歓喜の歌

藤田真暢

本文

 深雪みゆきが私に会いたがっているらしい。音楽大学付属高校時代の友人で今も付き合いがある茉白ましろが教えてくれた。

みどりの連絡先を教えてほしいというメッセージが届いたんだけど、翠がどう思うかわからなかったから私が代わりに伝えるって返した」

 軽やかな口調で茉白が説明する。

「気を遣ってくれてありがとう」

 スコーンを二つに割りながら答えた。平常心でいなきゃと思うけど、そんなことを思う時点で動揺している。いたたまれないって今のような気持ちを言うのだろう。消えてしまいたい。でなきゃ、記憶を消したい。両耳を押さえて地面を転がりたかった。負け犬なのはかまわない。オペラ歌手になる夢を諦めて文学部に通っているのは、別にいいやと割り切れる。音大に進んだ後で才能のなさに気付くよりも、先に見極めがついて良かったと八割程度は本気で思う。だけど、私は高校の卒業公演オペラのオーディションに落ちた自分を受け入れることができずに歌を棄てたのだ。当時は深雪がズルをしてオーディションに受かった――親が高校に多額の寄付をしたおかげで受かったことが許せなくて歌を棄てたのだと思っていたけど、違う。そんなのはただの口実で、本当は自分の負けを直視できなかった。

 どんな形でも負けは負けだ。歌唱力という唯一自信があることで負けてしまった。その事実に耐えられずに逃げた。弱虫。卑怯者。それが私。

 茉白にはそんな事情を打ち明けていないけど、茉白以外の音楽関係の知人全員と縁を切り、音楽の話を避けているから、勘の良い彼女が気付かないわけがない。茉白の気遣いが私を刺す。

「深雪は休学してるんだよね?」

 以前、茉白が教えてくれたことだ。茉白自身スランプだったので、その流れで深雪の話が出た。「どこまで馬鹿だったんだろ」高校時代の私たちを振り返って、あの時、茉白は苦い口調で呟いた。音大付属高校という小さな島の中であの子は抜群の才能があるなどと品定めしたものだ。器楽志望なら、小島での評価も意味がある。楽器の演奏者として何者かになれる人は幼児期に楽器の稽古を始めている。どれだけ才能があっても小学校以降に楽器に触れた人は、クラシックの音楽界では生きていけない。だから、高校時代には誰が同世代のライバルか見極めがつく。でも、歌は違う。専門教育を受けるのは中高あたりでも遅くない。「あの子は才能がある」なんて高校で評判になっても、大学ではもっと才能のあるダークホースが現れる……。そのことを、高校時代の私たちはわかっていなかった。自分たちが天下を取るのだと勝手に信じていた。今の茉白はたいしたことがない自分の立ち位置を理解した上で努力を続けている。栄光への道は以前想像していたほど楽ではないし、結局挫折する可能性も大きいけど、それでも夢を追うと心を定めた。

 深雪には無理だった。才能あふれる新しいライバルの存在を受け入れることができず、心を病んで休学した。――休学中の深雪が私と連絡を取りたがっているなんて。思い出したくない記憶。音大には行かないと決めた時、深雪は「翠がいてくれないと不安だよ」と自分のことだけを考えて(と私には思えた)私を引きとめようとした。口論になって、本音をぶちまけてしまった。違う。全部ぶちまけたならまだよかった。でも私はその期に及んでも深雪を傷つけるのが怖かった。多分、深雪をまだ愛していたのだ。だから、「あんたがオーディションに受かったのは親が高校に寄付をしたおかげだよ」とは言えなかった。代わりに、オーディションの審査に不正があると、深雪にしてみれば負け犬の遠吠えにしか聞こえないようなことを口にした。

――よくそんなこと言うね。不正があったなんて。翠、あんた、メゾソプラノの自分がソプラノの私にカルメンを取られたのが悔しくて仕方ないんだね。メゾの頂点に立つ役を取られたのが悔しいんだね。悔しいからって、馬鹿なことを言わないでよ。

 泣きながら深雪は私を怒鳴りつけた。違う、違う。心の中で否定した。あんたの両親が――だけどそれを言ったら、深雪は壊れてしまうかもしれない。そう考えた私は彼女の許を去った。卒業まで口をきかず、目を合わせもしなかった。

 あんなことがあったのに、今更私に会いたいなんて。休学して、私が正しかったと悟ったのだろうか。自分がカルメン役を勝ち取ったのには裏があったと気付いたのだろうか。自分の才能なんてたかが知れていると……。

「深雪は休学して、軽井沢にあるホテルにいるみたい」

 茉白が答える。

「ホテル……?」

「表向きは。本当は心を病んだ富裕層向けの施設なんだって」

「そう……」

 親が深雪をその施設に入れたのだろう。金で娘の役を買うような親だ。あたたかい再会にはなりそうにない。カップの底に溜まったジャスミンティーを見つめて、私は左の奥歯を食いしばった。


    *


 結局、深雪と連絡を取ることにしたのだけど。そうすべきだとリラに言われたからだ。リラは私の部下――大学生のバイトだけど、私には部下がいる。リラのような準難民や出来の良くない日本人が私の指示で動く。

「嫌なことをされて友達をやめたのなら赤の他人になってもいいけど、そうじゃないんでしょ」

 部下といってもリラは三つ年上だし、準難民でなければ社員にだってなれる人材だ。ため口で話そうと言ってある。

「私が悪かったんだよ。本当のことを言う代わりにとってつけたような話をして、その子を傷つけてしまったから。一番良くないやり方だった。ちゃんと本音で話すか、全部自分の中で処理するか、どちらかにすべきだった。気を遣って嘘をついたつもりが、かえってその子を傷つけたなんて、ほんと最悪。だけど、正直、もう昔の話だって気持ちもあるんだよね。今は全然違う生活をしているから、彼女のことも――そりゃ、こうして話すとあの時ああしていればと悔やむ気持ちが湧き起こるけど、普段は思い出すこともない」

「過去の記憶って、思いがけない時に蘇るものだよ。時には手遅れになってから」

 リラが硬い口調で呟く。普段と同じ穏やかな表情だったけど、背伸びしてわかったようなことを言っているわけではなく、これは彼女の実感なのだと私は考えた。リラの一家は祖父母の代に祖国を離れ、苦労して日本での暮らしを築き上げたのに、父親の仕事が日本人の職を奪っていると認定されたことで生計を立てる術を失った。リラに聞くまで知らなかったけど、あの時期に仕事を失った人たちは日本人が失った利益を補填するために追徴金を取られたのだそうだ。リラの祖父や両親は高収入だった分追徴金の額も大きく、準日本人の資格を得るための保証金を用意できなかった。一家は日常生活での制限が多い準難民になり――それでも、自分たちは家族で暮らせているだけいいとリラは話していた。日本語しか話せないのに親の出身国に送り返されたり、親と引き離されたりした友達もいるそうだ。親にそういう話をすると、お前は甘すぎると言われる。実社会の厳しさを知らないから、準難民に同情したりするんだと。日本人が得るべき権利やお金を横取りした奴らの話なんて聞かなくていいと父は苛立たしげに語った。外国人対策に日本人が納めた税金が遣われたのは本当かもしれないけど、私だって高校授業料無償制度を利用して音大付属高校に行ったのに音楽をやめてしまった。税金を無駄にしたことになる。そういう日本人は他にも大勢いるだろう。そのことに思い至らない両親が信用できないから、彼らが何を言おうが、私にとってリラの言葉は大きな意味を持つ。


お久しぶり、翠! 私、第九で独唱するの! 聴きにきてくれるよね? 絶対来てね!!


 私が送ったメッセージに深雪はこんな返事を寄こした。音楽療法だろうか? 深雪のように自分の限界を悟って心を病む若き音楽家は珍しくないので、みんなで第九の演奏ぐらいできそうだ。または、どこかのアマチュアオーケストラのプログラムに参加するのかもしれない。深雪は優秀な歌い手だ。高校時代には抜群の才能とか逸材という言葉が深雪を飾った。茉白の話では大学に入ってからはかなり調子を落としていたみたいだけど、精神的な理由によるものだから、気分が安定すれば以前のように歌えるだろう。深雪の親を疑ったことを申し訳なく思った。お金でカルメン役を買ったのは大きな過ちだけど、彼らなりに深雪を愛しているのは間違いない。今回は、深雪のためになることにお金を遣ったのだと思う。音大からEUに留学して一流のオペラハウスで歌うことを夢見ていた深雪が無名オケの演奏する第九に出演することを嬉しげに報告するなんて、と泣きそうになったけど。そんな自分が嫌だ。アマチュアオーケストラを見下すなんて。歌うことではなく、名声を得ることが私の目的だったに違いない。だから、たかが高校の卒業公演のオーディションに落ちた程度で歌の道を断念してしまったのだ。

 アイドルになれなかった私は、別の道で脚光を浴びることを望んだ。それなのに一度の挫折で何者でもない生活に逃げた。

 もっとも、深雪は私以上に名声を欲していた。私の野心は心の奥底にしまわれていたけど、深雪は高校生の時から貪欲に成功を求め続けた。その姿に一時は惹きつけられたものの、結局は袂を分かつことになった。彼女の強すぎる欲望についていけなくなかったからだ。彼女は夢見た。大きな成功を。はなやかな賞賛を。そんな彼女が今は。泣きそうになりながらも、あの執着を手放せたのはいいことだと深雪のために喜ぼうとした。

 一つだけ、不安なことがあった。深雪のIDが高校時代と変わっていたのでバイト仲間に見せると、これは制限付きのIDだと言われたのだ。

「僕の叔父さんのIDもこれと同じで普通のよりも短いんだ」

 浅見君が不安そうな表情で言った。

「叔父さんは心の病気なの?」

「そうじゃない。あのさ、翠ちゃん、この話秘密にしてもらえるかな?」

「もちろんだよ」

 そう答えるしかない。浅見君と秘密を共有するのが嫌だ。浅見君は私を好きだから、このことに意味を持たせたがるだろう。

「実は、叔父さんは奥さんへのDVで実刑判決を受けたんだ。罰金刑だけど、奥さんへの接近禁止命令以外にゴーグやイドバタの利用もかなり制限されているらしい」

「リラに聞いたけど、準難民はイドバタを利用できないんだって。音楽はだいたい何でも聴けるけど動画はNHKだけとか色々あるみたい」

「それと似たようなものだね。叔父さんはゴーグを悪用して奥さんの居場所を突きとめたりしたから、V空間へのアクセス権を制限されているんだ。メッセージも自由に送れない。叔父さんが書いた文章をAIが――ヒデコとは違う別のAIが修正するんだって」

「そんなことまで……」

 準難民であるリラはメッセージを送れない。公的機関や勤務先の公式メッセージを受け取ることはできるけど。ひどい話だと思ったけど、内容をチェックされる方がもっと悪いかもしれない。多幸感に満ちたあのメッセージは、AIが書いた文章なのだろうか。深雪の場合、調子が良い時はああいう文章を書くので何とも言えない。

「浅見君の叔父さんは犯罪者だし、DVって依存症と同じでやめられないんでしょ? 色々制限されるのも仕方ないかな。でも、心を病んだってだけで、生活を制限されるのはどうなんだろう」

「それはそうだね、怖いよな」

 私が言うことなら何でも賛成してくれる浅見君はそう答えた。だけどよく考えたら、イドバタのせいで症状が悪化するなんてこともありそうだ。心を病んでいない私だって、ネガティブな投稿を読むと気が滅入る。制限した方がいいかもしれない。そういえば中学生の時、後に心の病だと診断される生徒が一部の同級生を批判しまくった。根拠のない批判や少しは根拠があるにしてもそこまで責めることもないと思ってしまうような批判が多かったけど、矢継ぎ早に繰り出される熱に浮かされたような批判をまるっと信じる生徒もいた。激しい批判に対して同じぐらいの激しさで反論する生徒もいたから、そのうち彼女に同調するグループと反論するグループに分かれて学校が戦場のようになった。私は元アイドルということで煙たがられていたので、どちらのグループにも属さずにすんだけど、中二のクラスでは五人が不登校になった。「あんな悪口を真に受けたり、それに乗っかって自分も悪口を言ったりしなきゃいいのに」と思ったけど、はみ出た存在だからそう思えたのだろう。中にいれば、私も巻き込まれて熱くなっていたかもしれない。彼女がおかしいと気付いたのは彼女の親だった。一週間ほど徹夜で悪口を造成していたらしい。それで病院に連れていくと、心の病だと診断された。彼女がいなくなった後もグループ間の対立は続いたけど、前ほどの勢いはなかった。他の生徒には彼女のような対立を生む激しい文章は書けなかったからだ。あの文章は彼女が書いたわけではなく、彼女の病気が書かせたのだとある先生が話していたけど、なるほどなと思った。彼女には悪いけど、正常な頭からあそこまでの罵詈雑言は生まれない気がする。一人の生徒の病気のせいで、あれほどの対立が生まれるなら、V空間への参加を制限されても仕方ない。

 制限されたIDを持つ深雪が心配だけど、制限するしかない状態なのだとしたら、その方がより心配だ。

 縁が切れたと思っていた子に心を乱されるなんて。私は何を求めているのだろう。


    *


 軽井沢には高速バスで行った。駅前で降りて深雪が送ってくれた座標の場所まで歩く。「奥軽井沢ホテル&リゾート」と書かれたバスが私を待っていた。自動運転ではないようで、ちゃんと運転手がいる。私が名乗ると、「お待ちしていました、中原様」と言ってほほ笑んでくれたので驚いてしまった。学校の遠足や部活の遠征で運転手付きのバスに乗ったことがあるけど、感じの悪い人ばかりだった。バスの運転手は特殊技能の持ち主なので、客に暴言を吐いても仕事を失わずにすむ。そのうちヒューボが車の運転をするようになるという話もあるけど、どうなんだろう。ヒューボが人身事故を起こしたら、だからアンドロイドはダメだという話になりそうだ。人間の運転手が事故を起こしたらその人個人のせいにされるのに、ヒューボの場合は連帯責任になる。だから、能力のわりにヒューボはショボい仕事しかしないのだと聞いたことがある。失敗してもあまり問題にならないような仕事にしか就かない。まあ、運転手の方だって機械に仕事を奪われたくないだろうけど。

 十五分ほどでホテル&リゾートに着いた。立派な門とその奥に見える手入れされた庭――本物のリゾートホテルのようだ。小学生の時、アイドルプロジェクトのミニ企画で私たちの班が優勝した。その賞金で房総半島に行った時、私たちの家族が泊った民宿の近くに、ここと似たリゾートホテルがあった。そこのレストランで食事しようとしたのに、会員制だから立ち入り禁止だと言われてエントランスで追い返された。私たちの服装が安っぽいから追い払われたのだと母が言い、父は賞金が入ったからといって分不相応な店に行きたがるお前が悪いのだと言って母をなじった。旅行が終わるまで、冷ややかな空気に耐えなければならなかったから、こんなことになるなら優勝しなきゃよかったと思った。だけど、もしかしたらあのホテルもここと同じで療養所だったのかもしれない。

 療養所だと知っていても、こんなきれいな場所に滞在できるなんていいなあと思ってしまったけど。手入れされた芝生、ところどころに植わっているのは白樺だろうか。ウッドチップでできた道沿いには小さな赤い花をつけた低木が並んでいる。道の先に有名な建築家が設計したと思しきスタイリッシュなビルがあった。周囲と調和するように表面には木材が使われているけど、中は鉄筋だろう。中央にある小さな入口から小部屋に通された。コーヒーとクッキーを出してもらってますますホテルに来たような気分になっていると、次に現れた女性からゴーグをここに合わせて同期しますと言われた。ゴーグを同期させられると知っていたら、来なかったのに。音楽をやめても、ゴーグに頼らず自分の五感を養えという音大付属で叩き込まれたメソッドは私の中に残っている。家ではゴーグを外しているし、全体での同期がない大学を選んだ。ただし、バイト先ではゴーグを同期している。それが採用の条件だったからだ。他のバイトより時給がいいので、受け入れた。お金のためにできるなら、深雪のためにもできるだろう。私はゴーグが変更されるのを待つ。

「居住者の方々と話す時はゴーグの指示に従ってくださいね」

 待つ間に、柔らかいが有無を言わさぬ口調で女性が告げる。

「どういう時に指示されるんでしょう?」

「私どもでは居住者の皆さんの心の状態を何より重視しています。皆さんの心を傷つけかねないと私どものAIが判断した時にはゴーグを通じて正しい答えをお教えします。万一従っていただけない時には、このホテルから退去していただくことになります」

 彼女自身もゴーグの指示通りに語っているのではないかと思ってしまうほど、心のこもらない口調だった。AIの指示だったとしても受け入れるしかないけど。深雪と別れた時だって、深雪を気遣うつもりでひどいことを言ってしまった。今、深雪に会っても適切なことを言えるか自信がない。


 コンサートホールは渡り廊下でつながった別棟にあるそうだ。図書室とラウンジを通る。図書室では数人の居住者が読書中、ラウンジではいくつかのグループに分かれて談笑している。私のようなビジターが混じっているのかどうかわからない。穏やかな人ばかりだ。中学を戦場にした子だって見た目は感じが良かったので、この穏やかな雰囲気には何の意味もないのだけど。ラウンジで一人離れて絵を描いている女性が私に微笑みかける。母と同世代の高級系ナチュラル女性だ。

『挨拶してください』

 ゴーグが私に指示する。

「こんにちは」

「こんにちは。今日は友達を訪ねていらしたの?」

「そうなんです。高校時代の友達が第九で独唱するので」

「大室さんの友達なのね」

 女性は嬉しそうな顔をする。深雪の名前がさっと出たということは、他のパートはここの居住者ではないのだろうか。深雪一人のための音楽療法なのか。

「貴女もオペラ歌手?」

『音大の学生ですと伝えてください』

 変な指示だ。私は音大の学生ではないし、そう伝えたところで彼女が傷つくとも思えないのに。

「音大の学生です」

 思考を放棄して、ゴーグの指示通りに答える。

「そうなのね。芸術家の卵さんってわけ。よかったら、私の絵を見てもらえる?」

 芸術家の卵なら、絵を見せる価値があるということなのかもしれない。偏った思考だね。私は彼女の隣に行って、キャンバスを覗き込んだ。抽象画。薄い黄色を背景にしてピンクや水色の円や楕円が描かれていた。

「いい絵ですね」

 意味のないことを言う。音楽をやっていた頃は、気分転換によく画集を見た。水墨画の画集が好きだった。でも、好きという以外に評価軸がないし、絵を褒める語彙もない。

「子どもの頃を思い出して描いたの」

 円や楕円は彼女の思い出なのだろうか。そういえば、不快な気分になる絵を画集で見た。色合いにも形にも心がざわついた。有名な画家の絵だった。確かに忘れがたい絵だったけど――今でも、あの絵を思い出すと心がマイナス方向にざわつく。長く見ていたら、頭が痛くなりそうだ。ヒデコの話では、その画家は心の病を抱えていることを公表しているという。画家の心が絵に表れるなら、ナチュラル女性は精神的に安定しているんじゃないかな。深雪の病気は治ったのかもしれない。ここは実社会に戻るための訓練施設なのだろうか。

「貴女は画家なんですか?」

 女性に尋ねてみる。女性はまた小さく笑った。

「画家というほどではないけど、デパートでは何度か個展を開いたことがあるのよ。この絵は完成したら、銀座のアンドウ画廊に買い取ってもらうことになっているの。他にも私の絵を置いてもらっているから、銀座に用事で行かれた時は立ち寄ってちょうだいね」

 

 先にデパートで個展を開くような画家に会ったので、第九を演奏するのが日本国内では一、二を争う高名なオーケストラだと知った時も、それほど驚きはしなかった。深雪が心を病んで大学を休学し、ホテルと呼ばれる療養施設に入ったという情報には大きな欠落があるに違いない。

 絵とは違い、交響曲の演奏ならどの程度のレベルなのか自分なりの評価軸で判断できる。いい演奏だと思った。このオーケストラを生では聴いたことがないけど、Sミュージックのサブスクで聴いた演奏と比べても技術的に劣らない。一軍の団員が演奏しているに違いない。指揮もいい。知らない人だけど、音楽をやっていた頃だってオペラを振らない指揮者には詳しくなかった。目をつぶり、演奏に身を任せる。音楽をやめて以来初めて、自分の選択を悔やんだ。こんなに美しく気高くて――音楽それ自体が美しく気高いというだけでなく、この世にそうしたものがあると信じることができる。この音楽を聴いている時だけは。オペラもそうだ。悲しみ、喜び、怒り、苦しみ。人が味わうあらゆる感情を示してみせる。私の後悔を第九の演奏が昂らせ、そして洗い流す。涙が頬を伝ったけど、悔やむ涙ではなかった。

 三楽章が終わり、コーラスに続いて四人のソリストが舞台に入場した。一人は深雪だ。喜びに輝いている時の深雪だとわかる。自信にあふれ、自分の天命を確信する姿。私は深雪から目が離せなくなる。

 オーケストラが歓喜の歌を奏でる。バリトンもうまい。知らない人だけど、ここ二年で頭角を現したダークホースの一人なのだろう。そして、深雪。高校時代よりも高音部に磨きがかかっている。もともと張りのある声質だったけど、より感情豊かになったように思う。心を病んで休学したにしても、深雪はそこから蘇ったのだ。練習を重ねて、自分の限界を突破した。


一人の友の友になる

その大きな成功を勝ち得た者

心優しき妻を得た者は

己が歓喜の声を合わせよ


そうだ、この世にただ一人だけでも

心を分かち合う魂がある者も歓喜の声を合わせよ

そしてそれができなかった者は

この輪から泣いて立ち去るがよい


 私は歌う深雪を見つめる。おめでとう、深雪。あんたは私とは違う。一度の挫折で逃げた私とは違う。私は目を背け――そして、彼を見た。ヴィオラを弾く男性を。四年前にはアマチュアオーケストラにいた青年だ。そのオケが演奏会形式の『アイーダ』を演奏した時に、私を含め何人かの高校の生徒が参加した。うまいオケではなかったけど、高校生がオペラを歌える機会は少ないので贅沢は言えない。あの人、ここの団員になれたのか。そう思ったけど、違和感が残る。彼を覚えていたのは、オケの中でもヴィオラパートが特にひどかったからだ。指揮者も何度か叱っていたし、公演を聞いた茉白もヴィオラの弾き間違いを指摘していた。私はヴィオラの音色に耳を澄ませる。他のパートと調和した美しい音色だ。この程度の人数なら、彼が奏でる音を聴き分けることができる筈なのに。違和感が身体の奥から湧き上がる。

 私はゴーグを剥ぎ取った。アマチュアらしい、ぎこちない演奏が耳に流れ込む。そして、歓喜の歌も。


天の壮大な配置の中を

星々が駆け巡るように楽しげに

走れ、兄弟よ汝の道を

勝利を目指す英雄のように喜びながら


 男性二人とアルトは悪くないが、深雪は高音部がかすれている。

 ゴーグがまやかしを聴かせていたのか。

 深雪はこれを知っているのだろうか。ゴーグが創り出した仮想の中に自分が生きていることを。あの輝いた表情は。

 私は立ち上がる。

「深雪、ゴーグを……」

 右隣に座っていた上品そうな女性が私の口をふさいだ。私は身をよじって彼女から離れようとする。驚いたような、不快そうな目で私を見る客もいた。本物の客なのかもしれない。

「深雪!」

 深雪は歌い続ける。輝いた、幸せそうな表情で。この表情を損なう権利が自分にあるのだろうかと問いながら、それでも私は歩みをやめずに舞台に向って進み続けた。


 




 




 


 

 

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歓喜の歌 藤田真暢 @mayo_fujita

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