木星にて
最後に、オーダーの内容の復唱があった。
脳を洗浄し、一部を切除し、うつ病から離れる。
単純明快、シンプルなオーダーを機械のドクターは完全に理解し、擦り合わせも行った。
そうして、私はベッドに横たわり、麻酔と呼吸器具をつけられ、混濁していく意識の中で、喜びに満ちていた。
脳内で再生される、嫌な記憶。死にたいという強い絶望感。
思いつく限りの忌々しい記憶や想いが濁流のように浮かんでは流れていく。
それすらも浮かばなくなり───意識が消えた。
ありがとう、これで苦しみから解放されます。
───目が覚めると、病室の真っ白な天上だった。
どれだけ医療が発達したとはいえ、一日は入院することが義務付けられていた。
回診に来た人間の医者に、動いてもいいかと確認をとると、走らなければ良い、と言われたので、アルコールの匂いがするだけの部屋を出て、院内を散歩した。
中庭には、花が咲いていた。
色とりどりで、整えられていて、そういえばそうだったな、と思った。
中庭に続く道があったため、中庭まで降りて行った。
私は立ち止まり、花を見た。
花だった。
綺麗だとか、懐かしいとも思わない。
花としか認識できなかった。
形と色を把握し、花弁の枚数や、配置の規則性を理解して、それ以上でも、それ以下でもなかった。
つい数時間前まで花道だと思っていた。
苦痛が去る、その象徴だと感じていた。
あの時は胸の奥が熱くなった。
だが今は、記憶をなぞるだけで、何も感じなかった。
「綺麗に見えてたはずだよなあ」
と他人事のように理解した。
自分の感情だったはずなのに、既に過去形になっていた。
不安や、不思議さは浮かばなかった。
───手術がうまく行ったのだ。
そう結論づけるまでに迷いは必要なかった。
シャワーを浴びることは許可されていたので、シャワールームへと向かい、浴びた。
どれだけ温度を上げても、温かさを感じなかった。
変だな、と思いお湯の温度を上げたが、肌が赤くなるだけで、温かさを感じなかった。
冷たくもなかったので、まあいいか、と 受け入れた。
食事の時間になったので、料理が配膳された。
見た目は整っていた。
栄養バランスも考えられているのだろう。
一口、口に運ぶ。
───味がしなかった。
まずいわけでもなく、しょっぱくも、甘くもない。
味のなくなったガムを噛み続けているような───味を受け取る側が反応していない感覚だった。
噛めば、歯応えがある。
だが、そこまでだ。
二口目を口に運ぼうとして、止めた。
飲み込めなかった。
身体には問題がない。
「飲み込む理由」がわからなかった。
空腹は、ある。
生理的欲求として、確かにある。
だが、美味しいから食べる。
満たされたいから食べる。
という回路が、どこにも繋がらない。
私は、箸を置いた。
食事は、栄養としては問題なかった。
味も、データ上は正常らしい。
だが、美味しいとも、不味いとも思わなかった。
咀嚼はできたが、「飲み込む」ことに少しだけ時間がかかった。
「完食ですね」
そう言われて、ああ、そうだったな、と思った。
ここで、ようやく思い至った。
───回復の星で、言われていた副作用とは、多分、これだ。
死にたいという意欲は、完全に消えている。
瞼を閉じれば、網膜が微かに捉えていた、首を括る自分の姿はもうなかった。
その代わりに、生きたいと願う、些細な理由も、綺麗に切除されていた。
下げ膳して、ベッドに横たわり、何も感じなかった。
その後の回診でも、データを図られては、「落ち着かれましたね」と何度も、何人にも言われた。
心配する必要がなくなった、という意味だと理解している。
それは、私にとっても、相手にとっても、正しい評価だった。
それでも、その言葉の後に続く沈黙だけは、少し長かった。
───退院後に売店でコーヒーを買った。
些か高値だったが、あまり気にならなかった。
Hey Taxiで車を予約した。
病院の自動ドアを潜り抜けると、ロータリーには以前見たジープがあった。
後部座席のドアは開いており、私を待ち構えていたようだ。
行き先はもう入力されている。
私は、それを確認しなかった。
しても意味がないと思ったからだ。
乗り込んだのかどうかもわからないが、ドアは閉まり、エンジンがかかった。
轟轟としたエンジン音は鳴らなかった。
見送りも、別れの言葉もなかった。
それでも車は、静かに動き出した。
旅は終わったのだと、どこかで処理され、次の工程が、淡々と開始された。
なんのドラマもなく。
帰路が、開始された。
苦しくない。それだけで、充分だった。
───<処置完了>
Hey Taxi @hsgww
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