第8話 『莉奈自爆:静寂の女に勝てるわけがない』

 静寂とは、単なる「音がない状態」ではない。

 それは、空間を支配する者が作り出す「密度」のことだ。


 廃温室の主、雪代透子が纏う静寂は、深海の水圧に似ている。

 不用意に近づく者を押し潰す、透明な壁。

 俺、鈴木優斗はその水圧に心地よく適応しているが、地上の論理で生きる人間には、そこは呼吸困難な異界だろう。


 ——バンッ!


 錆びついた鉄扉が、乱暴に開け放たれた。

 湿った空気の中に、場違いなフローラルの香水と、焦燥感に満ちた熱気が流れ込んでくる。


「……やっと見つけた」


 入り口に立っていたのは、早乙女莉奈だった。

 肩で息をしている。どうやら、俺たちの動線を辿って、執念でここまで嗅ぎつけてきたらしい。


「ちょっと鈴木くん! あんた、こんな汚い場所で何してんのよ!」


 莉奈がヒールで土を踏み鳴らし、ズカズカと侵入してくる。

 俺は本を閉じ、眉間の皺を指で揉んだ。

 最悪のノイズだ。

 カレンが「げっ」と声を漏らし、俺の背後に隠れる。


 莉奈は俺の元へ詰め寄ろうとして——ふと、足を止めた。

 視界の端に、作業台に向かう雪代透子の姿を捉えたからだ。


「……は? 誰よ、その女」


 莉奈の声音に、明らかな敵意と、微かな「怯み」が混じる。

 無理もない。

 夕日を浴びて苔を愛でる雪代の姿は、この廃墟において一枚の宗教画のように完成されていた。

 安っぽい「大学デビュー」のメッキで武装した莉奈とは、存在の解像度が違う。


 雪代は振り返らない。

 侵入者の騒音など、風の音ほどにも気にしていない。


 それが、莉奈のプライドを逆撫でしたらしい。


「ちょっと! 無視してんじゃないわよ!」


 莉奈が声を荒げ、雪代の方へ向かう。


「あんたでしょ? 鈴木くんをたぶらかしてる陰気な女って! 言っとくけどね、鈴木くんは私の——」

「……ストップ」


 俺は音もなく立ち上がり、莉奈の前に割り込んだ。

 これ以上は看過できない。

 聖域における「ノイズ」の許容量を超えている。


「どいてよ鈴木くん! 私がこの子に現実を教えてあげるんだから! テニサーの飲み会にも来れないような地味子が、調子乗ってんじゃないわよ!」


 莉奈が俺を押しのけようとする。

 その時だ。


 ——カタリ。


 雪代が、ピンセットを置いた。

 硬質な音が、張り詰めた空気を弾いた。


 雪代がゆっくりと振り返る。

 長い黒髪が揺れ、宝石のような瞳が、真っ直ぐに莉奈を射抜いた。

 そこには怒りも、軽蔑もない。

 ただ、道端の石ころを見るような、徹底した「無関心」があった。


「……」


 莉奈が言葉を詰まらせた。

 圧倒的な「格」の差。

 一軍だの、カーストだの、そんなちっぽけな物差しでマウントを取ろうとしていた自分が、急激に惨めに思えてくるような——絶対的な孤高のオーラ。


「な、なによ……何か言いなさいよ……!」


 莉奈が震える声で虚勢を張る。

 そして、焦りを誤魔化すように、さらに一歩、前へ踏み出した。


 グチャリ。


「——え?」


 鈍い音がした。

 莉奈の履いていた高いピンヒールが、湿った腐葉土のぬかるみに深々と突き刺さっていた。


「う、嘘……抜けない……!」


 バランスを崩す。

 彼女は無様に手を回し、体勢を立て直そうとして——その拍子に、近くの棚にぶつかった。

 棚の上にあった、水やりのためのバケツが傾く。


 バシャァッ!


「きゃあああっ!?」


 泥水が、莉奈の流行りのスカートと、念入りに巻いた髪に降り注ぐ。

 悲鳴が温室に響き渡る。

 自爆だ。

 聖域の地理を理解せず、土足で踏み荒らそうとした報い。


 莉奈は泥だらけになり、涙目でへたり込んだ。

 惨めだ。あまりにも惨めすぎる。

 俺は溜息をつき、ポケットからハンカチを取り出そうとした。

 だが、それより早く、雪代が動いた。


 彼女はゆっくりと歩み寄ると、泥まみれの莉奈——ではなく、その少し手前にある、抉られた地面の前にしゃがみ込んだ。

 そして、ヒールによって潰された小さな緑を、そっと指で撫でた。


「……苔が、潰れたわ」


 ポツリと、それだけ。

 彼女が心配したのは、泥を被った人間ではなく、その下敷きになった小さな命だった。

 莉奈の顔が、羞恥で真っ赤に染まる。


「あんた……人が転んだのに、苔の心配……!?」

「当然だ」


 俺は冷淡に告げた。

 俺は干渉回避の応用手順——『会話の出口』を提示する。


「ここはテラリウムの管理区域だ。湿度も足場も、お前が遊んでいる場所とは違う」

「……っ、うぅ……!」


 莉奈はボロボロになった姿で立ち上がった。

 その目には涙が溜まっている。

 自業自得だが、少しだけ憐れではある。


「……北棟の裏に水道がある。服についた泥は、乾く前に落とした方がいい」


 俺が最低限の情報を告げると、莉奈は涙目で俺を睨みつけた。


「……覚えてなさいよ! こんな泥だらけの場所、二度と来るもんですか!」


 彼女は泥を引きずりながら、逃げるように出口へと走った。

 鉄扉が閉まり、嵐が去る。


 後に残ったのは、再びの静寂と、少しだけ荒らされた地面。


「……ぷっ、あはははは!」


 カレンがたまらず吹き出した。

 彼女はお腹を抱えて笑い転げている(声量は抑えているのが偉い)。


「自爆! 完全なる自爆じゃないですか! あの子、何しに来たの? コント?」

「笑うな。片付けが面倒だ」


 俺はしゃがみ込み、雪代と共に地面の修復を始めた。

 雪代は黙々と土を均している。

 その横顔に、莉奈への悪感情は見当たらない。彼女にとって莉奈は、通り過ぎた台風と同じ、自然現象のようなノイズに過ぎなかったのだろう。


 俺たちが作業を終え、帰る支度をしていた時だ。

 俺のスマホが短く震えた。

 画面を見ると、知らないIDからの通知。

 そして、メッセージが一件。


『今日のクリーニング代、請求するから! あと、連絡先教えなさいよ! 逃がさないからね!』


 ……莉奈だ。

 どうやって俺のIDを入手したのか。

 その執念深さに、俺は背筋が寒くなるのを感じた。


 ノイズは去ったが、どうやら新しい接続回線を、勝手に開通されてしまったらしい。


――――――――――――――――――――――――――――――――

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次回「静謐の共同作業:苔は嘘をつかない」。

嵐の後の静けさ。優斗と雪代、二人の距離が静かに近づきます。

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2026年1月11日 20:33
2026年1月12日 20:33
2026年1月13日 20:33

元トップアイドルが弟子入りしてきたので、俺は憧れの孤高美少女の静寂を守ることにした(特定班お断り) 他力本願寺 @AI_Stroy_mania

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