第6話|救えなかった命

病院の廊下を支配しているのは、静寂ではなく、無機質な機械音の集積だ。  人工呼吸器の規則正しい送気音、心電図モニターの電子音、そして、たった今止まってしまった「一人の人生」の残響。


 午前三時十五分。  六〇二号室のベッドを、恒一と美咲は挟んで立っていた。  数分前まで行われていた心臓マッサージの激しさを物語るように、ベッドの周囲には開かれたままの医療器具や、剥ぎ取られた心電図のパッチが散乱している。


「……死亡確認、三時十四分です」


 医師の低い声が響く。恒一は深く頭を下げた。隣に立つ美咲の肩が、微かに、けれど激しく震えているのを視界の端で捉えた。  二人が一ヶ月以上担当し、回復を信じて励まし続けてきた、絵が得意な老婦人だった。


「エンゼルケア、私がやります。朝倉さんは、ご家族への連絡を」  美咲の声は、氷のように冷たく、プロとして完璧に統制されていた。 「……わかった。無理はするなよ」 「仕事ですから」


 美咲は一度も恒一を見なかった。彼女の瞳は、すでに「亡き骸」となったものへと向けられ、その奥に押し込められた感情は、固く閉ざされたシャッターの向こう側に隠されていた。


 一時間後。  すべての処置を終え、遺族を送り出した二人は、示し合わせたわけでもなく病院の屋上へと向かった。  鉄の扉を開けると、切り裂くような冬の夜風が、白衣の中に溜まった死の残り香を強引に奪い去っていく。


 フェンス越しに見える街の灯りは、あんなにも無責任に輝いている。  美咲は手すりにしがみつくようにして、夜の闇を見つめていた。その横顔は、冷気で赤くなっているのに、どこか生気を失って陶器のように白い。


「美咲」  恒一が隣に立つ。彼女からは、きついアルコール綿の匂いがした。 「……佐藤さん、最後まで、お家に帰りたがってた」  美咲が、絞り出すように言った。 「退院したら、ひ孫さんの似顔絵を描くんだって。新しい色鉛筆を買ったのよって、あんなに嬉しそうに笑ってたのに。私のケアが、どこか……」 「美咲、それは違う」 「違わないわ! もっと早く異変に気づけていたら、もっと早く医師を呼んでいたら。私は、何を見ていたの? 毎日顔を合わせていたのに……」


 彼女の言葉が、風にかき消されていく。  美咲は、自分を責めることでしか、この喪失感に折り合いをつけられないようだった。彼女の指先が、鉄のフェンスを白くなるほど強く握りしめている。


 その時、二人の間に、不思議な光が灯った。  屋上のコンクリートから、ゆらりと立ち上がったのは、銀色の毛並みを持つユキと、金色の光を放つハルだった。  精霊たちは、いつもよりずっと大きく、そして悲しげに見えた。


 ハルが恒一の足元に寄り添い、低く唸る。 『恒一、言葉を飲み込んじゃダメだ。その熱を、今逃したら、彼女の心は本当に凍ってしまうよ』


 ユキは美咲の背中に飛び乗り、冷たい月光のような尾で彼女の首筋を撫でた。 『泣きなさい、美咲。あなたは誰かの死を背負うために看護師になったんじゃない。誰かの生を愛するために、そこにいるんでしょ?』


 恒一は、美咲の震える肩に手を置いた。  いつもなら、プロ同士として一線を引いてしまう場面だ。「お疲れ様」という乾いた言葉で済ませてしまう距離だ。  けれど、今の恒一の胸には、ハルが運んできた「家の中を見る目」があった。


「美咲。……つらかったな」


 たった五文字。  それは看護の技術でも、医学的な根拠でもない。ただの、共に地獄を見た一人の人間としての、剥き出しの言葉だった。


「……恒一、さん……」 「つらかったよな。俺も、悔しいよ。佐藤さんのあの笑顔、俺も大好きだった」


 恒一は、美咲の体を自分の方へと引き寄せた。  美咲は一瞬拒むように体を硬くしたが、次の瞬間、糸が切れたように恒一の胸に顔を埋めた。


「……っ、うあ、ぁぁ……っ!」


 声にならない慟哭が、夜空に溶けていく。  美咲の涙が、恒一の白衣を濡らしていく。その熱さは、先ほど触れた遺体の冷たさと残酷なまでの対比を成していた。  恒一は、彼女の背中を大きく、ゆっくりとなぞる。  そこには「看護師の朝倉さん」ではない、一人の、傷ついた「美咲」がいた。


 ハルとユキが、重なり合う二人の周りをゆっくりと回り始める。  精霊たちが動くたびに、凍てつくような屋上の空気に、微かな「春の予感」が混ざり始めた。


「俺たちが救える命には、限りがあるかもしれない。でも、一緒に悲しむことはできる。……一人で背負うな。俺がいる」


 美咲は、恒一の心音を聞きながら、必死に呼吸を整えていた。  鼻を突く消毒液の匂いの奥に、今朝一緒に食べた味噌汁の、あの温かい香りがかすかに残っている気がした。   「……ありがとう。恒一さん」  美咲が顔を上げる。その瞳は涙で洗われ、夜明け前の空のように澄んでいた。 「帰ったら……ナッツとおもちを、たくさん撫でてあげよう」 「ああ。そうしよう」


 屋上の東の空が、ゆっくりと白み始めていた。  まだ夜勤は終わっていない。あと数時間もすれば、また次の検温が始まり、新しい命との向き合いが始まる。


 けれど、二人はもう、別々の孤独に潜ることはない。  ハルとユキが、夜明けの光に溶けていくのを眺めながら、二人はしっかりと手を繋いだまま、戦場のような病棟へと戻っていった。


いかがでしょうか。 「救えなかった命」という看護師にとって最も重い出来事を通じ、二人が初めて「プロの顔」を捨てて、お互いの弱さを認め合う重要な回として描きました。





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