聖夜のビスクドール

天羽融

聖夜のビスクドール

 師走のかき入れ時だというのに、今日は人通りが少ない。


 街灯は落とされ、行き交う車もまばらだった。港街を、ひゅうと冷たい夜風が吹き抜ける。


 男は風に煽られて舞ってきた新聞を拾い上げた。朝刊の紙面には、東南戦線の戦況が大きく載っている。


『マレー半島へ奇襲上陸せり。神兵部隊、獅子奮迅の活躍により、クアラルンプール陥落間近』


 ジッポライターを灯し、ちり紙を読む。明かりの落ちた街灯の柱には、戦勝スローガンが貼られていた。


《欲しがりませぬ、勝つまでは》


 男は新聞をくしゃりと丸め、道へ放った。


 モノクロの紙片はくるくると回り、やがて闇に紛れて消える。


 小さく息を吐く。

 ここでの仕事も、そろそろ潮時かもしれない。


 ――都内へ行くか。


 赤坂や吉原は、まだ人が集まっていると聞く。

 親分には申し訳ないが、生活のためだ。


 明日、荷物をまとめて……。


 そう考えた瞬間、アスファルトに黒い影が伸びた。

 男ははっと顔を上げる。


 道の向こうに、人影が立っている。


 灰色の紳士服。つばの広い帽子を深く被り、顔は判然としない。

 仕立てのいい服に、磨かれた靴。右手には大きな旅行鞄。

 そして左手には、銀の杖。


 その姿を見て、男は静かに口角を上げた。


 ――久しぶりの〈鯨〉だ。


 客引きの男は、「旦那様」と声をかけ、旅行者へゆっくりと歩み寄った。







 重しのついた扉を開ける。

 安宿のベッドの上に、人形がいた。


 黒い髪が、シーツに広がっている。


「神戸港で拾ってきました。あそこには、物乞いのガキが余るほどいますからね」


 子供は無表情だった。

 だが、ひどく怯えているのがわかる。


 人形の縁にある青い瞳。

 それは男と紳士を映し出し、かすかに揺れていた。


 冷たい枕に、節ばった中年の熱い手が伸びる。


「見てください。かなりの上玉でしょう」


 商品の顔を掴み、客の前に突き出す。

 青は硝子だった。


 小便の臭いと、化粧瓶の香り。

 独特の陰気が、部屋に澱んでいる。


「異人交じりです。だから白くて、なよくて――日本人じゃない」


 男は帽子の陰から、じっと娼婦を見つめた。


 痩せきった体。肩には噛み跡、首には縄で締められた痕。

 体はぼろぼろだが、顔だけは無傷だ。店の方針がよくわかる。


 消耗させ、使えなくなれば、すぐに新しいものへ取り替える。

 実に粗末な商いだ。


 それでも、こうした嗜好を持つ者は後を絶たない。

 だから、この店は成り立っている。


 顔を掴まれた人形の、揺れる瞳を見る。


「……これは、いくらで買える?」


 揉み手で卑下た笑みを浮かべる店主に、男は平坦な声を向けた。

 途端に血相を変え、店主はそれは売り物ではないと言い張る。


 貸出用だ。客には出せない、と。


 売るのも貸すのも、大した違いはないだろう。


 男は旅行鞄から札束を取り出し、机の上に一枚ずつ並べた。

 やがて、店主は押し黙る。


 紙を捲る、かすかな音。

 人形の苦しげな息遣いを、安宿の壁が吸い込む。


 偽札がないか、一枚ずつ紙幣を確かめる店主の横で、男はベッドの縁に腰を下ろした。

 少女はずるずると枕の方へ身を引く。あまりに意味のない抵抗に、紳士は帽子の陰で小さく笑う。


 そして、細く白い人形の手を取った。


「おいで。うちへ帰ろう」


 抵抗が、止まる。


 沈黙が部屋に横たわる。

 店主も数える手を止め、理解できぬ顔で紳士を見つめていた。


「……帰る?」


「うん」


 それは、この地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。

 人形は「帰る」という言葉を、確かめるように口の中で反芻する。


 だが、直後。

 娘は困ったように俯いた。


 どうしたのだろう。


 男は、人形の身体に掛けられていた黄ばんだシーツを、ふと持ち上げた。


 股から、一本の足が伸びていた。


「…………」


 娘は黙ったまま俯いている。

 色褪せた黒髪が、額に落ちた。


「ああ、うちの子分がね。運ぶときに乱暴に扱ったもので」


 何でもないことのように、店主は紙幣を捲る。


「足を、片方潰してしまったんです」


 しばしの沈黙。


 やがて、客が杖を手に立ち上がる。


 店主は札束を懐に収めた。

 ――返せ、と言われるのだろうか。


 仕方がない。足一本分、差し引けばいい。

 それでも、十分すぎる金だ。

 これを元手に、また浅草で商売を――


 トン、と。

 銀の杖が床を打った。


 部屋の灯りが、消えた。








 震える小さな頭に、紳士は自分の帽子を被せた。


 シーツに包み、体ごと抱き上げる。


 扉を開け、静まり返った部屋を後にした。

 ギィギィと鳴る、古い木の階段を、ゆっくり降りていく。


 外に出ると、曇った空から雪が落ちていた。

 紳士は、はあと白い息を吐く。


 腕の中の温もりは、ひどく軽い。








『41年のイヴは、彼らの心臓を奪い去る夜となった。

 彼らの懐に飛び込んだサンタクロースは、大きな袋いっぱいに実弾を詰め込んでいた。

 日本軍からイギリス軍への贈り物は、香港島に上陸した巨砲陣による一斉射撃と、壊滅的な夜襲である――

 これが敗戦米英国民の消費生活。政府も悲鳴を上げる、Xマス気分……』


 男はラジオを止めた。


 耳障りな雑音が消える。


 人形は、目の前に置かれたパンと牛乳を、じっと見つめていた。


 男は黒パンを半分に割り、差し出した。

 発酵した麦の香りが、ホテルの部屋に広がる。


 食べてもいいという許しが出るまで、彼女は動かなかった。


 やがて、ゆっくりと口へ運ぶ。


 最初は遠慮がちだった。鳥のように啄んでいる。

 男が牛乳瓶をコップに注ぐと、今度は勢いよく食べ始めた。


 食欲はあるらしい。

 甘いカステラと、下の売店で買ってきた茹で卵も皿に出す。


 朝食を終えると、紳士は彼女を椅子から抱き上げた。

 ビロードのソファに横たえられ、重い瞼が閉じたり、開いたりする。


 昨夜は、よく眠れなかったのだろう。


 清潔な毛布を肩まで掛け、「おやすみ」と声をかける。

 すぐに、眠りに落ちた。






 三日後。


 帝都の空は、相変わらず曇っていた。


 彼は娘にぶかぶかのコートを着せ、首に赤いマフラーを巻く。三越の配給所で手に入れたものだ。

 膝に毛布をかけ、車椅子を押してホテルを出た。


 銀座の広場には、大きなツリーが立っている。柊の実が、少しずつ飾られていく。

 今日は、マレー占領の戦勝記念日だ。


 欧米の冬至祭を祝いたい人々は、これは天皇を寿ぐ門松だと、素知らぬ顔でもみの木を立てている。


 青い瞳がツリーをじっと見つめていたので、広場の中央まで進んだ。

 神戸港には異人が多い。こうした祭りも、見慣れたものなのだろう。


 飾り付けをしている者から柊の実をひとつ受け取り、人形に手渡す。


 小さな手の中の赤い実を見て、瞳が一瞬、瞬いた。


 ツリーの頂には、孤独な明星が光っていた。







 三カ月後。


 水の音で、男は目を覚ました。

 蛇口を捻る音。食器が触れ合う、かちゃりという小さな音。


 朝が弱い男は、それをベッドの上でぼんやりと聞き、ゆっくりと身を起こす。

 サイドテーブルの水を一口含み、キッチンへ向かった。


 人形の後ろ姿がある。

 一本だった脚に、もう一本、乳白色の脚が添えられていた。


 この街の技師に作らせた特注の足は、

 いつも不安げにこちらを見ていたビスクドールの瞳を、生き返らせている。


 後ろから蛇口を捻ると、肩が小さく跳ねた。

 倒れそうになる体を、男は抱き止める。


 まだ数歩がやっとだというのに、無茶をする。


「皿洗いはしなくていい。ルームサービスが来る」


 そう言うと、わかったような、わかっていないような顔で、こくりと頷いた。


 キッチンに飾られた柊に目をやる。


「おいで」


 濡れたままの手を取り、リビングへ向かう。


 朝食にしよう。









 旅行鞄を持ち、車椅子を押す。

 しばらく滞在していたホテルを出て、日比谷の公園を歩いた。


 ここは、まもなく地獄と化す。


 男は昨夜、枕の上で見た炎の海を思い返す。


 ――己の棲家に帰ろう。

 あそこには結界がある。安全だ。


 青い瞳が、冬空を見上げていた。

 褪せ、傷んでいた髪は、いまは緩やかに光を帯び、白いリボンでまとめられている。


 男もまた、久しぶりに澄み切った蒼天を仰いだ。


 どこかで、ヒヨドリが鳴く。

 そのとき、立春一番の風が吹いた。


 男は膝の毛布が飛ばされぬよう、身を屈めて押さえる。つばの帽子は吹き飛ばされ、広い空へと飛んでいった。

 やがて嵐は過ぎ、布の隙間から穏やかな陽光が射し込んだ。


 人形の手が、そっと動く。


 つむじに落ちていた枯葉を、白い指が摘みとる。

 

 青い瞳。


 かすかに微笑み、目の前の人へと差し出した。

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聖夜のビスクドール 天羽融 @amane_yu1

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