西遷の道に葡萄の風を
kanegon
第1話 葡萄の街
友人に見送られて長安の都を旅立った時は、春もたけなわだった。新緑の芽吹き始めた柳の枝が、春雨に濡れて青々と鮮やかだった。
そこから一カ月少々の旅の末に立ち寄ることになった西州 (トルファン) は、話に聞いていた通りの酷暑の地だった。馬上の元撝 (げんき) の顔から落ちた汗は、ひび割れた大地に落ちてすぐ消えた。土の中に染み込んだのか、暑さで蒸発したのか、分からなかった。
街の門衛に「過所」と呼ばれる通行許可証を提示すると、面倒臭そうながらも丁寧な対応で宿舎に案内してくれた。
北館と呼ばれる宿舎に入ると、荷物の片付けや馬の世話などを供の者に任せ、元撝は一人で西州の街を歩いた。
元よりの住民と、唐本国から派遣されている駐屯軍を合わせれば、数万人の人口を抱える街だ。辺境だから何も無いという漠然とした想像を抱いていた元撝にとっては、思っていた以上に活気があって賑やかな街だ。
埃っぽい街路のどこからか笛の音が聞こえて来る。これが辺塞詩に詠われる胡笳というものか。自分は都から遥々遠い西域の地へ来てしまったのだという実感がこみ上げる。
「ダンナ、大分お疲れみたいだけど、ブドウの搾り汁を一杯飲んでいかないかい? 旨くて元気になれて、この値段は安いよ」
話しかけてきたのは、三角帽子に濃い髭の露天商の男だった。顔立ちが漢人とは違う。俗に胡人と呼ばれるソグド人であろう。言葉は堪能な唐語だった。
「西州の特産品は葡萄でしたね」
「街の北にある崇化郷で栽培しているものだよ」
元撝は開元通宝を渡して葡萄汁をもらった。
一口飲むと、甘さと酸っぱさが渇いた身体に滲み入って活力を与えてくれる。
「皇后の爪跡は付いているけどタムガが無い開元通宝を持っているってことは、ダンナは唐の本国から来て、西へ旅して来たのかい?」
「よくお分かりですね。安西都護府へ向かう途中です」
ソグド商人は、ほんの些細な特徴から、開元通宝が唐本国で作られた物か、西方で鋳造された模造硬貨であるかを見分けるらしい。
「これから交河城や焉耆 (カラシャール) を通って、まだまだ厳しい道のりを行くことになりそうです」
露天商は一瞬首を傾げた。
「焉耆方面へ西に行くのに、わざわざ遠回りして交河城に寄って行く用事でもあるんですかい? 真っ直ぐ 南平城、安昌館を経由して天山館に出て、そこから礌石 (らいせき) 館へ向かった方が早いのに」
「えっ、交河は通らないのですか。土地勘が無いので、その辺は全然知りません。まあ安西へ行く理由が弔問使なので、それほど急ぎはしないのですが」
安西の要人が亡くなった。元は亀茲 (クチャ) と呼ばれていた都市国家の王族白氏である。それを受けて大唐帝国の玄宗皇帝は、楊国忠の助言を受けて、元撝を弔問使として派遣することを決めたのだ。玄宗皇帝は情に厚い人柄で、元撝などよりも遥かに格上の貴顕高官を遠方に派遣することも珍しくはなかった。
「話の途中で悪いが、ワシにも葡萄汁を一杯飲ませてくれんかね」
二人の会話に割り込んで来たのは、古びた明光鎧を着た兵士だった。髪も髯も白くなっていて、老人と呼んでよい年齢だ。楕円形の皮袋に包まれた荷物を抱えている。
ソグド人の露天商は明らかに嫌そうな顔をした。
「またアンタか。銭を払わずタダで飲める物は、ウチには無いよ。商売の邪魔だからさっさと礌石館へ帰れ」
「ケチなことを言うな。哀れな老人を労らぬ姿勢では商売も上手く行かないぞ」
「やかましいわ。以前に一度だけタダで飲ませてやったら、図に乗って、毎度毎度タダで飲ませろとやって来る。盗人猛々しい」
嫌悪感を隠しもせず、露天商は痰唾を地面に吐き捨てた。
「まあまあ、こんな暑い中で喧嘩をしていたら頭に血が昇ってしまいますよ。銭は私が払いますから、この老人にも一杯飲ませてあげてください」
元撝が更に開元通宝を出すと、露天商のソグド人は渋々といった様子で葡萄汁の入った杯を老人へ差し出した。
「銭さえ払ってくれれば文句は無いけど、ダンナ、お人好しは程々にしなよ。この范老子は、またダンナにタカリに来るような奴だよ」
范老子と呼ばれた老兵士は、味わいもせずさっさと葡萄汁を飲み干すと、放り投げるようにして杯を露天商に返した。
「ワシは、産まれた時から商人のソグド人のようなケチな恩知らずではないわ。銭を払ってくれた高貴なダンナには、お礼に自慢の琵琶をお聞かせしよう」
范老子は抱えている楕円形の荷物を示した。
先刻まで聞こえていた笛の音はいつしか聞こえなくなっていた。
「ケチはどっちだ。アンタは吐蕃か小勃律か突騎施あたりと戦って、とっ捕まって一生敵国で捕虜になってりゃいいんだ」
露天商が諸々の名前を出した通り、大唐帝国の西域戦線はとにかく敵が多い。出征したら最後、二度と故郷に帰れず屍を晒す可能性も高い。
元撝は今、帝国の辺境である辺塞詩の舞台に本当に来てしまったのだ。辺塞詩は実際にその地に行かずとも想像で詠まれることも多いが、辺塞自体は厳然と実在していて、戦争も実際にある。
「ケチ商人にタダで琵琶を聞かれたくないので、場所を移しましょう」
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