公女と薔薇とバゼラード

浴川九馬馴染

本編

0.ある夜のこと

ある夜のこと

 バゼラードとは、要は愛人なのである。

 愛人。愛欲の人。本来、許されぬ愛欲を許し、受け入れる人。

 俺は最初からそのことを理解していたし、いずれこんな夜が来ることも重々承知していた。


 承知していた、つもりだ。



 ベッドの上、横たわる俺に跨がるエリーザを、ろうそくの火とカーテン越しの月光が照らしだしている。

 焦土色の硬い頬を撫でる、彼女の白く柔らかな手指は、荒れた大地に咲く花のようだった。

 漂ってくる甘い芳香のせいで、そんなことを思っているのかもしれない。


「何か、他のことを考えてるの?」

 エリーザが柔らかに囁く。

「駄目よ。私だけを見て。それとも……緊張しているのかしら」

 そう言う彼女の声音にこそ、かすかに緊張の色が滲んでいるように思えた。


 逸らしていた目をエリーザへ向ける。

 白い。磨き抜かれた象牙のような美しい肢体は、滑らかな絹生地のネグリジェに包まれて、繊細に白い。腰つきは細く、胸元は豊かで、補正下着ファウンデーションを着けていないのに、闇の中の輪郭は優美で魅惑的な曲線を描いている。

 わずかに波打つ長い金髪は、流れ落ちる水流のようだ。この国では、豊かな麦畑を金の海と表現していたことを思い出す。ならば俺を見下ろすエリーザの髪は、金の滝だ。


 そう、俺を見下ろしている――エリーザの目が。

 夜の暗さの中にあってなお、その目は抜けるような秋空の色をしていた。彼女の眼を無理矢理にでも何かに喩えるなら、星のきらめきを帯びた青空、とでも言えば良いのだろうか。

 そういう矛盾した表現でしか言い表せないものだから、人々はこれを指して『天の瞳』と囁くのだ。


 その天が、一心に俺を見つめている。

 切実に、渇望するように。



「タスクから見て、私の体はつまらない?」

 不安の混じった声。

「そんなことはないです。有り得ません」

「本当?」

「本当です。綺麗……だとは、思います」


 本来の彼女ならば、こんな質問をする必要はない。俺の内心など隠せるわけもないのに。

 それでも俺の気持ちを、俺の言葉で知りたいと望んでいる。

 そういうところをいじらしく思う。


「じゃあ、本当はこんなこと、したくないと思ってる?」

 だが、その言葉に俺はわずかに口ごもる。

「そうなの」

 彼女は僅かに眉を下げた。


「そこは、ごめんなさいね。無理強いなんて、するべきじゃないんでしょうけど」

「……エリーザ様を無理に思う男性なんて、世にはいないでしょう」

「私はあなたの、タスク・ムライ・ヴリトラハンの話をしているのよ?」

「俺もこの世の男性の一人です」


 身体を前にのめらせて、彼女が近付いてくる。

 エリーザの存在感が腰から上へ少しずつ伸びていって、俺に覆い被さっていく。身体が少しずつ俺の上に預けられ、温かさと、それ以上の情感が俺に伝わってくる。

 美しい顔が近付いてくる。随分見慣れた顔だというのに、今この瞬間の彼女の顔はどうしようもなく蠱惑的で、目を離せない。頬の肌理、唇の皺、まばたきの合間の目の潤み。瞳。


「……ここまで、あれこれと話したけれど」

 彼女は遠慮がちに俺をすがった。

「結局は、不安でたまらないの。もうすぐ来る、一つの区切り……審判の時が、怖ろしくてたまらない」

 その頬が、俺の肩口に甘える。

「それを忘れたいと思うのは、おかしい? ――こんなこと、あなた以外に頼めない」



 白い手が俺の身体を確かめている。

 ふわりと漂ってくる花の香り。

 薔薇だ。

 あの刺々しく鮮やかな花は、こんなにも甘くとろけるような香りを秘めている。


(……ああ)

 確かに、この世の男なら誰も、エリーザの求めを拒むことはないだろう。

 俺とて結局、一人の凡庸な男である。その誘いに不感でいられるわけがない。


 だが俺は。

(きっと君は、悲しむんだろうな)

 今俺の五感を埋め尽くさんとする彼女ではない、違う女のことを考えている。

 罪悪感と共に逸らした目で、左手首の紐飾りモーリーの合間にある、かすかな金色のきらめきを見つめている。



 窓の向こう、夜の海が波打って、白い月光をきらきらと反射し続けている。

 甘い香りが満ちるこの部屋で、俺はこの部屋にない一輪の薔薇を想う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る