メモリアル?
@OJI_JI
感情、ある?
朝、感情スロットを差し替える音で目が覚めた。
カチリ、という乾いた音は、もう目覚ましより正確だった。
「不安:オフ」
表示を確認してから、彼はゆっくり息を吐く。胸の奥にあったはずのざわつきは、最初から存在しなかったみたいに静かだ。
キッチンでコーヒーを淹れる。香りは分かる。苦味も分かる。
でも、それを「好きだ」と思っていた感情は、保存フォルダの奥にある。
今日は重要な日だった。
都市外縁部で起きた事故の後処理。
危険度が高いから、恐怖は推奨設定でカットされている。
彼は鏡の前に立つ。
顔色はいい。目の焦点も合っている。
「大丈夫そうだな」と、他人事みたいに評価する。
玄関を出る直前、通知が一件入った。
――感情未外部化者が現場付近に滞留しています。接触注意。
彼は一瞬だけ、その文字列を眺めた。
そして肩をすくめる。
「まだいるんだな、そういう人」
ドアが閉まる。
鍵がかかる音と一緒に、彼の中で何かが閉じたことには、もう気づかない。
現場は、想定より静かだった。
警告色のバリケードの向こうで、瓦礫が風に鳴っているだけ。人の声はない。
彼は端末を確認する。
恐怖:オフ
不安:オフ
共感:低出力
――推奨設定、問題なし。
それでも、足を踏み入れた瞬間に違和感があった。
空気が、少しだけ重い。
瓦礫の影に、人がいた。
若くも老いてもいない、特徴のない外見。
装備も古い。外部スロットも見当たらない。
「まだ残ってたんですか」
自分の声が、驚くほど平坦に響く。
相手は振り返り、彼を見る。
その目が、やけにうるさい。
恐怖をオフにしているはずなのに、
彼は反射的に、感情管理画面を呼び出した。
――異常なし。
「危険区域です」
マニュアル通りの言葉が口をつく。
「感情未外部化者は、ここに留まる理由がありません」
相手はすぐには答えなかった。
瓦礫の下を見つめたまま、しばらく黙っている。
「ここに、まだ人がいる」
それだけ言った。
彼は一瞬、考える。
そして端末を操作した。
保存フォルダから、**「軽度共感:家族用」**をロード。
作業用に調整された、安全な感情。
胸の奥に、ぬるいものが広がる。
「ああ……そういうケースですか」
声のトーンを少しだけ下げる。
「救助班は後で来ます。あなたがここにいる必要は――」
「怖くないのか」
不意に、そう聞かれた。
彼は一瞬、言葉を探した。
そして正直に答える。
「今は、必要ありません」
相手は彼を見た。
震えている。手も、呼吸も、隠しようがないほど。
それなのに、その人は瓦礫の方へ一歩踏み出した。
合理性の計算が、彼の頭の中で走る。
――非効率。
――リスクが高い。
――理解不能。
彼は、ふと気づく。
自分がロードした共感が、相手ではなく自分を安心させるために使われていることに。
「戻ってください」
その言葉には、もう何の重みもなかった。
瓦礫の向こうから、かすかな音がする。
誰かの、呼吸の音。
相手は、迷わず走り出した。
彼は立ち尽くす。
恐怖はない。不安もない。
端末は静かだ。
ただ、胸のどこかで
ロードしていないはずの何かが、微かに引っかかった。
彼はそれを確認しなかった。
確認する理由が、見つからなかったからだ。
瓦礫が崩れる音は、思ったよりも軽かった。
爆発音でも、悲鳴でもない。ただ、積み木が崩れるみたいな音。
彼は反射的に、端末の記録モードを起動した。
――現場状況:更新
視界の端で、人影が倒れる。
あの感情未外部化者だった。
瓦礫の下敷きになり、片脚が動いていない。呼吸が荒く、明らかに正常ではない。
救助対象の位置を示すランプが、赤から橙に変わる。
生存確率:低下中。
「動かないでください」
声は、相変わらず落ち着いていた。
彼自身、そのことに安心する。
相手は顔を歪めた。
痛みと恐怖と、何か別の感情が混じった表情。
「……中に、子どもがいる」
彼は頷く。
すでに音響センサーが反応している。
呼吸音、微弱。年齢、推定七歳。
「把握しています」
事実を述べる。
「ですが、あなたの状態では――」
瓦礫が、さらに沈む。
相手の息が詰まる。
彼は端末を操作する。
共感:低 → 中
胸の内側に、少しだけ重さが増す。
だが、それは状況理解を助けるための負荷でしかない。
「あなたがここで動くことは、最適解ではありません」
そう言った瞬間、相手が笑った。
笑顔ではない。
歯を見せただけの、苦しそうな形。
「……そうだな」
瓦礫の向こうから、子どもの声がした。
かすれた、泣き声。
彼の中で、何かが反応しかける。
端末を確認する。
――異常なし。
相手は、彼を見なかった。
視線は、瓦礫の向こうに固定されたまま。
「頼む」
その言葉に、命令属性はなかった。
交渉でも、依頼でもない。
ただの音。
彼は一歩も動かなかった。
理由は明確だった。
自分が動くメリットが、計算上存在しない。
瓦礫が、完全に崩れる。
相手の体が沈み、呼吸音が途切れる。
救助対象ランプが、静かに消えた。
――死亡確認。
彼は記録を続ける。
心拍数、自身のものは安定。
呼吸、問題なし。
瓦礫の隙間から、子どもが引きずり出される。
生きている。
救助班が到着する頃、
彼はすでに次の作業工程を確認していた。
撤収準備をしながら、ふと端末が通知を出す。
――未保存感情データを検出。保存しますか?
彼は立ち止まる。
胸の奥にある、説明できない引っかかり。
名前も、分類もできないもの。
しばらく、その表示を見つめてから
彼は「後で」と入力した。
そして、そのまま忘れた。
-------------------------------------------------------
事故報告は、数値に直せば数行で終わった。
時刻、崩落角度、生存率の推移。
死亡者一名、救助成功一名。
彼はそれを「処理」した。
感情データの未保存警告は、
最終確認の画面でもう一度だけ表示された。
――未分類感情データ:1件
彼は指を止めた。
理由はない。ただ、手順に含まれていないだけだ。
「削除」
確認音が鳴る。
それで終わりのはずだった。
数日後、別の現場。
同じような瓦礫、同じような警告色。
彼は恐怖をオフにしたまま、歩いていた。
その時、足元で何かがきしんだ。
一瞬だけ、
胸の奥が不規則に跳ねた。
ほんの一拍。
警告にも、数値にもならないレベル。
彼は立ち止まり、端末を確認する。
――異常なし。
「気のせいか」
そう判断した瞬間、
あの瓦礫の下で見た表情が、
色も音もなく重なった。
悲鳴じゃない。
映像でもない。
ただ、
「見た」
という事実だけ。
彼は即座に、感情スロットを開いた。
不安:オフ
恐怖:オフ
共感:低
胸の跳ねは、綺麗に消えた。
後日、定例報告書に
遅れて名前が追記された。
死亡者:
非外部化者登録番号――
その下に、個人名。
彼は画面をスクロールしながら、
名前を“情報”として処理した。
年齢。
居住区。
保護者情報なし。
備考欄に、短い一文。
――救助対象を確認後、単独行動。
彼はそれを読み、
理由もなく一度だけ、画面を戻した。
もう一度、名前を見る。
何も起きない。
胸は静かだ。
「……非効率だな」
その言葉が、
誰に向けたものなのか、
自分でも分からなかった。
彼は報告書を閉じる。
次の現場の通知が、すでに届いていた。
都市の外縁では、感情管理システムの更新が止まっていた。
原因不明。復旧予定、未定。
彼はその区域を歩いていた。
恐怖はオフ。不安もオフ。
設定は変わっていない。
なのに最近、
「今の自分に感情があるのかどうか」
それが分からなくなる瞬間が増えていた。
周囲には、人がいる。
静かに立ち尽くす人間が、何人も。
誰も泣いていない。
誰も笑っていない。
ただ、生きているかどうかも判別しづらい目で、同じ方向を見ている。
感情スロットは空。
保存履歴もない。
「……感情、ある?」
誰かが、独り言みたいに呟いた。
問いは宙に落ちる。
答える者はいない。
彼は端末を確認する。
――感情状態:判定不能
異常表示ではない。
ただの、状態。
少し離れた瓦礫地帯で、
また崩落が起きていた。
救助班は来ない。
来る理由がない。
そこには、感情未外部化者たちがいた。
恐怖に顔を歪め、
怒りで声を荒げ、
それでも誰かを引きずり出そうとしている。
合理性はない。
成功率も低い。
一人、また一人、
瓦礫に飲まれて消えていく。
「戻れ!」
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。
でも、止まらない。
彼らは
怖がりながら動き、
痛みながら選び、
結果として死んでいく。
英雄と呼ばれることもない。
記録にも、ほとんど残らない。
彼はその光景を、遠くから見ていた。
胸の奥で、何かが起きている気がした。
でも、それが感情かどうかは分からない。
端末を開く。
保存フォルダは空白。
ロード候補、なし。
「……」
彼は一歩も動かない。
動く理由も、
動かない理由も、
もう区別がつかなかった。
瓦礫が完全に静まったあと、
そこに立っていたのは
生きているのに、何も感じていない人間たちと、
感じきって、死んだ人間たちだけだった。
彼は空を見上げる。
綺麗だ、と思った気がする。
でも、それが過去の記憶なのか、
今の感情なのか、分からない。
端末が最後の通知を出す。
――感情データを検出できません。
彼はそれを閉じる。
不安もない。
安心もない。
ただ、
世界が続いていることだけは分かる。
そしてその世界に、
自分がちゃんと生きているのかどうかは、
もう、どうでもよかった。
メモリアル? @OJI_JI
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます