第2話『元トップアイドル、不審者として聖域に落下する』

 現代の大学キャンパスにおいて、最も警戒すべき「ノイズ」の発生源。

 それはスピーカーでも工事現場でもない。

 ——正義感を装った好奇心、通称『特定班』だ。


「ねえ、さっきこの辺で見たって情報は?」

「マジマジ。金髪の女。絶対あの子だって!」


 翌日の昼休み。

 俺、鈴木優斗が愛する裏庭の雑木林は、不穏な空気に包まれていた。

 スマホを掲げた数人の学生グループが、ハンターのような目つきでうろついている。

 彼らが探しているのは「噂の有名人」らしい。

 昨日の夕方、学内掲示板に「金髪の美女がいた」という目撃情報と、粗い写真が出回ってしまったのだ。


(……迷惑極まりない)


 俺は眉をひそめ、いつもの廃温室へと急いだ。

 彼らの目的が何であれ、俺の聖域に近づく者はすべて排除対象だ。

 幸い、俺の隠蔽工作——下草の踏み跡を消し、枯れ枝で道を塞ぐ『ログ消し』の手順は完璧だ。素人の彼らが温室への動線を見つけることはできないはずだ。


 俺は音もなく鉄扉を開け、湿った空気の中へと滑り込んだ。

 外界の喧騒が遮断され、静寂が満ちる。

 深呼吸する。

 苔の匂い。薄暗い光。

 今日はまだ雪代透子は来ていないようだ。この広い静寂を独り占めできる時間は貴重だ。


 俺は定位置である腐葉土の袋の隙間に腰を下ろし、文庫本を開いた。

 活字の世界に没入しようとした、その時だ。


 ——ガサガサッ、バキバキッ!


 静寂を切り裂く、乱暴な音が近づいてきた。

 それも、俺が隠蔽した獣道ですらない場所を、枝をへし折りながら一直線に突っ切ってくる音だ。

 俺は弾かれたように顔を上げた。


(……ログを無視して突っ込んできた!?)


 バンッ!!

 錆びついた鉄扉が勢いよく開かれた。

 逆光の中、転がり込んできたのは「金色の塊」だった。


「はぁ、はぁ……っ! か、隠してっ!」


 その塊——金髪の女子学生は、俺と目が合うなり、縋り付くような悲鳴を上げた。

 帽子を目深に被り、黒マスクで顔を覆った完全防備スタイル。

 どう見ても不審者だ。

 だが、その不審者は背後のドアを振り返り、怯えたように震えている。


「お願い! 追っ手が! 特定班がそこまで来てるの!」


 特定班。

 その単語が出た瞬間、俺の脳内で警報が鳴り響いた。

 この女を追って、さっきの連中がここになだれ込んでくる。

 聖域が暴かれる。静寂が死ぬ。

 それだけは、何があっても阻止しなければならない。


(……遮断する)


 俺は瞬時に思考を切り替えた。

 俺は無言で立ち上がり、女子の腕を掴んだ。


「ひゃっ!?」

「声を出すな。呼吸を殺せ」


 俺は彼女を引きずり、温室の奥にある資材置き場へと走った。

 そこには、使われなくなった肥料袋や園芸用シートが山積みになっている。

 俺は彼女をその隙間に押し込み、上からブルーシートを被せた。

 さらに、その手前に空の段ボール箱を崩して配置する。


 対人遮断の応用手順——『遮蔽ムーブ』。

 視線を物理的に遮る壁を作り、そこに「ただのゴミの山」という認識を植え付ける偽装工作だ。


「じっとしてろ。動けば終わるぞ」

「ん、んぐ……っ」


 俺もまた、そのブルーシートの中に滑り込んだ。

 外に立っていては俺が見つかる。共犯者として、ここでやり過ごすしかない。


 狭い。

 ブルーシートの下は、大人二人が密着してようやく収まる空間だった。

 暗闇の中で、彼女の体が俺の胸に押し付けられる。

 甘い香り。

 微かに震える肩の感触。

 荒い呼吸が、俺の首筋にかかる。


(……近すぎる)


 俺は舌打ちを飲み込んだ。

 これは緊急避難だ。他意はない。

 だが、女子の方はそうではないらしい。俺のジャケットをギュッと握りしめ、すがるように身を寄せてくる。


「……ねえ、大丈夫なの? あいつら、すごく執念深いのよ……」

「シッ。喋るな」


 俺は彼女の耳元で囁き、仕方なく口元に人差し指を押し当てた。

 その時、外から声が響いた。


「あれ? こっちに来たと思ったんだけど」

「足跡途切れてね? どこ行った?」


 鉄扉のすぐ外まで来ている。

 女子がビクリと体を強張らせた。

 俺は彼女の頭を抱え込むようにして、さらに低く身を伏せた。

 俺の体で彼女を完全に覆い隠す。

 万が一、中を覗かれても、見えるのは「昼寝をしている地味な男子学生(俺)」の背中だけになるように。


 ドサッ、と扉が開く音がした。

 光が差し込む。

 だが、俺たちが作った「ゴミ山」の偽装は完璧だ。彼らの視線は、薄暗い廃墟の虚空を滑るだけだ。


「……誰もいなくね?」

「マジかよー。見間違いか?」

「向こうの校舎かも! 急ごうぜ!」


 ドタドタと足音が遠ざかっていく。

 気配が完全に消えるまで、俺たちは石のように固まっていた。

 数十秒という時間が、永遠のように感じられた。


「……行ったぞ」


 俺が低く告げると、女子はふぅぅ、と長く息を吐き出した。

 緊張の糸が切れたのか、彼女は俺の胸に額を預けたまま、へなへなと脱力した。


「あ、ありがとう……。本当に、助かったわ……」

「礼はいい。さっさと出て行け」

「ちょっと、冷たくない? 私、怖かったんだから……」


 女子が顔を上げる。

 暗がりの中、マスクがずれて素顔が露わになった。

 整いすぎた目鼻立ち。

 汗で額に張り付いた金髪すら、計算された演出のように美しい。

 俺はその顔に見覚えがあった。


 天王寺カレン。

 三ヶ月前に突如引退を発表した、元国民的アイドルグループの絶対的センター。


 清純派の黒髪を捨てたのは、引退の反動か、それとも変装のつもりか。だが、その派手な金髪が余計に『隠しきれない芸能人オーラ』を強調してしまっている。


(……最悪だ)


 俺は天を仰いだ。

 よりによって、最も「ノイズ」を集める存在を、聖域に招き入れてしまった。

 彼女がここにいること自体が、静寂に対する冒涜だ。


「あなた、凄いのね! あんな魔法みたいに気配を消すなんて!」

「魔法じゃない。手順だ」

「手順……? ねえ、それ私にも教えてくれない? 今の私に必要なのはそれよ!」


 カレンが瞳を輝かせて詰め寄ってくる。

 俺はブルーシートを跳ね除け、立ち上がった。

 これ以上、関わってはならない。

 速やかに退去してもらい、入り口の痕跡を『ログ消し』で再処理しなければ。


「断る。帰れ」

「えーっ、ケチ! いいじゃない、減るもんじゃなし!」

「俺の視界を遮るな。お前は光りすぎだ」

「はあ? それ褒め言葉?」


 会話が通じない。

 俺が頭を抱えそうになった、その時だ。


 カツ、カツ、カツ。


 入り口の方から、規則正しい、静かな足音が響いた。

 俺の心臓が跳ねた。

 特定班ではない。この足音は、俺がよく知る——この聖域のあるじのものだ。


「——誰?」


 凛とした、氷のような声が空間を支配した。

 入り口に、雪代透子が立っていた。

 手には水やりの霧吹きを持ち、冷ややかな視線で俺たちを見下ろしている。


 俺。

 元トップアイドル。

 そして、散らかったブルーシートと段ボール。


 状況は、どう言い訳しても「密会」の現場だった。

 雪代の視線が、室温を下げるように冷え込んでいく。


 終わった。

 俺の聖域が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――

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次回「三人同室:静寂の女と発光する不審者」——静寂の裁判が開廷します。

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