな鬱蒼とした森とか、崖っぷちの山道とか、そんな薄暗い場所に連れてこられると思ってたのに。


 ここは、静かな丘の上にある住宅街だった。道はきれいに舗装され、両側にゆったりとした一軒家が並んでいる。白やベージュの外壁、手入れのされた庭、植え込みの低い生垣。街灯が等間隔に立っていて、朝の薄い光に照らされて、まるでモデルハウスが並んだ分譲地のよう。


 明らかに、普通のいや、ちょっと上品すぎるくらいの高級住宅街に見える。


「ここ……どこ?」私は呆然と呟いた。


「お客様は、極楽と言いましたよね?」


「言ったけど……ここどこよ」


 確かに言った。彼女があまりに美しくて、疲れきった心が一瞬で癒された気がして、つい口走っただけなのに。


「名古屋市名東区に『極楽』という地名はありますが、ここではありませんか?」


 彼女の声に少しからかうような響きが混じっていた。


「そうじゃないって、わかってるでしょ……」


 私が睨むと、彼女はくすっと笑った。


「数千円で命を捨てるつもりはないので。それに、泣いたら可愛い顔が台無しですよ」


 可愛い、って言われた。心臓が跳ねた。


「どうせあんたも、風俗嬢なんて最低だと思ってるんでしょ」


 酔いと疲れと悔しさで、つい心の底をぶちまけてしまった。彼女は少しだけ眉を寄せて、静かに首を振った。


「どうしてですか?」


「同じ女として情けないとか、そんなこと思ってるんでしょ」


「私は立派なお仕事だと思いますよ」


 予想外の言葉に、私は目を丸くした。


「なんで?」


「相手を癒してあげてるじゃないですか。今日のお客様がどんな人かわかりません。心身を酷使して、それでも相手に寄り添うのは、本当に大変なお仕事だと思います」


 誰も、そんな風に言ってくれたことがなかった。元カノにも、友達にも、同僚にも。みんな優しいふりをして、どこかで軽蔑してるのがわかったのに。胸が熱くなって、涙がこぼれそうになった。


「あの……先日風俗嬢だってバレて、恋人に捨てられたんです。今日の客にも、気持ちいいことしてお金もらえるなんて最高の仕事だよな、って言われて……悔しくて。でも客だから怒れなくて」


 声が震えた。彼女は黙って聞いて、それから静かに言った。


「辛かったですね」


 それだけで、堤を切ったように涙が溢れた。


 それから二週間近く。私は毎日のようにタクシーを呼ぶようになった。アプリに指名機能はないから、ただ運を天に任せて呼ぶだけ。でも不思議と、彼女の車が来る確率が高い。まるで誰かが、私の願いを聞いてくれているみたいに。


 今日も、後部座席に滑り込むと、いつもの匂いがした。柔らかい石けんと、少し甘いタバコの残り香。


「おはようございます。今日はどちらまで?」


 バックミラー越しに見える横顔が、朝日の中で優しく光る。


「適当に回ってくれますか。時間、ありますから」


 彼女は小さく笑って、車を走らせた。


「わかりました。いつものコースで」


 高速に乗って、窓の外の景色が流れていく。私は勇気を出して、口を開いた。


「この前話したこと……覚えてる?」


「覚えてますよ。全部」


「私、あれからずっと考えてた。あなたが、あんな風に言ってくれたこと」


 彼女は少し黙ってから、静かに続けた。


「私も、考えてました。お客様がそんなに辛い思いをしてる理由を」


「理由なんて……お金が必要だっただけ。でも、もうこれしかできないって思っちゃって」


「そんなことないですよ」


 信号で止まった時、彼女は初めて振り返った。まっすぐな瞳で私を見つめて。


「お客様は優しい人です。相手の気持ちになって癒やせる人。だからこそ、傷ついてるんだと思います」


 胸が締めつけられた。


「……どうして、そんなことわかるの?」


「なんとなく」


 彼女はまた前を向いて、車を走らせた。


「それに、私も似たようなことがあって」


「え?」


「昔、好きだった人に仕事を知られて、離れていかれたんです」


「タクシー運転手が?」


「夜遅いし、女一人で危ないって。でも私はこの仕事が好きで。お客さんと少し話せて、いろんな人生の端っこを見られるのが」


 私は息を呑んだ。


「それで……その人とは?」


「別れました。でも後悔してない。このままでいいって思えたから」


 車が海沿いの道に入った。冬の海が静かに広がっている。


「ねえ、私のこと……どう思ってる?」


 沈黙の後、彼女がミラー越しに私を見た。


「最初に会った時から、綺麗な人だなって思ってました。疲れてるはずなのに、泣き顔さえ綺麗で」


 心臓がうるさいってば。


「それから、毎日会いたくなって。指名じゃないのに、私の車が来るように……実は、ちょっとズルしてるんです」


「ズル?」


「会社の人に頼んで、お客様が呼んだらできるだけ私に回るようにって」


 涙があふれそうになった。


「……そんなこと、してくれてたの?」


「うん。だって、会いたかったから」


 車が小さな駐車場に停まった。誰もいない海岸。彼女はエンジンを切って、ドアを開けた。


「ここ、私の好きな場所なんですよ」


 私も降りて、隣に並ぶ。冷たい風が吹くけど、彼女の隣は温かい。


「名前、聞いてもいい?」


 彼女はタバコに火を付けながら、ふっと笑った。


「明美。佐藤明美です。……運転席のネームプレートにも書いてあるんですけどね」


 最後に小さく付け加えた言葉に、照れが混じっていたように聞こえた。


「私は綾だよ。紫微 綾」


 私は胸の奥が熱くなった。


「明美さん……」


 初めて名前を呼ぶと、彼女はタバコの煙を横に吐きながら、ちらりとこちらを見て微笑んだ。


「綾さん、って呼んでいいですか?」


 初めて名前で呼ばれて、身体が震えた。明美さんはタバコを地面に落として靴で消し、それからそっと私の手を取った。


 嫌な感じは、しなかった。むしろ、このままずっと握っていてほしいと思った。


「今日、これで仕事上がろうかな。一緒にいてもいいですか?」


 私は強く握り返した。


「うん。ずっと、一緒にいたい」


 海風が髪を乱す。明美さんがそっと肩を寄せて、私の肩に頭を預けた。


 極楽なんて、地名じゃなかった。この人の隣に、あったんだ。二人きりの、この小さな世界に。


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