回復の星 ②
星に来た日から三日が経った。
朝九時、目覚ましよりも早く目が覚めた。
久しぶりに睡眠薬と抗うつ剤、それにリラックス作用のある薬を飲んだせいか、体に羽根が生えたみたいに軽かった。布団から起き上がる動作すら、いつもより音がしなかった。
回復とは、失ったものを取り戻すことだと思っていた。
だが、薬だけでここまで補われるのなら、「失ったままでいい」と言われているようで、心が少し暖かくなった。
───それでも今朝、思ったのは
「ああ、よく寝た」ではなく、
「ああ、また起きてしまった」だった。
望んでいるのは、目覚めそのものへの苛立ちの消去だ。
この世界に、まだ期待してしまう癖ごと、なくしてしまいたかった。
心がただ暖かくなり、「今日も幸せに生きよう」と伸びをする。
それだけでいい。
だが、薬だけでは限界がある。
昨晩飲んだ薬の効果も薄れ始め、寝言を録音するアプリには、低い呻き声ばかりが残っていた。
それでも、薬をもらい、話を聞いてもらい、この星を発とうと考えた。
ここにいれば、もしかしたら木星へ行かなくても済むかもしれない。
そんな淡い希望が、胸の奥に芽を出したのも確かだった。
───病院に着いた。
不気味なほどがらんとした心療内科は、静かに私を受け入れてくれた。
白い壁も、受付の机も、必要以上に清潔で、音が吸い込まれていくようだった。
昨日と同じ質問をされる。
「体調を数値で表すと、今日はどれくらいですか。1から5で」
「4くらい、ありますかね」
そう答えると、医者はほっとしたように眉を下げ、カウンセリングを続けた。
病気になってからの話、そして三日前に触れた、三年前の出来事まで。
トラウマを掘り返されるようで、体が震えた。思い出すたび、嗚咽するほど涙が溢れた。
医者は、静かに言った。
「本当に、お辛い人生でしたね。でも、ここでの服薬とカウンセリングを続ければ、限りなく0に近づくことはできますよ」
その声には、医者としての誠実さと、ほんのわずかな戸惑いが混じっていた。
私は首を振った。
「診ていただいて、ありがとうございました。お薬さえもらえれば、もう木星へ向かわなくてはいけないんです。根本から、このうつ症状を変えようと思っています」
「木星に行かれるのですね……」
医者は少しだけ視線を落とし、続けた。
「あそこは、心を病んだ人が訪れる星です。病を断ち切る、という点では、理にかなっている。ただし、副作用や、感情の一部を切除することは、回復の星からすれば奇妙な選択でしょう。ここに留まれば、生きられるのですよ」
ああ、なんて魅力的な言葉だろう。
医者として、これ以上ないほど正しい。
涙が、また溢れた。
だが、数日の服薬で楽になった今でさえ、死にたいという感情は薄れなかった。
むしろ、はっきりと輪郭を持ってそこにあった。
完全に除去したい。
このまま、回復を待ちながら生きるには、私の心は少し長く壊れすぎている。
「これ以上、回復の途中で生きる気力はありません。完全には戻れない。ご親切にありがとうございます。でも、木星へ行く気持ちは変わりません」
医者は、不思議なものを見るように私を見つめた。
「即効性を求め、脳の洗浄と切除を望むのですね。今後の生き方が変わっても構わない。それでも生きると。やがて、何も感じないまま死んでいくと」
一拍置いて、私は答えた。
「はい」
消えそうな声だった。
医者は最後まで、医者だった。
「ここは、治療を“続ける人の場所”です」
「はい、存じています」
「何かを終わらせたい人が来る場所ではありません」
「すみません」
「いえ。患者さんの希望は尊重します。意思が固いのであれば、止められません」
少し間を置いて、医者は続けた。
「お代は300円で結構です。私は、何もしてあげられなかった。本来なら貰い過ぎですが、あなたが今後、幸せに生きてくれるなら、それでいい」
処方箋を差し出しながら、微かに笑った。
「お大事に。お元気で」
一ヶ月分の薬を受け取り、四木を呼んだ。
彼が来るまで、私は少しだけ、その場にうずくまった。
これでいい。
いや、これが最適解なのだ。
これまでで一番いい医者に出会えた。
そう思えたからこそ、胸の奥に、小さな不安が残った。
四木のジープが見えた。
目の前で止まり、トランクが開き、後部座席のドアが開く。
「おはようございます」
「はい、おはようございます」
エンジン音が低く唸る。
「やっぱ、木星の方がいいっすか?」
私は答えなかった。
ジープはそのまま、宙へと舞い上がっていった。
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