「もうボケたのか」修理不能の時計を「直す」と言い張る82歳の祖父。制止する俺を無視して、祖父が作業台で始めた"ある行動"に涙腺崩壊――。

@idolmv

「もうボケたのか」修理不能の時計を「直す」と言い張る82歳の祖父。制止する俺を無視して、祖父が作業台で始めた"ある行動"に涙腺崩壊――。

2026年、冬。

再開発で揺れる駅前の商店街に、時代に取り残されたような小さな時計店「大黒堂」があった。

店主の源次郎は82歳。

最近、独り言が増えた。誰もいない虚空に向かって、「おい、ハル。お茶が入ったぞ」と話しかけるのだ。

孫の翔太(28)は、それを見るたびに胸が痛んだ。

(じいちゃん、とうとうボケちまったか……)

翔太は、大手リサイクルショップの敏腕店長だ。

「壊れたら買い替える」が信条。効率こそが正義。

だからこそ、利益も出ないのに店を開け続け、あまつさえ亡くなった祖母(ハル)の幻影と暮らす祖父が、痛々しくて見ていられなかった。

「じいちゃん、もう店を畳もう。施設に入れば、楽に暮らせるんだ」

翔太がそう言うと、源次郎は寂しそうに笑って首を横に振る。

「ハルが……まだ店を閉めるなって言うんだよ」

翔太はため息をついた。死んだ人間に縛られて、生きている人間が苦しむなんて間違っている。

ある雪の降る夕暮れ。

一人の老婦人が店に入ってきた。

手には、完全に動かなくなった古時計。亡き夫との思い出の品だという。

「どこのお店でも断られてしまって……。でも、どうしてもこの時計の音がもう一度聞きたいんです」

翔太は職業柄、一目で判断した。

「お客様、これは中のバネが折れています。この時代の部品はもう世界中どこを探しても……」

「直るよ」

源次郎の声だった。

作業台の奥から、分厚い眼鏡を押し上げて出てきた。

「じいちゃん! 適当なこと言うなよ! 部品なんてないだろ!」

「あるさ。……なあ、ハル? お前もそう思うだろ?」

源次郎は、誰もいないカウンターの横に優しく微笑みかけた。

翔太は背筋が寒くなった。やはり、もう限界なんだ。

その夜。

翔太は店に残った。祖父が変なことをしないか見張るためだ。

源次郎は作業台に向かっていた。

時計は分解されていたが、やはり心臓部の「ヒゲゼンマイ」が金属疲労で折れていた。こればかりは、職人の腕があっても部品がなければどうにもならない。

「ほら見ろ。無理なんだよ」

翔太が言った時、源次郎は立ち上がり、店の奥にある仏壇へ向かった。

そこには、祖母ハルの遺影と、小さな可愛らしい置時計が飾られていた。

それは、源次郎が若き日にハルへ贈った、手作りの結婚記念時計だった。

源次郎はその時計を手に取り、作業台へ戻ってきた。

「じいちゃん……まさか」

翔太の声が震えた。

「……お客さんの時計と、ハルのこの時計。同じ年代の型なんだ」

「やめろよ! それ、ばあちゃんの一番大事な形見だろ!? 毎日ネジを巻いて、話しかけてたじゃないか!」

源次郎の手が止まった。

その背中が、小さく震えている。

「……ああ、そうだ。これをバラせば、わしとハルの『時間』は消えちまう」

源次郎は、愛おしそうにハルの時計を撫でた。

「でもな、翔太。……時計屋ってのは、思い出の番人なんだ。目の前で困ってるお客さんの時間を動かすためなら、自分の思い出くらい、喜んで差し出さなきゃなんねぇ」

そう言って、源次郎はハルの時計にドライバーを当てた。

「ハルも……『いいよ』って笑ってる」

パキン。

乾いた音がして、ハルの時計の裏蓋が開いた。

翔太は言葉を失った。

この人は、ボケてなんていなかった。

誰よりも深く、時計を、人を、そして亡き妻を愛しているからこそ、その愛を他人に分け与えようとしているのだ。

「……くそっ」

源次郎が呻いた。

老眼と手の震えで、移植するための微細なネジ穴が見えないのだ。

何度やっても、ドライバーが滑る。

「ハル……すまん。わしの目じゃ、もうお前の部品を活かしてやれん……」

源次郎が悔し涙を流し、天を仰いだその時。

「貸して」

翔太が、横から手を伸ばした。

「翔太……?」

「俺の目はまだ死んでない。……じいちゃんは、俺の手を支えてくれ」

翔太は祖父からピンセットを奪い取った。

素人だが、手先は器用だ。何より、若い目がある。

翔太が部品を掴む。その震える翔太の手首を、源次郎の大きな手がガシッと掴んで固定した。

温かかった。

子供の頃、自転車の乗り方を教えてくれた、あのゴツゴツとした頼もしい手の温もり。

「いいか翔太、息を止めろ。心臓の鼓動の合間を縫って、ネジを回すんだ」

「……わかってる!」

祖父の指示が飛ぶ。

祖父の経験と、孫の若さが一つになる。

その傍らには、バラバラになった祖母の時計が、静かに二人を見守っていた。

まるで、「頑張って」と微笑むハルの気配が、確かにそこにあった。

「今だ!」

カチッ。

小さな音が響いた。移植成功。

源次郎が震える指でゼンマイを巻く。

店内の空気が張り詰める。

コチ……コチ……コチ……。

音が、蘇った。

それは、ただの機械音ではなかった。

祖母の時計の命が、見知らぬ誰かの時計の中で、再び生き始めた音だった。

「動いた……」

源次郎は深く息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

疲労困憊のはずなのに、その顔は少年のように晴れやかだった。

「聞こえるか、ハル。お前の心臓、まだ動いてるぞ」

源次郎が虚空に話しかける。

翔太にはもう、それがボケた老人の独り言には聞こえなかった。

「……ああ、聞こえるよ。ばあちゃん、すごいな」

翔太がそう言うと、源次郎は驚いた顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。

「そうか、お前にも見えるか」

翌朝。

時計を受け取った老婦人は、その音を聞いた瞬間、涙を流して源次郎の手を握りしめた。

「ありがとうございます……夫が帰ってきたみたい……」

その様子を、翔太はカウンターの隅で見ていた。

修理代として受け取ったのは、正規の料金だけ。祖母の時計を犠牲にした「部品代」は請求しなかった。

それは、プライスレスな愛の交換だからだ。

客が帰った後、源次郎は温かいお茶を二つ、テーブルに置いた。

「翔太、手伝ってくれてありがとな」

「……これ、ばあちゃんの分だろ」

翔太は湯呑みの一つを、仏壇の前に供えた。

「じいちゃん。俺、明日から少し早く帰ってくるよ」

「ん? なんでだ」

「ばあちゃんの時計、バラバラのままだとかわいそうだろ。……俺の目で良ければ貸すからさ。二人で直そうよ、時間をかけて」

源次郎は、湯呑みの湯気越しに、涙ぐんだ目で翔太を見た。

そして、ゆっくりと頷いた。

「ああ……そうだな。ハルの奴、おっちょこちょいだから、早く直してやらんと向こうで時間に遅れちまう」

外は雪解けの朝日が差し込んでいた。

古ぼけた時計店の中で、二人の男と、見えない一人の女性の時間が、温かく、ゆっくりと動き出していた。

チクタク、チクタク。

その音は、人生という長い旅路を肯定するように、優しく響き続けていた。

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