第6話 名字を捨てる?
目の前にそびえ立つのは、石造りの高い街壁だった。
ようやく、まともな文明の拠点に辿り着いたのだ。
街道沿いのその街は、活気に溢れ、門の前には入城を待つ人々の列ができていた。
「……はぁ、やっと街か」
俺はボロボロになった服の襟を正し、列の最後尾に並んだ。
棘植物の茂みに突っ込み、イノシシにはねられた俺の格好はもはや難民だ。
だが、列の先頭で検問を行っている兵士を見れば、少しだけ希望が湧いてきた。
その兵士は、非常に誠実そうな若者だった。
旅人の荷物を丁寧に扱い、笑顔で世間話を交えながら、テキパキと手続きを進めている。
前の商人が書類を忘れて慌てていても、嫌な顔一つせずに「次までに用意しておいてくださいね」と通してあげている。
これならいける。あんなにいい人なら、俺のこの不審者一歩手前の格好も、遭難した不運な旅人として同情してくれるはずだ。
俺は心の中で、珍しくポジティブな予測を立てた。
前の方の列がどんどん進んでいく。
それにつれて俺の予測は次第に雲行きが怪しくなって来た。いや、いつもの調子を取り戻して来た。
確かにこの検問係の人は良い人そうだ。でも俺の時にこの人が担当のままという保証はない。そして新しく代わった係の人は、不機嫌かもしれない。俺を見て気に食わないからと難癖ばかりつけてくるんだ。
あと三人。あと二人。
そして、次が俺の番だという、その瞬間だった。
街の時計塔からだろうか。
重厚な鐘の音が、空気を震わせて響き渡った。
「……あ、時間ですね。…すみませんが交代しますので、少しお待ちください」
誠実そうな若手兵士は、爽やかな笑顔でそう言って、その場を去っていった。槍を持った衛兵たちはそのまま立っているので、強引に街に入る事はできない。
「やっぱりな。俺の予想通りだ。次に出てくるのはきっと不機嫌な兵士だぞ」
俺はサティアにだけ聞こえるように、呟いた。
「そんなことより、 名字よ。どうするの? この世界でもダイフ・コウって名乗るつもり?」
サティアはなんだか焦っているようだった。
「ああ。長年連れ添った名前だ。慣れてる」
俺は、俺に起こることの予測を、ダイフコウという名前をパラメーターにして行なっている。今更変えたら、予測の計算ができなくなってしまう。
「違うわ。コウくん。
もうすでにあなたの予測計算は成り立たなくなってるのよ。ここはこれまであなたがいた世界じゃない。もっと厳しい世界、不条理な世界なの。それにあなたの能力によって現実化の確率も上がってるの。
あなたが自分をダイフ・コウだって思うたびに、何かしらの不運な出来事があなたに襲いかかってくるの」
交代で奥からノロノロと這い出してきたのは、見るからに不機嫌そうな中年兵士だった。
その顔色は、お世辞にも健康的とは言えない。
土気色の肌に、充血した目。
何より、三メートル先まで漂ってくるほど強烈な、安酒の臭い。
絵に描いたような二日酔いだ。
「あー……っ、頭に響く。なんだあの鐘は、叩き壊してやろうか」
新しい門番は、自分のこめかみを押さえながら、憎々しげに空を睨みつけた。
そして、目の前に立つ俺を、汚物を見るような目で見据えた。
「おい、次。さっさとしろ。頭痛が吐き気に変わる前に終わらせろ」
俺はサティアの言葉と、新しく代わった検問係の男の視線に、ちょっとビビっていた。
「お願い、コウくん。ダイフの 名字は名乗らないで。ダイフ・コウって名乗ったら、あなたはこの世界で大きなフラグを立てる事になるわ。ありとあらゆるトラブルがあなたのところにやって来て、逃げることを許さないの? 全ての出来事で私たちは痛い目に遭って、本当に大変なのよ。……死にたくなることもあった……あるわ」
サティアの言葉は真剣だった。実際の姿は見えないが、意識がつながっているせいか、表情が浮かんでくる。
泣きそうな顔をしている。
「次の! 名前は?」
検問係が俺を睨みつけていた。
「コウくん。お願い!」
俺は、これまでダイフ・コウとして生きて来た。その名が示すあらゆる不幸を受け止めて生き抜いて来た。あらゆる不運を! あらゆる不条理を!
「おい! 名前だ!」
そして、雷に打たれて死んだ…。
「…コウ…」
「あん?」
「名前ですよね。コウ。それだけです」
俺はいつもの丁寧モードで、名前を告げた。
「…なんだ? いきなりスッキリした顔になりやがって…」
兵士は気が抜けたように肩を落とした。
同時に俺も肩の力を抜いていた。
その瞬間、俺の胸の中から、何か重たい鉄の枷が外れたような、奇妙な喪失感が広がった。
「……まあいい。その格好はなんだ、魔物にでも襲われたか」
「はい。森の出口でグレート・ボアに襲われまして。なんとか岩を落として逃げ延びたのですが……」
俺が正直に話すと、兵士は一瞬だけ目を見開いた。
「あのイノシシか。……ふん、運がいいな。あそこは最近、被害が相次いでたんだ。仕留めたってんなら、文句はねえ。行け」
兵士は投げやりに許可証を差し出した。
俺は半ば追い出されるようにして、街の門をくぐった。
石畳の道が広がり、人々の喋り声が四方から聞こえてくる。
「……通れた。簡単に通れたぞ。役人に絡まれなかった」
「ね? 名字っていう重荷を下ろしたから、世界の反応が変わったのよ。おめでとうコウ君。今日があなたの、真の意味での転生日ね。よかったわ。…ありがとう」
サティアが、頭の中でほっとしていた。
俺は自分の足元を見つめた。
名字のない、ただのコウ。
いや、不運が消えたわけじゃない。
俺の根底にある不安は、まだ消えてはいないのだ。
「……名前を変えたくらいで、俺の不運が消えると思うなよ。これは物理的な確率の問題なんだからな」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、慣れない 名字のない自分として、街の喧騒の中へと足を踏み出した。
だが、サティアは嬉しそうに、予言のような言葉を語った。
「さあ、これでようやく新しい流れが始まったわ。ダイフ・コウじゃなく、コウが紡ぐ世界の物語が始まるの!」
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