生人

和田いの

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 私立明館高校。偏差値は県内トップクラス、校訓は「自主自律」。だが、その実態は、洗脳された家畜たちの安寧な群れに過ぎない。

 千田勇吾は、三階の教室の窓際から、校庭で女子生徒数人に囲まれて談笑する村山光輝を眺めていた。村山は、整った顔立ちを崩して笑い、いかにも「今、この瞬間を楽しんでいます」という記号を全身から発している。

「つまらないな」

 千田にとって、村山のような人間は「本能のみで生きている動物」と同じカテゴリーだ。村山が浮かべる笑顔も、女子たちの歓声も、特定の刺激に対する既定の反応に過ぎない。

「また見てる。本当に好きだね、村山くんのこと」

 背後から声をかけてきたのは、森涼介だ。森は千田の数少ない「対等な会話ができるかもしれない」相手であり、そして千田が最も羨望し、同時に軽蔑している「賢い善人」だった。

「好きだよ。あんなに分かりやすく、脳のリソースをセックスと承認欲求だけに割いている個体は珍しい」

 千田は振り返り、森に「善人」の微笑みを向けた。千田は知っている。本音で話せば、人は離れていく。だから彼は、日常という舞台の上では常に善良な優等生を演じている。だが、森に対しては、その仮面の裏側を覗かせる。

「いじめるのはほどほどにしなよ。この前の手紙、村山くん、本気で落ち込んでたよ」

「君は勘違いしている。俺は彼をいじめているんじゃない。彼という『無意味な存在』を、俺の好奇心というフィルターを通して『意味のある娯楽』へと昇華させてあげているんだ。だいたい、世の中のいじめはつまらなすぎる。靴を隠す、机に落書きをする、そんなのは知性の欠片もない猿の遊びだ。俺は『面白いいじめ』しかしない」

 千田は、ポケットの中にあるものを指先で弄んだ。

「人間は、自分にとって無価値だと判断した他者が、自分の時間や感情を消費することに怒りを感じる。だが、俺は違う。人を弄べば無限に楽しめる。ムカつく相手さえも、自分の掌の上で踊る操り人形にすれば、それはメリットに変わる」

 森は溜息をついた。森には、千田の論理が理解できてしまう。道徳や倫理という「重り」を捨て去れば、千田の言う通り、世界は刺激的な遊び場になるだろう。だが、森にはそれができない。倫理に背く行為を想像するだけで、胃の奥が焼けるような罪悪感に襲われる。

「……君は、自由なんだね。僕は、どうしても法律やマナーを破っていいと割り切れない」

「それは、君が弱いからじゃない。君は『言葉と思考の死』を恐れている。マナーを守る、善人でいる、夢を諦めない。そんなありきたりな言葉で思考停止している凡人とは違う。だからこそ、君がその不自由な正義感に縛られて苦悩する姿は、俺にとって最高のコンテンツだよ」

 千田の言葉には、毒と、そして奇妙な親愛が混じっていた。



 放課後。駅前の洒落たカフェのテラス席に、白井風香は座っていた。

 彼女はスマートフォンを眺めるふりをしながら、獲物が現れるのを待っている。風香にとって、この世で最も価値があるのは「面白さ」だ。笑い、気づき、学び。それらを与えてくれない人間は、彼女の目には背景の街路樹と同じように映る。

「あ、風香ちゃん! 奇遇だね」

 声をかけてきたのは、狙い通りの男、村山光輝だった。

 村山は今日も完璧にセットされた髪と、計算された「爽やかな笑顔」を装備している。

「あ、村山くん。……暇だし話そうよ」

 風香が小首をかしげると、村山の表情がパッと明るくなった。彼にとって、美少女からの誘いは最も嬉しいイベントだ。

「こんな天気のいい日に風香ちゃんと会えるなんて最高だよ。俺、晴れめっちゃ好きなんだよね」

 千田から「村山を弄んでほしい」と頼まれたとき、風香は二つ返事で引き受けた。千田という男は恐ろしいが、彼が提供する「遊び」は、そこら辺の芸人のネタよりも遥かに刺激的で、知的好奇心をそそるからだ。

「ねえ、村山くんって、東京23区全部言える?」

 唐突な質問に、村山は一瞬きょとんとした。

「え? 急にどうしたの。えーっと、新宿、渋谷、港区……あ、世田谷! あとは...墨田区、江東区...」

「ふふ、もういいよ。住んでるところを絞ろうと思っただけ」

 村山は「やられた!」という顔をして笑う。

「あー、なるほどね! その質問、今度使わせてもらうわ。風香ちゃん、面白いこと言うね」

 風香は千田から教わった「技術」を実践する。凡人は、内容の面白さよりも、楽しそうに喋っているか、自分の話にリアクションをしてくれるかを重視する。村山のようなタイプは、特にその傾向が強い。

「電車ってさ、1号車と4号車にトイレがあるんだよ。知ってた?」

 村山がドヤ顔で披露する知識。風香は、それが彼にとっての「とっておきのネタ」であることを瞬時に察した。悲しくなるほど薄っぺらい。

「へえ、すごい! 知らなかった。村山くんって物知りなんだね」

(あー、つまんない。死ぬほどつまんない)

 風香は、自分の内側が急速に冷めていくのを感じた。千田の言う通り、凡人の会話は「既知の情報の再確認」と「発見のない同意」で構成されている。

「ねえ、村山くん。会えて嬉しいって、本気で思ってる?」

 風香は、少しだけトーンを落として尋ねた。村山は一瞬、言葉に詰まった。

「え、あ、うん。もちろん。風香ちゃんといると楽しいし」

「私、もっと面白い話ができる人が好きなんだ。マナーよりも効率を優先しちゃうような、ちょっと壊れてる人。村山くんは、いい人すぎて、たまに退屈になっちゃう」

 それは、千田から授けられた「毒」の言葉だった。村山の「善性という名の無個性」を否定し、彼の中に眠る「毒」を誘い出すための。

 村山の顔から余裕が消えた。彼は、自分の最大の武器である「好かれる力」が通用しない相手に直面し、戸惑っていた。

「……面白い話、か。頑張るよ。風香ちゃんに『退屈』なんて言わせないようにさ」

「期待してるね」

 風香は微笑んだ。その微笑みの裏側で、彼女は千田への報告を組み立てていた。

「完全にかかったよ。次はどうする? もっと過激な『トラップ』用意してるんでしょ?」



 深夜。千田の自室。

 薄暗い部屋の中で、千田はタブレットに映し出された村山のSNSの動向をチェックしていた。隣には、森涼介が座っている。森は、千田の「悪行」を止めるためにここへ来たはずだったが、気づけば千田の弁舌に絡め取られ、深夜の対論に興じていた。

「君は『感情』を信じすぎている」

 千田は、自身の手元を眺めながら言った。

「愛、怒り、後悔、喜び。どれも一時的な脳内の化学反応だ。どうせ消えるし、どうせ裏切られる。俺はそれを観察対象に変えることで、痛みを感じない自分を維持しているんだ」

「……それでも、人はその一時的なものに縋って生きているんだよ、千田。君が言う『効率』や『好奇心』だけで世界が回ったら、そこはもう人間の住む場所じゃない」

「そうかな? 成功の秘訣は、他人が非効率な道徳や感情に縛られている間に、最短ルートを走ることだ。法律は、程度の低い知能を持つ家畜を制御するためのルールブックだ。俺たちのような賢者は、その上をいくべきなんだよ」

 千田は、持っていたものを机に置いた。

「コカインは自分の思考の限界を教えてくれる。MDMAは性欲の極致を見せてくれる。そしてLSDは、没入という体験の本質を教えてくれる。道徳というフィルターを外した先にある真理を、君も見たくはないか?」

 森は強く拳を握った。

「見たくない。……いや、怖いんだ。君のように、倫理を捨てて笑える強さが僕にはない。失敗したらどうしよう、人を傷つけたらどうしよう……そう考えて動けなくなる」

「『どうしよう』の部分を決めてから挑めばいいんだよ、森。失敗した時のリカバリープランを立てる。それだけのことだ」

 千田は椅子を回転させ、森と正面から向き合った。

「君は賢い。だから、自分の正義感が『嫉妬』から来ていることにも気づいているはずだ。俺のように、法よりも好奇心を優先し、自由を謳歌している存在への嫉妬」

 森は否定できなかった。千田の言葉は、常に鋭いナイフで森の心の柔らかい部分を刺してくる。

「村山くんをこれ以上追い込むのは、もうやめてくれ。彼はただ、普通に幸せになりたいだけの人間なんだ」

「普通? その『普通』という言葉こそが、思考停止の極致だ。15歳まで部屋に閉じ込めて育てられた子供が初めて外に出た時、風の気持ちよさに感動する。世界に触れるたびに感動できる。それこそが最高の幸福だと思わないか? 既成概念という牢獄に閉じ込められている村山に、俺は『世界の真の姿』を見せてやろうとしているんだ。今を犠牲にしてでも」

「それは救いじゃない。ただの破壊だ」

「破壊の後にしか、真の創造はないんだよ。平和なんていう退屈な安定状態から、面白い物語は生まれない。不均衡こそが、良い物語には必要だ」

 千田は笑った。その瞳には、一抹の寂しさが宿っているようにも見えた。本音で語り合える相手が、自分を否定し続ける善人しかいない。

「森、俺から目を逸らすな。俺という最も理解不能な本を、君は読み続けなきゃいけない。それが、君が『賢い善人』であるためのコストだ」



 数日後。村山光輝は追い詰められていた。

 白井風香との関係は、進展しているようでいて、常に彼女の手のひらで転がされている感覚があった。彼女から要求される「面白いこと」のハードルは日に日に上がり、村山は睡眠時間を削ってまで、ネットで「面白い言い回し」や「過激な雑学」を探すようになっていた。

「ねえ、村山くん。今日の話、どこかで聞いたことある。誰かのパクリ?」

 放課後の屋上で、風香は冷たく言い放った。

「え、あ、いや……そんなことないよ。俺が自分で考えたっていうか……」

「つまんない。嘘をつくなら、もっと上手につきなよ。私、嘘そのものは嫌いじゃない。でも、『下手な嘘』はつまらないから大嫌い」

 風香の背後には、いつの間にか千田勇吾が立っていた。

「やあ、村山くん。苦しそうだね。思考が死んでいく音がここまで聞こえてくるよ」

「千田……! お前、風香ちゃんに何か吹き込んだのか?」

 村山が掴みかかろうとするが、千田は身軽にかわす。

「何も? 彼女はただ、面白いことが好きなだけだ。そして君は、彼女を楽しませるための『リソース』として消費されている。それだけのことだよ。……ああ、そういえば、君が先週、複数の女子に同じLINEを送っていたこと、クラスのグループに流しておいたよ。『効率的な女遊び』の失敗例として、みんなの良い酒の肴になってる」

「な……っ!」

 村山の顔が蒼白になる。彼が積み上げてきた「爽やかでモテる自分」という城が、音を立てて崩れていく。

「あの人とは関わらない方がいい、と広まった噂が説明書となり、コミュニティの崩壊を防ぐ。陰口は人間の武器なんだよ、村山くん。君は、自分の悪評という名の情報に殺されるんだ」

 千田の言葉は冷徹だった。

「取り柄のない奴は、自分を『善人』だと思い込むことで存在を保つ。でも君は、その善人の皮さえ剥がされた。今の君に残っているのは何だ? 整った顔か? 電車のトイレの位置か?」

 村山は膝をついた。彼にとって、人からどう見られるかが全てだった。それが失われることは、死に等しい。

「なんで、こんなことするんだよ……」

「好奇心だよ」

 千田は村山の目の高さまで腰を落とした。

「人が絶望の底で、どんな『面白い言葉』を吐くのか知りたかった。でも、結局君が吐いたのは『なんでこんなことするんだ』という、ありきたりなテンプレだった。……期待外れだ」

 その時、屋上の扉が激しく開いた。

 息を切らした森涼介が立っていた。

「千田! もういいだろう! 村山くんはもう壊れてる!」

 森は村山の前に立ち、千田を睨みつけた。

「君は前に言っていた『一流は人の悪いところも良いところも情報として見てるから発言に悪意がない』って!だったら、この状況を『情報』として処理して、ここで終わりにしてくれ!」

 千田は立ち上がり、森をじっと見つめた。そして、ふっと表情を緩めた。

「……正解だよ、森。君は本当に、俺が欲しかったリアクションをくれる。善にも悪にもなれない低脳たちが矛盾を抱えて立ち尽くす中で、君だけは自分の『正義』という荷物を背負ったまま、俺の前に立ち塞がる」

 千田は風香に目配せをした。風香はつまらなそうに肩をすくめた。

「もう終わり? せっかくこれから面白くなりそうだったのに。……まあいいや。村山くん、バイバイ。次はもっと面白い人と遊ぶから」

 風香は足早に屋上を去っていった。彼女にとって、興味を失った対象は、そこにある空気と同じだ。

 屋上には、絶望する村山と、彼を守るように立つ森、そして満足げに微笑む千田の三人が残された。



 事件の後、村山はしばらく学校を休んだ。復帰した彼は、以前のような輝きを失い、影の薄い「普通の生徒」になった。千田はもう、彼に干渉しなかった。普通の人間に興味を持つほど、彼は暇ではなかった。

 森は相変わらず、自分なりの正義で生きていた。だが、以前よりも少しだけ、自分の内側にある「毒」に対して自覚的になった。自分の中にも、千田と同じような「他者を観察したい」という残酷な好奇心が眠っていることを認めた上で、それを倫理という檻で必死に抑え込んでいる。

 そして千田勇吾は、相変わらず「善良な優等生」を演じながら、個性的な人間を探していた。

 ある放課後。千田と森は、教室で二人きりになった。

「森、最近の君はいい顔をしてる。自分の正義が、実は嫉妬やエゴの産物かもしれないと疑いながら、それでも善人でいようとする。その葛藤こそが、君という人間の『面白さ』だ」

「……褒め言葉として受け取っておくよ。でも、君のやり方を認めるつもりはないからね」

「それでいい。友情とは、互いが互いの『面白い観察対象』であり続ける間だけ成立する契約関係だ」

 千田は窓の外を眺めた。複数のカップルが歩いている。

「恋愛する奴はギャンブラーだ。好きな人の言葉一つで天国と地獄を行き来する。俺にそんな趣味はない。だから俺は、ディーラーとして参加させてもらうよ。この退屈なカジノに」

 千田はポケットからLSDを取り出し、一瞬だけ森に見せた。

「今夜はこれをキメて、古典映画でも見ようと思う。感情を信じていない俺でも、没入体験だけは裏切らないからな。……森、君も来るか?」

 森は一瞬、沈黙した。そして、静かに首を振った。

「いや、僕はいい。僕は、君が道を踏み外してるのを最後まで特等席で見届ける」

「俺が道を踏み外してる...か。お前の道が狭すぎるだけだ。……じゃあな、森。明日、また『つまらない同意の繰り返し』の会話を楽しもう」

 千田は軽やかな足取りで教室を出て行った。

 残された森は、赤く染まった夕焼けを眺めながら、自分が拭いきれない罪悪感と、それと同じくらいの重さの「高揚感」を抱えていることに気づいた。

「……本当に、最悪な奴だよ、君は」

 森の呟きは、誰にも届かずに空気に溶けていった。

 この学校という小さな箱庭の中で、彼らの奇妙で歪な物語は、これからも形を変えながら続いていく。

 善と悪。正気と狂気。

 その境界線上を綱渡りするように生きる彼らにとって、青春とは、未来のための、あまりに贅沢な素材に過ぎなかった。



 数ヶ月後。

 千田の元に、風香から短いメッセージが届く。

『新しいターゲット見つけた。今度は「天才」って呼ばれてる不登校の数学オリンピック候補。どう料理する?』

 千田はスマートフォンを閉じ、口角を上げた。

 彼は、新しい「観察」の準備を始めた。

 社会に洗脳されない者だけが知っている、自由な思考。

「さあ、始めようか。思考の死から、彼らを叩き起こしてやろう」

 彼の瞳は、暗闇の中で好奇心の光を宿し、爛々と輝いていた。



 千田勇吾にとって、日常とは常に「更新され続ける実験レポート」である。

 村山光輝という「凡庸な個体」の崩壊を見届けた後、彼の関心は白井風香が持ってきた新しい素材へと移っていた。

 久我彰くがあきら

 数学オリンピックの国内予選を史上最年少で突破し、現在は「燃え尽き症候群」を理由に不登校を続けている二年生。千田と同じ学年でありながら、一度も顔を合わせたことのない「幻の天才」だ。

「凡人の命を1000個救うよりも、天才の命を1個救え。または天才の命を1個増やせ」

 千田は一人、図書室の奥にある誰も来ない資料室にいた。

「さっさと人類は天才のクローン人間を作りまくれと言いたいところだが、現実は非効率な倫理観に縛られている。なら、せめて今ある『天才』という名の資源を、最高に贅沢な娯楽として活用させてもらおう」

 千田は、久我彰の家を突き止めていた。

 そこは、街外れにある古びた洋館だった。両親は海外の大学の教授をしており、久我は一人で閉じこもっている。

「風香、準備はいいか?」

 千田はインカム越しに、洋館の門の前に立つ白井風香に問いかけた。

 風香は、いつになく興奮した様子で答える。

「ばっちり。私より面白いかもしれない人間に会えるんだもん、心拍数上がっちゃう。質問されたら面白いことを言うチャンス、逃さないよ」

「期待している。久我彰は、村山のような『反応のテンプレ』を持たない。彼を動かすのは、数式という名の絶対的な論理だ。そこを崩すには、論理を超えた『不条理な面白さ』が必要になる」

 千田は、手元のモニター(風香が身につけた隠しカメラの映像)を凝視した。

 風香がインターホンを押す。数分の沈黙の後、扉が開いた。

 そこに立っていたのは、幽霊のように白い肌をした、痩せこけた少年だった。

 久我彰。その瞳は、千田が見てきたどの人間よりも深く、そして虚無を湛えていた。

「……誰」

「ひまなので、中で数学の話、してもいいですか?」

 風香は、村山に話しかけた時と同じフレーズを、少しアレンジして投げかけた。

 久我は、風香の顔を数秒間見つめた。その視線は、女を見ているのではなく、未知の関数を解析しているようだった。

「……数学? 君が?」

「私より面白い人が好きなんです。私よりつまらない人は馬鹿にしてます。久我くんは、私より面白いかな?」

 久我の眉が、わずかに動いた。

「……入れ。ただし、3分以上僕を退屈させたら、警察を呼ぶ」

 モニター越しにそれを見ていた千田は、舌なめずりをした。

「いいぞ、久我彰。その『効率を優先する傲慢さ』。まさに俺の好きなタイプだ」




 その頃、森涼介は、学校の屋上でパンを齧っていた。

 隣には、かつての輝きを失った村山光輝が座っている。村山は、女子からのLINEをチェックすることもなく、ただぼんやりと校庭を眺めていた。

「……ねえ、森くん」

「ん?」

「俺さ、最近思うんだ。うんこしてお尻拭いてるとき、目は開いてるのに、どこも見てないなって」

 森は、食べていたパンを喉に詰まらせそうになった。

「……え、あ、うん。そうだね。確かに、あの瞬間って視覚情報が遮断されてるわけじゃないのに、脳が何も認識してないかも」

(千田の言った通りだ……。村山くんは壊れたけど、そのおかげで、以前よりも『個性的な観察眼』を持ち始めている……?)

 森は、恐怖を感じた。

 自分は、村山を助けたいと思っていた。だが、千田の「毒」に当てられた村山が吐き出す言葉に、不覚にも「面白さ」を感じてしまっている。

「村山くんは最近、なにしてるときが楽しい?」

「楽しいこと...なんだろう。空き缶が道端で転がる音を聞いてるときかな。あれってさ、重力と風と、缶の形状が複雑に絡み合って鳴ってるだろ? 世界の縮図みたいで、ずっと聞いていられるんだ」

 やっぱり全然違う。

「村山くん変わったね」

「...みんなに嫌われたらどうしようって、ずっと怖かった。でもさ、千田に決められちゃったら、もう怖くなくなったんだ。だって、あいつが全部、面白い地獄に変えてくれるんだろ?」

「村山くん、それは……洗脳だよ。千田の思うツボだ」

「洗脳でいいよ。ありきたりな言葉より、あいつの言葉の方がよっぽど脳に響くんだ。株価の高い発言をしてるってあいつは言ってたけど、もっとそれを聞きたい」

 気を遣ってくれる人に「そんなに気を遣わなくていいよ」と言うことさえ、気を遣っていると感じてしまう森にとって、千田の自由さは羨ましかった。

「森くん、おならの音を出さずにする方法、知ってる?」

 唐突な村山の質問に、森は苦笑した。

「...お尻の穴を指で広げること、かな...?」

「そう、正解!お尻の穴を広げれば、空気の通り道が広いから音が鳴りようがない。千田が言ってたよ。賢い人はみんな知ってるって。あと、法の穴を通る時は音が出ないように気をつけるしかないって」

 森は立ち上がった。

「僕は、千田を止めなきゃいけない。……たとえ、僕自身が彼に魅了されていたとしても」



 久我彰の部屋は、異様だった。

 壁という壁に、びっしりと数式が書き込まれている。だが、その多くは途中で斜線が引かれ、抹消されていた。

 風香は、千田から渡されていた小さなタブレットを、久我の前に置いた。

 そこには、千田が編集した「村山光輝の崩壊の記録」が、スタイリッシュなドキュメンタリー風にまとめられていた。


「何だ、この下劣な映像は」

「下劣かな? 私は『学び』だと思うけど。一人の人間が、自分を定義していた『モテる』という属性を剥ぎ取られた時、どんな数式を生成し始めるか。……久我くん、君、これを解ける?」

 久我は、嫌悪感を露わにしながらも、映像から目を離せなくなった。

 村山が、クラスメイトから無視され、絶望的な表情になるシーン。

「……この個体は、自己の同一性を、他者の評価という不安定な変数に依存させていた。評価がゼロになれば、自己もゼロになる。当然の帰結だ。計算するまでもない」

「じゃあ、君はどう? 君の同一性は『天才数学者』という評価に依存してない? 数学ができなくなった君に残るのは、このカビ臭い洋館と、死ぬまでの退屈だけじゃないの?」

 風香の言葉は、鋭い。

 久我彰は、ゆっくりと立ち上がった。

「……君、名前は?」

「白井風香。質問されるの、大好きだよ」

「白井さん。『千田』という人間に伝えてくれ。……もっとマシな問題を用意しろ。こんな低レベルな人間の崩壊を見せられても、何の刺激にもならない」

 その瞬間、スピーカーから千田の声が流れた。

『――合格だ、久我彰』

 久我は驚き、あたりを見回した。

『君は、村山の絶望を「低レベル」だと切り捨てた」

「千田……か」

『久我くん。君に最高のプレゼントを用意した。……今夜、君の数学的理論が、俺たちの不条理によって解体される瞬間を楽しもう』

「……どういうことだ」

「……風香、プレゼントを彼に渡してくれ。自分の思考の限界を観察するチャンスだ。……数学では到達できない「没入」の世界へ、君を招待する」

 風香は、微笑みながら取り出した。

 彼の論理的な脳が、警鐘を鳴らしている。だが、それ以上に、「退屈」という名の病が、彼を未知の深淵へと誘っていた。




 深夜。久我邸の地下室。

 そこには、千田、森、村山、風香、そして久我の五人が揃っていた。

 千田は、自ら持ち込んだプロジェクターで、壁一面に幾何学的なサイケデリック・アートを投影している。

 千田は、既にLSDを摂取していた。彼の瞳孔は大きく開き、世界を「あるがままの情報」として捉えていた。

「さあ、始めよう」

 千田は、床に座り込み、楽しそうに笑った。

「森、君は今、どんな罪悪感を感じている? 天才少年にドラッグを勧める場に立ち会っている。君の道徳は、今、どんな叫び声を上げている?」

 森は、震える声で答えた。

「……吐き気がする。でも、同時に、君が何をしようとしているのか、最後まで見ていたい。……僕は、君の悪意の『逃げ道』を探してるんだ」

「村山、お前はどうだ?」

 村山は、風香の隣で、ぼんやりと天井を見上げていた。

「俺……。風香ちゃんがいろんな男がセックスする動画、千田に見せられた。……でもさ、不思議と悲しくなかった。むしろ、それを見る自分を観察するのって、こんなに面白いんだって思った」

「LSDの効果だな。愛なんていう一時的なバグを、遠くから見ることができる」

 千田は次に、久我彰に視線を向けた。久我は、渡された紙をまだ手に持っていた。

「久我くん。君は、自分の脳が『最高の娯楽』であることを知らない。君の知能をただの数式に浪費するのは、人類に対する冒涜だ」

「……君は、何を求めているんだ。僕を壊して、何が残る」

「何も残らないよ。平和という退屈な安定状態を壊し、そこに生まれる不均衡を愛でる。それだけだ。……久我くん、君が解けなかった『幸福の数式』。その最後の変数は、計算式の中に組み込むものじゃない。……計算している自分自身を、外部から笑い飛ばすことだ」

 千田は立ち上がり、久我に近づいた。

「マナーを守るのは相手の心が狭いと決めつけている行為だ。……俺は君の心が広いと信じている。だから、この『不作法』を受け入れろ。一線を越えて、俺たちの仲間になれ」

 久我彰は、ゆっくりと紙を口に運んだ。

「……もし、僕の脳が壊れたら、君が責任を取るのか」

「責任? そんなありきたりな言葉、俺の辞書にはない。……君が壊れたら、俺は君を『最高のジャンク品』として、一生笑い飛ばしてやる。それが俺の友情だ」


 数十分後、地下室の空気は一変した。

 プロジェクターの光が、久我の網膜を刺激し、脳内のセロトニンが爆発する。

 彼が長年追い求めていた「論理」が、万華鏡のように砕け、再構築されていく。

「……あ、あはは……。なんだ、これ……。素数が、踊ってる……。不規則な数列の中に、意志がある……」

「そうだ、久我! それが『気づき』だ!世界の正体だ! 」

 千田の声が、久我の意識の奥深くまで響く。

 風香は、その光景を見ながら、恍惚とした表情を浮かべていた。

「最高……。今この瞬間、今が生まれてる……!」




 翌朝。

 地下室に、朝日が細い筋となって差し込んでいた。

 千田勇吾は、床に大の字になって寝転んでいた。LSDの残滓が、心地よい倦怠感となって全身を包んでいる。

 森涼介は、壁際で膝を抱え、一睡もせずに彼らを見守っていた。

 村山光輝は、どこか吹っ切れたような顔で、風香と「国の名前」を交互に言い合っていた。そこには、以前のような卑屈さも、空虚な見栄もなかった。ただ、無意味な言葉の羅列を楽しむ、子供のような無邪気さがあった。

 そして、久我彰。

 彼は、壁一面の数式を、すべて消していた。

 代わりに、そこには大きな円が一つだけ描かれていた。

「……千田」

 久我は、掠れた声で呼んだ。

「何だい、久我くん」

「感謝するよ。この世界に」

 千田は、ゆっくりと体を起こした。

「……ああ。最高の感動だろ?」

「君の言う通りだ。僕は、自分で作った数式の部屋に、自分を閉じ込めていた」

 久我は、憑き物が落ちたような笑顔を見せた。

 その笑顔は、絶望と、狂気と、そして圧倒的な「思考」を通り抜けた者にしか到達できない、不気味で美しい微笑だった。

 森涼介は、その光景を見て考えていた。

 これが救いなのか、それとも取り返しのつかない破滅なのか、彼にはわからなかった。

 ただ、千田勇吾という男が、一人の天才を、そして一人の凡人を、確実に「作り変えた」ことだけは理解できた。

 千田は森の肩を叩いた。

「成功してない奴が善人でいる余裕はない。……今日の俺たちは、成功者へと近づいた。自分の殻を壊して、剥き出しの自分をさらけ出したことによって」





 明館高校の日常は、何事もなかったかのように続いていた。

 村山光輝は時折、森涼介と二人で屋上で真剣に、そして楽しそうに議論していた。

 久我彰は、依然として不登校のままだった。だが、彼の家の壁には、毎日新しい「線」が描かれているという。彼は数学を捨て、今はただ、世界を実感するために生きている。

 白井風香は、千田の隣で、相変わらず「つまらない人間」を馬鹿にしながら笑っていた。彼女にとって、千田との契約は、人生で最も効率的で面白い投資だった。


 千田は椅子に腰掛け、タブレット端末に視線を落としている。その向かい側で、白井風香は机の上に器用に足を乗せ、爪の手入れをしていた。

「ねえ、」風香が、爪やすりの手を止めずに言った。「あんたってさ、私のこと、一度でも『好き』とか思ったことあるわけ? 感情があるフリでもいいからさ」

 千田は画面から目を離さず、無機質な声で答えた。

「好きは抽象、嫌いは具体だ。 例えば天国と地獄のイメージを思い浮かべてみればいい。地獄の描写は具体的で多種多様だが、天国はどこまでも抽象的で退屈だろう。つまり、誰かを好きだと言うとき、それは相手を理解することを放棄した思考停止の宣言に過ぎない」

「相変わらず可愛くないわね」風香は鼻で笑った。

「でも、世の中の女の子はみんなその思考停止を求めて生きてるのよ。趣味:恋愛、の女だらけなんだから。あんたの理屈じゃ、恋愛そのものが無価値ってこと?」

「恋愛は性欲だ」千田はタブレットを机に置いた。

「女自身が生理のイライラは我慢できないと宣言している。それは男に劣る生物ですと宣言しているのと同じだ。そんな不安定な生き物と人生を共にするのは、板が腐ってたら釘は打てないのと同じで、基盤が崩れているところに何も積み上げられない。人が恋愛する目的は主に3つ。結婚して子育てするため、セックスするため、寂しさを埋めるため。3つ目の目的を持つ男に賢い奴はいない。『恋愛』以外の寂しさを埋める方法すら持たない程度の人間だからな」

 風香は足を机から下ろし、千田の顔を覗き込んだ。

「でさ、私のことはどう思ってるの? 私、あんたにとって『面白いサンプル』以外の価値はないの?」

 千田は淡々と言った。

「俺は、人を愛せるほどお人好しじゃない。君の肉体的な特徴や、時折見せる論理は一級品だ。だが、それ以上の価値はない」

「……あんた、本当に最低ね」

 自嘲気味に笑い、ポケットから飴を取り出した。

「ほら、飴をあげるという挨拶は良いってあんた言ってたでしょ」

 風香は飴を渡し、立ち去った。

 千田は飴を受け取り、袋を破かずに机に置いた。


 森は二人の会話を黙って聞いていた。

 千田の言葉に反論できない自分に絶望していた。千田の語る言葉には、道徳的な不快感はあるが、破綻が見当たらないからだ。

「……君は、誰かに愛されたいと思ったことはないのか?」

 千田は一瞬、窓の外を流れる雲を見た。その瞳に、ほんのわずかな、しかし鋭い孤独がよぎった。

「愛されるとは、相手の『誤解』を受け入れることだ。相手が勝手に作り上げた俺の虚像に、俺が一生付き合ってやるという、最高に非効率な契約だよ。俺は、自分を偽ってまで、誰かの脳内の報酬系を刺激してやりたいとは思わない。……ただ、森。君のように、俺のこの吐き気がするような発言を聞いて、何度でも『吐き気がする』と正直に言ってくれる奴は少ない」

 千田は立ち上がり、森の耳元で囁いた。

「君だけは、俺を誤解しないでくれ。俺という怪物を、怪物として正しく認識し続けてくれ。それが、この退屈な世界で俺が唯一求めている『純粋な関係』だ」

 森は、困ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな顔をした。

「千田。今日の放課後、また話を聞かせてくれ」

「ああ。とっておきの陰口を用意してあるよ。……君は本当に、俺にとって最高の『友達』だ」

 二人の会話は、周囲の凡人たちには届かない。

 同調圧力の影に沈み、ルールを守ることでしか存在を証明できない「考える葦にさえなれない人たち」を尻目に、彼らは不均衡な世界で、毒を孕んだ笑みを交わし続ける。

 愛も、希望も、友情も。

 すべては、彼らが楽しむための「贅沢な娯楽」に過ぎないのだから。




 久我彰が千田勇吾によって観測され、そして不可逆的な変化を遂げた夜から、数週間が経過していた。

 明館高校の空気は、相変わらず淀んでいる。生徒たちは偏差値という名の数字の羅列に一喜一憂し、教師たちは「自主自律」という空虚なスローガンを壊れたレコードのように繰り返す。

 白井風香は、教室の自席で頬杖をつきながら、窓の外を流れる雲を眺めていた。

 彼女の視界において、この世界は色彩を欠いたモノクロ映画のように映る。時折、村山光輝のような「ノイズ」が入り込んだり、久我彰のような「閃光」が走ったりするが、それが過ぎ去れば、また元の退屈なグレーに戻るだけだ。

「……はぁ」

 ため息が漏れる。それは、肺の中の空気を入れ替えるための生理現象ではなく、魂の底に溜まった澱を吐き出すような、重たく湿った音だった。

「どうしたの、風香。元気ない?」

 隣の席の女子生徒が、心配そうに声をかけてきた。名前は覚えていない。風香の脳内において、彼女は「クラスメイトF(属性:善良、無害、会話パターン:共感と同意のみ)」とラベリングされている。

 風香は、コンマ一秒で「完璧な優等生の微笑み」を顔面に貼り付けた。

「ううん、大丈夫。ちょっと昨日の数学の課題が難しくて、考え事してただけ」

「えー、風香でも難しいって思うことあるんだ! 私なんて全然わかんなかったよ〜!今度教えてほしい!」

「いいよ。放課後、図書室でやろっか」

「やった! ありがとう、風香ってほんと優しいよね」

 クラスメイトFは満足げに自分の席に戻っていった。「優しい」という評価を獲得し、円滑な人間関係というミッションをクリアした。所要時間、約三十秒。

(……死ぬほど、くだらない)

 風香は内側で毒づきながら、笑顔のまま視線を再び窓へ戻した。

 人間は、チョロい。特定の入力(笑顔、共感、適度な謙遜)を与えれば、必ず期待通りの出力(好意、信頼、安心)を返してくる。まるで、単純なプログラムだ。

 千田勇吾と出会う前、風香はこの世界のあまりの単純さに絶望し、死を待つだけの存在だった。

 彼女の「退屈」の根源は、幼少期という名の、長く残酷な演劇の舞台にあった。

 ***

 白井風香の家は、絵に描いたような「幸福な家庭」だった。

 父は大手商社の幹部、母は有名な料理研究家。都心の一等地に建つマンション。週末には家族でクラシックコンサートや美術館に出かけ、長期休暇には海外で過ごす。

 風香は、その完璧な舞台装置における「完璧な一人娘」という役を与えられていた。

「風香ちゃんは、本当にいい子ね」

「こんなに可愛くて、頭も良くて、ピアノも上手なんて。将来が楽しみだわ」

 周囲の大人たちは、風香を見るたびにそう言って目を細めた。

 だが、幼い風香は気づいていた。彼らが見ているのは「白井風香」という生身の人間ではない。彼らの網膜に映っているのは、両親の社会的ステータスや、自身の教育方針の正しさを証明するための「美しいトロフィー」としての風香だった。

 母は、風香がテストで満点を取ると、抱きしめてくれた。ピアノのコンクールで優勝すると、最高級のレストランで祝ってくれた。

 しかし、風香が少しでも期待を裏切ると――例えば、テストで九十五点を取ったり、人前で「子供らしい」わがままを言ったりすると――母の顔から表情が消えた。

「ママはそんな子に育てた覚えはないわ」

 氷点下の声。それは、暴力よりも深く、風香の心を抉った。

 母の機嫌を損ねることは、この家における自身の存在価値を否定されることと同義だった。

 生き延びるために、風香は「演技」を学んだ。

 どんなに悲しくても、口角を上げて笑うこと。どんなに退屈でも、興味深そうに目を輝かせること。自分の感情を殺し、相手が望む「正解」のリアクションを常に選択し続けること。

 彼女は、感情という非効率なノイズを排除し、他者の顔色というデータを解析して最適解を出力する、高性能なAIへと自らを作り変えていった。

 中学校に上がる頃には、風香の演技は完成の域に達していた。

 成績優秀、眉目秀麗、誰にでも優しく、決して驕らない。教師からは絶対的な信頼を得て、男子生徒からは憧れの的となり、女子生徒からは「完璧すぎて嫉妬すらできない」と言わしめた。

 だが、完璧な演技の代償として、風香は自分自身の「核」を見失っていった。

 今、自分が笑っているのは、本当に楽しいからなのか、それとも「ここは笑う場面だ」と脳が判断したからなのか。

 自分が何が好きで、何が嫌いで、何に怒り、何に感動するのか。それら全てが、分厚い霧の向こう側に消えてしまった。

 世界は、セットに過ぎなかった。人々は、決められた台詞を吐くだけのエキストラだった。

(誰か、この茶番劇を止めて)

(誰か、私の仮面を引き剥がして)

 そんな音のない悲鳴を上げ続けていたある日。

 高校の入学式で、風香は千田勇吾と出会った。

 それは、新入生代表の挨拶の時だった。

 壇上に立った千田は、完璧な姿勢と、完璧な発声で、完璧な祝辞を述べた。「自主自律」の精神を讃え、これからの高校生活への希望を語るその姿は、誰もが認める「理想の優等生」そのものだった。

 体育館を埋め尽くす生徒や保護者、教師たちが、感心した様子で千田を見つめている。

 だが、風香だけは違った。

 壇上の千田と目が合った瞬間。

 ほんのコンマ数秒、千田の完璧な笑顔の仮面が、歪んだように見えた。

 彼の瞳の奥には、風香と同じ、底知れない「退屈」と、この場にいる全ての人間を見下す冷徹な「嘲笑」が渦巻いていた。

(……あ)

 風香の背筋に、冷たい電流が走った。

 彼も、演じている。

 私と同じ、この世界を冷めきった目で見つめる、同類の怪物。

 式の後、風香は衝動的に千田の後を追った。

 人気のない校舎の裏手で、彼に追いついた。

「ねえ、新入生代表さん」

 声をかけると、千田は振り返った。その顔には、まだ「優等生」の仮面が張り付いていた。

「やあ。何か用かな? 君も新入生だよね」

 爽やかな声。完璧な笑顔。

 風香は、その完璧さに、強烈な吐き気を催した。

「やめてよ。誰も見てないのに、そんな疲れる演技」

 風香は、自分の顔から「優等生の微笑み」を剥ぎ取った。幼い頃から鍛え上げてきたその筋肉を弛緩させ、能面のような無表情で千田を見据えた。

「あんた、この学校のこと、馬鹿にしてるでしょ。ここにいる全員のこと、脳みその足りない家畜だと思ってるでしょ」

 千田の動きが止まった。

 数秒の沈黙の後。

 彼の顔から、スッと表情が消えた。

 それは、「素」の千田勇吾の顔だった。

 優しさも、爽やかさも、人間らしい温かみも一切ない。ただ、深淵のような知性と、残酷なまでの好奇心だけが光る瞳。

「……面白いね」

 千田の声のトーンが、一段階低くなった。

「君のその顔。そっちの方がずっといい。さっきまでの、安っぽい少女漫画のヒロインみたいな笑顔より、ずっと美しいよ」

 千田はゆっくりと風香に近づいてきた。

「君も、こっち側の人間か。……名前は?」

「白井風香」

「そうか、白井風香。君は、何に絶望している?」

「全てに。この世界の予定調和な脚本に。私の演技を見抜けない節穴だらけの観客たちに。そして、演技を辞められなくなってしまった自分自身に」

 風香の言葉を聞いて、千田は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。

「君のその『虚無』は、一級品の素材だよ」

 千田は風香の目の前に立ち、彼女の瞳を覗き込んだ。

「なぁ、白井風香。俺と一緒に、この退屈な世界を変えてみないか? 脚本通りの台詞しか吐けないエキストラたちを、俺たちの手でイレギュラーな存在に書き換えるんだ。彼らが壊れ、泣き叫び、あるいは覚醒する様を、特等席で観察しよう」

 それは、悪魔の契約だった。

 倫理も道徳も踏みにじり、他人を玩具として弄ぶ、最低最悪の提案。

 だが、その時、風香の心臓は、生まれて初めて、激しく脈打ったのだ。

 この男なら、私の退屈を殺してくれるかもしれない。

 この男なら、私の仮面を引き剥がし、その下にあるドロドロとした本性を、肯定も否定もせずに、ただ「面白い」と笑ってくれるかもしれない。

「……いいよ。乗った」

 風香は、自分の意思で、初めて「本物の笑顔」を浮かべた。それは、毒を含んだ花のように妖艶で、そして歪な笑みだった。

「私を楽しませてね、千田くん。もし少しでも退屈させたら、あんたのこと、ただじゃおかないから」

 こうして、白井風香は千田勇吾の共犯者となった。

 誰かを愛するためでも、救うためでもない。

 ただ、底なしの退屈という地獄から這い上がるため、彼の手を取ったのだ。

 ***

 回想から意識を引き戻すと、窓の外の雲は形を変えていた。

 風香は、スマートフォンを取り出し、LINEを開いた。

 千田とのトーク画面。最新のメッセージは、彼からの短い指令だ。

『次のターゲット候補。3年C組、高橋麻里奈。校則違反常習犯のギャルだが、裏で教師と繋がっているという噂がある。彼女の「強がり」のメッキを剥がして、その下にある腐敗した本性を見てみたい。君の出番だ』

 風香は、小さく鼻で笑った。

 高橋麻里奈。派手なメイクと短いスカートで武装し、大声で笑うことでしか存在を主張できない、典型的な「量産型ビッチ」。攻略難易度は低そうだ。

 風香は、巧みな指さばきで返信を打つ。

『了解。どんな風に壊す? 泣き叫ばせる? それとも、社会的に?』

 すぐに既読がつき、返信が来る。

『君のセンスに任せるよ。俺を驚かせてくれ。期待値は超えてもらわないと困る』

(……人使いが荒いのね)

 頭の中で文句を言いながらも、風香の口角は自然と上がっていた。

 退屈な日常に、微かな亀裂が入る。その亀裂から、毒々しい色の光が漏れ出してくる。

 風香は立ち上がり、教室を見渡した。

 相変わらず、クラスメイトたちは平和ボケした顔で、どうでもいい雑談に興じている。

 彼らは知らない。

 自分たちの日常が、たった二人の高校生の気まぐれによって、いとも簡単に崩れ去ることを。

 風香は、獲物を定める肉食獣の目で、ターゲットがいる3年生のフロアへと向かう階段を見上げた。

「仕事の時間ね」

 彼女の足取りは軽い。

 硝子の靴を自ら叩き割ったシンデレラは、裸足のまま、茨の道を笑いながら駆け抜けていく。

 その先に待つのが、王子様とのハッピーエンドなどではなく、断頭台の露へと消えるバッドエンドだとしても、退屈な舞踏会で踊り続けるよりは、幾分マシなのだから。





 私立明館高校のヒエラルキーにおいて、三年の高橋麻里奈は特殊な位置にいた。

 派手な金髪、校則を無視した短いスカート、そして常に数人の取り巻きを引き連れて廊下を闊歩する姿は、一見すれば典型的な「スクールカースト最上位のギャル」だ。しかし、千田の観察眼は、その華やかな表層の下に潜む「歪な生存戦略」を捉えていた。

「彼女は、捕食者のフリをした寄生虫だ」

 放課後の旧校舎、埃の舞う理科準備室で、千田は森涼介に向かってそう吐き捨てた。手元には、麻里奈の過去三カ月の欠席日数と、それに対応する指導部への「情報提供」のタイミングを照合したデータが表示されている。

「森、君は不思議に思ったことはないか? 彼女があれほど奔放に振る舞い、喫煙や深夜徘徊の噂が絶えないにもかかわらず、一度も停学処分を受けていない理由を。そして、彼女の周囲で『素行の悪い』とされた生徒たちだけが、ピンポイントで排除されていく理由を」

 森は、千田が提示する冷酷な真実に眉をひそめた。

「……彼女が、先生たちに情報を流しているって言いたいのか? 仲間を売って、自分の自由を買っていると」

「『自由』じゃない。彼女が買っているのは『特別感』だ」

 千田は楽しそうに椅子を回転させた。

「彼女のような空虚な人間にとって、教師という権力者と秘密を共有し、コミュニティの生殺与奪の権を握ることは、どんな麻薬よりも脳を焼く。彼女の強気な態度は、権力という後ろ盾があるからこそ成立するハリボテだ。そのハリボテを剥がしたとき、彼女の精神がどんな音を立てて崩れるか……興味がないか?」

「……趣味が悪いよ、千田」

 森はそう言いながらも、千田の瞳に宿る、暗く深い知性の光から目を逸らすことができなかった。



 その頃、高橋麻里奈は駅前のカラオケボックスで、取り巻きの女子たちと騒いでいた。

「マジでウケる!あいつ、昨日先生に呼び出されて泣いてたよ!」

 麻里奈が笑うと、周囲もそれに同調して甲高い声を上げる。彼女は、この空間の支配者だった。自分の言葉一つで、誰かを「身内」にし、誰かを「敵」にできる。その全能感が、彼女のアイデンティティを支えていた。

 だが、その輪の中に、見慣れない顔が混じっていた。

 白井風香だ。

 二年生でありながら、その美貌とミステリアスな雰囲気で既に校内に名を知られていた彼女は、ごく自然に、まるで最初からそこにいたかのような顔で麻里奈の隣に座っていた。

「麻里奈さんって、本当に先生に好かれてるよね」

 風香が、ストローを咥えたまま、無防備なトーンで言った。

 麻里奈の身体が一瞬、硬直した。だが、彼女はすぐにプロの笑顔を取り戻す。

「えー、何それ?私、めっちゃ反抗的だし、嫌われてるよー、マジで」

「そうかな? この前、指導部の柳先生の車に乗ってるの見たけど。あ、ごめん。あれって、特別な個別指導だったのかな?」

 カラオケの騒音が、麻里奈の耳元で遠のいていった。

 風香の瞳は、笑っていない。それは、獲物の急所を正確に見定めた爬虫類の目だった。

 取り巻きの女子たちが、不審な視線を麻里奈に向ける。

「麻里奈、柳とデキてんの!?」

「マジかよ、あのハゲ親父と?」

「違うって! 勘違いだから!」

 麻里奈の声が裏返る。

 風香は、その「崩れ」の第一歩を、至福の喜びとともに観察していた。真実をすべて突きつけるのではなく、毒を滴らせるように一滴ずつ落としていく。そうすることで、相手は勝手に自己防衛のために嘘を重ね、その嘘の自重で自滅していく。



「君の言う『正義』は、単なる『弱者の談合』に過ぎない」

 深夜の千田の部屋。

 二人の前には、高橋麻里奈のSNSから抽出された相関図と、柳先生との会話ログが広げられていた。

 森は、千田の暴走を止めるべく、言葉を尽くしていた。

「千田、彼女がやっていることは確かに卑怯かもしれない。でも、それを白日の下に晒して彼女の居場所を奪うことが、果たして『正しい』と言えるのか? それは単なる私刑だ。法の支配を無視した、暴力と変わらない」

 千田は鼻で笑った。

「森、君はまだ気づかないのか。この社会において『悪』と定義されるものは、単に『大多数の感情を不快にさせる行為』でしかない。逆に『正義』とは、『大多数の自尊心を満足させる復讐』の別名だ。俺がやろうとしているのは、麻里奈という個体を、彼女が裏切ってきた『群れ』に投げ与えることだ。群れが彼女を食い荒らすとき、自分たちが正義を行っていると確信し、ドーパミンを放出する。俺はその反応を観察したいだけだ」

「君には、人の心がないのか……?」

「心はある。だが、それは『機能』として存在しているに過ぎない。悲しみは喪失に対するアラート、怒りは境界侵犯に対する防衛反応だ。俺はそれらのプログラムを客観的に眺めている。だが君は、プログラムの中にどっぷりと浸かり、それが『神聖な何か』だと勘違いしているんだ」

 千田は立ち上がり、本棚から一冊の古びた哲学書を取り出した。

「『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない』と。だが、俺は違う。俺は最初から怪物の側だ。そして森、君は『怪物の隣で、汚れなき人間であり続けようとする』という、最も傲慢で、最も残酷な役回りを演じている」

 千田の言葉は、鋭利なメスとなって森の精神を切り裂いていく。

「君は麻里奈を助けたいんじゃない。麻里奈を見捨てる自分を許せないだけだ。君の善意は、自己満足という名のマスターベーションだよ」

 森は絶句した。

 千田の論理には、隙がない。自分の「善」が、実は単なる「恐怖」や「見栄」に根ざしているのではないかという疑念が、胃の奥で黒い泥のように渦巻く。

「……それでも」森は声を絞り出した。

「僕は、君のようにはなりたくない。人を壊して、その破片を並べて笑うような、そんな空っぽの人間には」

「空っぽなのは、世界の方だ、森。俺はそこに『澱み』という色彩を塗ってあげているだけさ」



 破滅の日は、「文化祭準備期間」の最中に訪れた。

 体育館には多くの生徒が集まり、各クラスの出し物の準備に追われていた。麻里奈はいつものように、取り巻きに指示を飛ばしていた。しかし、その足元は、数日前から風香が撒き散らした「噂」によって、既に泥濘と化していた。

 風香は、千田から渡された「最終兵器」を、高校の匿名掲示板にセットした。

「ねえ、麻里奈さん」

 風香が、体育館のステージの上から声をかける。

 ざわついていた生徒たちの視線が、一斉に二人に向かう。

「何?また変なこと言い出すつもり?」

 麻里奈は強気に振る舞おうとするが、その指先はわずかに震えていた。

「ううん。今日は、麻里奈さんがいつも頑張って先生たちを助けている『実績』を、みんなにも知ってもらおうと思って。柳先生とのやりとり、すごく感動したよ。『次は誰を報告すればいいですか?』って、まるでスパイみたい」

 次の瞬間、体育館の大型スクリーンに、麻里奈のスマートフォンから流出したLINEの履歴が映し出された。

『柳先生、2組の佐藤、放課後に裏口でタバコ吸ってますよ。停学にしてくださいw』

『3組の加藤、親の財布から金盗んでるって自慢してました。これ、推薦取り消し案件ですよね?』

『いつも情報ありがとうございます、高橋さん。』

 静寂。

 そして、その後に訪れたのは、肺を圧迫するような重苦しい空気だった。

 麻里奈の取り巻きたちが、一歩、また一歩と彼女から離れていく。

「違う……これは、偽造よ! 誰かが勝手に……!」

「偽造じゃない。柳先生のスマホからも同じやりとりが出てきたよ」

 風香は、無垢な天使のような微笑みを浮かべながら、トドメを刺した。

「麻里奈さん、あなたは、ただの、大人に媚びを売って仲間を売る、一番卑怯な『ゴミ』だったんだね」

 その言葉を合図に、体育館は罵声と嘲笑の嵐に包まれた。

「信じられない……」

「佐藤が停学になったの、お前のせいだったのかよ!」

「マジで消えろよ、密告女!」

 麻里奈は、かつて自分が支配していた「群れ」からの激しい拒絶にさらされ、その場に崩れ落ちた。彼女が積み上げてきたプライド、居場所、人脈。そのすべてが、たった数行の文字列によって灰に帰した。

 千田は、その光景を眺めていた。

 彼の隣には、震える森涼介がいる。

「見てごらん、森。これが君の愛する『人間』の本性だ。正義の名の下に、弱った個体を袋叩きにする。彼らの顔を見てみろ。誰もが、輝かんばかりの笑顔をしているだろう? 復讐という名の娯楽を、骨までしゃぶっているんだ」

「もう、やめろ……。千田、これ以上は……」

「群れに捨てられ、権力という後ろ盾を失った彼女が、この後どんな『言葉』を発するのか。絶望の果てに、彼女の魂は新しい形へと再構築される」



 事件の後、麻里奈は一週間の不登校を経て、学校に現れた。

 かつての派手なメイクはやめ、髪も黒く染め直していた。彼女の席の周りには、もはや誰もいない。廊下を歩けば、心ない陰口が突き刺さる。

 しかし、彼女の瞳には、以前のような「虚栄」はなかった。

 ある放課後。千田は、屋上で一人、空を眺めている麻里奈に近づいた。

「気分はどうだい、高橋さん」

 麻里奈はゆっくりと振り返った。その顔には、深い絶望を通り抜けた者だけが持つ、奇妙な透明感があった。

「……あんたがやったんでしょ、千田。白井さんを使って」

「否定はしない。怒っているか?」

「……ううん。不思議と、スッキリしてる」

 麻里奈は、自嘲気味に笑った。

「私、ずっと怖かったんだ。いつかバレるんじゃないかって。みんなに嫌われるのが怖くて、媚を売って、裏切って。でも、全部失ってみたら……あ、私、最初から何も持ってなかったんだって気づいた。あんなに必死に守ってた『居場所』が、こんなに簡単に壊れる程度のものだったなんて、笑っちゃうよね」

 千田は、彼女の言葉を興味深く分析した。

「君は、自分の無価値さを直視することで、ようやく『自分』という個体の輪郭を掴み始めた」

「……ねえ。私、これからどうすればいい?」

「好きにすればいい。君を縛るものは、もう何もない。愛も、友情も、地位も。君は、この学校で唯一、本当の意味で『自由』になったんだ」

 千田は彼女に背を向け、去り際に一言だけ残した。

「明日、森に飴をあげてくれ。彼は、君を救えなかったことに、まだ苦しんでいる。……その不合理な罪悪感を、君の『新しい笑顔』で粉砕してやってほしい」




 久我彰の洋館。

 地下室では、久我が巨大なキャンバスに、円と線だけで構成された絵を描き続けていた。

「千田、計算が終わったよ」

 久我は、筆を置かずに言った。

「幸福、苦痛、絶望。すべての変数を無限大に飛ばせば、最後には『無』という定数だけが残る。この世界は、壮大なゼロだ」

 千田は、久我の横に座り込んだ。

「久我、君の脳は今、最高に美しい。数式で定義できないものを、君の身体が理解し始めている」

「……君は、僕をどこへ連れて行くつもりだ?」

「どこにも行かないさ。俺たちは、この退屈な箱庭の中で、永遠に『今』という瞬間を分解し、観察し続けるだけだ」

 千田の目には、虚無があった。

「森は正義を説き、風香は刺激を求め、君は真理を追う。そして俺は、それらすべてが混ざり合い、崩壊していく『プロセス』を愛でる。……これ以上の人生が、他にあるか?」



 数カ月後。

 明館高校には、新しい「秩序」が生まれていた。

 表面的には相変わらずの進学校だが、その内側では、千田を中心とした「目覚めた者たち」のネットワークが静かに浸透していた。

 村山光輝は、哲学的な思索を好む思慮深い少年として再定義され、

 高橋麻里奈は、誰にも媚びない孤高の存在として、ある種の畏怖を集め、

 久我彰は、時折送られてくる数学の難問を瞬時に解き明かす「影の賢者」となっていた。

 そして、森涼介は。

 彼は相変わらず、千田の隣にいた。

「僕は、君を許さない。君がやっていることは、いつか必ず破綻する」

「楽しみだよ、その破綻の瞬間が」

 千田は、夕焼けに染まる校庭を眺めながら、満足げに微笑んだ。

 彼らの残酷で美しい青春は、これからも加速度を上げて続いていく。

 未来への希望などという安っぽい幻想は、彼らには必要なかった。

 ただ、この刹那に火花を散らす「知性」と「悪意」の融合こそが、彼らにとっての唯一の真実なのだから。






 千田勇吾の最も古い記憶は、色が欠落した「白」に支配されている。

 都心の一等地に建つ、生活感の一切排除されたデザイナーズマンション。そこが彼の揺りかごだった。父は世界的な脳科学者、母は数理言語学の教授。二人の間に生まれた勇吾は、愛情の対象ではなく、一種の「共同研究プロジェクト」として扱われた。

 彼が4歳の時、リビングのベランダに迷い込んだ鳥が死んでいた。

 普通の子供であれば、泣き叫ぶか、あるいは土に埋めてやるだろう。しかし、勇吾はキッチンから持ち出した果物ナイフで、その鳥を丁寧に「解体」した。

 彼が知りたかったのは、命の尊さではない。なぜ、つい数分前まで羽ばたいていた肉体が、今はただの「動かない物質」へと変貌したのか。その物理的なスイッチがどこにあるのか。

 戻ってきた母親は、血に汚れた息子の手と、バラバラになった鳥を見て、悲鳴を上げる代わりにこう言った。

「勇吾、断面の観察記録は取った? 視神経と脳の接続を確認しなさい」

 その時、彼は理解した。

 この世に「悲しみ」や「残酷」などという感情は存在しない。あるのは、事象の観察と、それに対する論理的な解釈だけだ。母の瞳に宿っていたのは慈愛ではなく、自身の教育方針が「正しく機能している」ことへの満足感だった。



 小学校に入学した勇吾は、周囲の子供たちとの圧倒的な乖離に気づく。

 彼らは特定の単語――「友達」「正義」「いじめはダメ」――という記号に対して、反射的に感情を起動させる。それはまるで、特定の音に反応して涎を垂らすパブロフの犬と同じだった。

 勇吾にとって、言葉は他者を操作するための「コマンド」に過ぎなかった。

「悲しい顔」を作れば大人は優しくなり、「反省の色」を見せれば罰は回避される。彼は小学校低学年にして、人間が「社会」という劇場で演じている稚拙な脚本の全貌を見抜いてしまった。

 彼は教室の隅で、クラスメイトたちの行動をノートに記録し始めた。

 * 拓也君は、まみかちゃんに「可愛い」と言われると心拍数が上がり、語彙力が低下する。

 * 竹内先生は、「熱意ある指導」を演じている最中に、自身の承認欲求を処理している。

 * 「いじめ」が発生した際、傍観者たちは「自分じゃなくてよかった」という安堵を、「正義感による憤り」という仮面で隠蔽する。

 彼はこのノートを『家畜の飼育記録』と名付けた。

 彼にとって、同級生は対等な人間ではなく、特定の刺激(ストレス、賞賛、恐怖)に対して既定の挙動を示す生物学的サンプルとなった。



 勇吾が10歳の時、彼は最初の「本格的な実験」に着手した。

 ターゲットは、クラスで最も内気で、誰からも相手にされていなかった少年、佐藤健太だった。

 勇吾は、佐藤に対して徹底的な「偽りの共感」を注ぎ込んだ。

 佐藤の趣味であるマイナーな昆虫図鑑を読み込み、彼が孤立している時にだけ「君の視点は鋭いね」と、彼が最も欲していた承認を与え続けた。

 数ヶ月後、佐藤にとって勇吾は「世界で唯一の理解者」――いわゆる親友となった。佐藤の精神的安定は、100%勇吾という外部入力に依存するようになった。

 準備は整った。

 勇吾は、ある日突然、佐藤を徹底的に無視し始めた。

 単に無視するのではない。クラスのリーダー格の男子に、佐藤が「あいつらのことは脳みそが足りない猿だと言っていた」という偽の情報を、あたかも佐藤の独り言を耳にしたかのように流したのだ。

 佐藤は一瞬にして「裏切り者の変人」として、クラス全員から認識された。

 絶望に震える佐藤が、最後の希望を求めて勇吾に縋り付いてきた時、勇吾は彼にこう告げた。

「健太くん、君が今感じている絶望は、セロトニンとドーパミンの急激な減少による脳の防衛反応だよ。君が俺を『親友』だと定義した時点で、この結果は確定していたんだ。君の痛みは、俺にとって最高の学習データになった。ありがとう」

 佐藤はその場で崩れ落ち、翌日から不登校になった。

 勇吾の心に罪悪感は微塵もなかった。あったのは、**「一人の人間の精神構造を完全に掌握し、崩壊させるプロセスの美しさ」**への心酔だった。



 勇吾が中学生になる頃、千田家という「擬似的な家庭」もまた、その耐用年数を迎えていた。

 父が若い助手と不倫をし、母はそれを「生殖本能の非効率な発露」として冷徹に批判し、家庭内は罵り合いの場と化した。

 ある夜、母が父に向かって包丁を突きつけた。

 普通の子供であれば止めに入るか、恐怖に震える場面だ。しかし、14歳の勇吾はダイニングテーブルに座り、タブレットでその様子を録画しながら、冷静に実況した。

「二人とも、今この瞬間の自身の醜い表情を後で見返すといい。これが君たちの説く『高度な知性』の正体だ」

 包丁は床に落ちた。

 両親は、自分たちが作り上げた「怪物」に恐怖した。

 翌月、両親は離婚した。勇吾は「どちらにも付いていかない。生活費と教育費、そしてこのマンションを俺に自由に使わせること」を条件に、独り立ちを選択した。

 彼は、自由を手に入れた。

 大人という名の「劣化していく個体」の支配から脱却し、彼は自身の脳をさらに研ぎ澄ませるための「実験」を加速させていく。



 高校入学を控えた春、勇吾はSNSを通じて、ある「道具」を手に入れた。

 LSD、MDMA、コカイン。

 彼にとって、これらは享楽のためのドラッグではない。脳というハードウェアの性能を限界まで引き出し、日常という「フィルター」を外して世界を直視するための**「分析用試薬」**だった。

 初めてLSDを服用した夜、彼は自分の部屋の窓から東京の夜景を眺めていた。

 数百万人の人間が、それぞれの狭い価値観に閉じ込められ、意味のない感情の交換を繰り返している。その情報の奔流が、色鮮やかな幾何学模様となって彼の脳内に流れ込んできた。

「愛している」「死にたい」「勝ちたい」

 それらの言葉が、単なる電磁波の波形として可視化される。

 彼は、自分がこの世界の「プレイヤー」ではなく、唯一の「ゲームマスター」であることを確信した。

 彼は、自分の感情を完全に外部化した。

「怒り」を感じた時は、「今、扁桃体が興奮している」と分析し、「喜び」を感じた時は「報酬系が作動している」とラベリングする。

 感情を情報として処理することで、彼は世界から受けるあらゆる「痛み」から解放された。しかし、その代償として、彼は「生の実感」をも失っていった。

 彼にとって世界は、あまりにも静かで、あまりにも退屈な「バグのないシミュレーター」となってしまったのだ。



 明館高校への入学。

 そこは、偏差値という名の数字で家畜を選別する、彼にとって格好の実験場だった。

 そこで彼は、人生で初めての「イレギュラー」に出会う。それが、森涼介だった。

 森は、千田が最も軽蔑する「善意」と「道徳」の塊のような存在だった。

 しかし、千田はすぐに気づいた。森の善意は、他の凡人のような思考停止の結果ではない。森は、この世界の残酷さも、千田のような怪物の存在も、すべて理解した上で、あえて「善」という不自由な重りを背負い、苦悩し続けている。

「面白い」

 千田は、久々に脳が震えるのを感じた。

 他の人間は、押せば鳴るだけの鍵盤だ。しかし、森涼介という鍵盤は、叩くたびに予想外の不協和音を奏でる。

 千田は森に近づいた。

 自分の本性を隠さず、毒を吐き、倫理を嘲笑う。それでも森は、千田を見捨てない。「君は間違っている」と言いながら、最後まで対話を諦めない。

 千田にとって、森は自分という「暗闇」を照らし出し、その輪郭を教えてくれる唯一の「鏡」となった。



 そして、白井風香。

 彼女は、千田がかつて捨て去った「演技する苦悩」を今なお抱え続けていた。

 千田は、彼女の中に自分と同じ「虚無」を見た。しかし、彼女はその虚無を埋めるために、他者の崩壊という「刺激」を求めていた。

「白井さん。君は、自分が空っぽであることを証明するために、他者を壊したがっている。それは、非常に洗練された生存本能だ」

 千田は彼女を「共犯者」に選んだ。

 一人で世界を観察するのは、あまりにも静かすぎる。

 風香という「増幅器」と、森という「定規」を手に入れたことで、千田勇吾の実験は、ようやく「青春」という名の残酷な完成へと向かい始めたのだ。



 現在、千田勇吾は三階の教室の窓際に立っている。

 彼の視線の先には、「感情の奴隷」として生きる生徒たちの群れがある。

「人は、自分を定義してくれる地獄を求めて生きている」

 千田は、誰に聞かせるでもなく呟く。

 彼にとって、この高校も、この国も、この地球さえも、自身の知的好奇心を満足させるための巨大な皿に過ぎない。

 彼は今夜も、暗い部屋で、誰かの崩壊の記録を観察するだろう。

 そこには悪意はない。ただ、圧倒的なまでの、純粋で冷酷な「愛」に似た好奇心があるだけだ。

 彼の物語は、決して終わらない。

 なぜなら、世界が退屈である限り、千田勇吾という名の観測者は、その「退屈」を殺すための不条理を生み出し続けなければならないからだ。


 千田勇吾は、幸福なのだろうか。

 彼は、他者が必死に追い求める「愛」や「安定」を、無価値として切り捨てた。

 代わりに彼が手に入れたのは、世界の裏側を覗き見る特等席と、すべてを掌握しているという全能感だ。

 しかし、深夜、誰もいないマンションの自室で、彼が一人で眺めるモニターの光に照らされたその顔は、何よりも深く、何よりも冷たい、孤独の色に染まっている。

 彼は、誰よりも世界を理解し、誰よりも人間に詳しい。

 彼は、一生、観測者であり続ける。

 それは、彼が自ら選んだ、最高に贅沢で、最高に呪われた「自由」の形なのである。





 私立明館高校の秋は、死を待つ生物の最期のような、不気味なほどの静けさに包まれていた。

 久我彰という「天才」を解体し、高橋麻里奈という「寄生虫」を排除した千田勇吾にとって、日常はもはや、一度解いたパズルの残骸を眺めるような退屈な作業でしかなかった。

 しかし、その千田の背後で、彼という「絶対的観測者」を、さらに冷徹なレンズで捉え続けていた存在があった。




 千田勇吾という「絶対的な観測者」に対し、唯一その隣に立つことを許された「絶対的な道徳者」である森涼介。

 しかし、光が強ければ影もまた濃くなるように、森の内に秘められた「正義」は、千田の悪意に曝され続けることで、ついに臨界点を迎えていた。


 千田勇吾の実験が激化するにつれ、森涼介の精神は、目に見えない音を立てて削り取られていった。

 かつての森にとって、道徳とは「守るべき誇り」だった。しかし今、それは千田に嘲笑され、解体されるための「脆弱なサンプル」に過ぎない。

 放課後の図書室、森は机に突っ伏していた。目の前には、千田から無理やり渡された一冊のノートがある。そこには、高橋麻里奈が崩壊していく過程が、千田特有の冷徹な文体で、まるで昆虫の観察日記のように詳細に記されていた。

「……もう、限界だ」

 森の呟きは、誰にも届かない。

 彼は、千田を止めたかった。だが、言葉を尽くしても、千田はその言葉の「論理的矛盾」や「自己満足の構造」を指摘し、森の善意を無力化する。

 正攻法では勝てない。千田という怪物を殺すには、自分もまた、怪物と同じ深淵に降り立ち、毒を生成しなければならない。

 森は、震える手でスマートフォンを取り出し、ある人物に連絡を入れた。

 白井風香。

 千田の共犯者であり、この残酷な遊戯を最も楽しんでいる女。森は知っていた。風香にとって、千田は「面白いおもちゃ」だが、もし千田以上に面白い「毒」が現れれば、彼女は容易に寝返る可能性がある。

「……白井さん。今夜、少し話せるかな。千田には、内緒で」

 その指先は、恐怖で凍りついていた。しかし、彼の瞳には、これまでにない暗い炎が宿っていた。



 深夜のファミリーレストラン。ドリンクバーの機械が発する低いうなり音だけが響く店内で、風香は面白そうに森を眺めていた。

「へえ、あの『正義の味方』の森くんが、私を呼び出すなんて。千田くんが人助けをするより珍しいんじゃない?」

「……白井さん。君は、千田のことが好きなのか、それともただ面白いだけなのか」

 森の問いに、風香はストローを噛みながら答えた。

「好き? そんな安っぽい言葉、千田くんに聞かれたら笑われちゃうわよ。私は、退屈を殺してくれるなら何でもいいの。千田くんは最高に面白い。でも最近、ちょっとだけ飽きてきたかな。彼の行動は、あまりにも『予測通り』に完璧なんだもん」

 森は、心臓の鼓動が速まるのを感じた。賭けに出る時が来た。

「なら……千田が『予測できないこと』を見たくないか。彼が最も信頼し、最も自分に近いと信じている『鏡』である僕が、彼を裏切り、彼を地獄に突き落とす瞬間を」

 風香の瞳が、爛々と輝いた。

「……面白い。森くん、あんた、自分の言ってることの意味、わかってる? それは、あんたが大切にしていた『正義』をドブに捨てるってことよ」

「捨てていい。千田を止めるためなら、僕は喜んで泥を啜る」

 森は、千田の自室のスペアキーと、彼が隠し持っている「ドラッグの保管場所」の情報を、風香から聞き出した。風香は、千田を裏切ることへの罪悪感など微塵もなかった。彼女にとって、この「新しい反逆」は、これまでの千田の実験よりも遥かに刺激的な娯楽だったのだ。



 森は、千田から教わった「技術」を逆用し始めた。

 彼は、千田が最も嫌う「非論理的な感情」を武器にするのではなく、千田と同じ「冷徹な情報操作」を学び、実践した。

 まず、千田がこれまでに集めてきた「他者の弱み」という名のアーカイブ。それを、「千田勇吾自身の個人情報」と共に、学校中にばら撒いた。

 そして、彼は千田の自室に忍び込んだ。

 そこには、千田が「思考の拡張」のために使用しているLSDのシートがあった。

 森は、そのシートの一部を、自分が用意した「別の物質」にすり替えた。それは、感覚を鋭敏にするものではなく、強烈な「不安」と「恐怖」を増幅させる、危険ドラッグだった。

「千田。君は『痛みを感じない自分』を誇っていたね。なら、その無敵の脳に、君自身がこれまで他者に与えてきた『絶望の総量』を叩き込んでやる」

 森の表情からは、もはや慈悲の光は消えていた。

 彼は、千田という「毒」を殺すために、自らをさらに強力な「猛毒」へと変貌させたのだ。



 決行の夜。久我彰の洋館の地下室。

 かつて、千田が久我を覚醒させたその場所に、千田と森の二人がいた。

 千田は、ソファに深く腰掛け、いつものように不遜な笑みを浮かべていた。

「森、今日は一段と顔色が悪いな。どうした? 君の正義感が、自分の内側から君を食い荒らしているのか?」

「……いや。今日は、君に『贈り物』を持ってきたんだ、千田」

 森は、すり替えたLSDのシートを差し出した。千田は、疑うこともなくそれを受け取った。森が自分に対して「工作」を仕掛けるなど、彼の計算には一ミリも存在しなかったからだ。

「ほう。君が俺にこれを勧めるなんて。ついに、君も『こちら側』へ来る決心がついたか」

 千田は、それを口に含んだ。

 数十分後。薬理作用が始まり、千田の瞳孔が開く。

 しかし、いつもと様子が違った。

 サイケデリックな幾何学模様が見えるはずの視界には、血を流す青い鳥、解体された佐藤健太の泣き顔、そして、かつて彼が「情報」として切り捨ててきた犠牲者たちの断末魔が、圧倒的な質量を持って押し寄せてきた。

「……っ!? なんだ、これ……」

 千田が頭を抱えて蹲る。

 森は、冷徹な声で追い打ちをかけた。

「千田、君の脳は今、君が最も嫌う『非効率な感情』の洪水に飲まれている。これは、君がこれまで無視し続けてきたものだ」

 さらに、森はタブレットを千田の目の前に突きつけた。

 そこには、千田のスマートフォンのGPS情報、銀行口座の履歴、そして彼がこれまでに犯してきた教唆・恐喝の証拠が、インターネット上のあらゆるプラットフォームで拡散されていく様子がリアルタイムで映し出されていた。

「君の『匿名性』は崩れた。明日、君は『観測者』ではなく、『犯罪者』として世界から観測される側になるんだ」


「森……! お前……、こんなことを……して……後悔しないと……思っているのか……!」

 千田の顔は、脂汗で汚れ、恐怖に歪んでいた。

 情報の支配者だった男が、情報の波に飲み込まれ、窒息しようとしている。

「後悔? ああ、しているよ」

 森は、膝をつき、千田の瞳をじっと見つめた。

「君を殺すために、僕は自分の中の『人間』を殺した。僕はもう、かつての自分には戻れない。でも、それでいい。君という怪物を野放しにする地獄に比べれば、僕一人が地獄に落ちる方が、遥かに『効率的』だろ?」

 千田は、笑おうとした。しかし、喉から出るのは、ただの掠れた悲鳴だった。

 彼の脳内で、論理の柱が一本ずつ折れていく。

「世界は情報だ」と豪語していた言葉が、ただの空虚な虚勢として彼自身の心を突き刺す。

 その時、地下室の扉が開いた。

 そこには、風香が立っていた。彼女は、地面を這い蹲る千田の無様な姿を、スマートフォンで撮影していた。

「最高……。千田くん、今までで一番いい顔してる。完璧に壊れてるわね」

 風香の冷たい声が、千田の最後の理性を断ち切った。

 彼は、自分が育てた共犯者に裏切られ、自分が蔑んでいた友人に敗北した。

 地下室に、怪物の慟哭が響き渡った。



 翌朝。

 明館高校は、混乱に包まれていた。

 インターネット上に流出した膨大な内部告発、生徒たちの醜聞、そして千田勇吾という生徒の異常な犯行記録。警察が介入し、学校は、一夜にして瓦解した。

 千田勇吾は、精神に重大な疾患をきたしたとして、医療機関に収容された。彼の瞳には、もはや知性の欠片はなく、ただ何かに怯えるような、虚ろな光だけが宿っているという。

 森涼介は、校門の前に立っていた。

 彼は、警察の事情聴取を終え、すべてを話し終えていた。彼もまた、処罰を受けるだろう。だが、彼の心は、不思議なほど静かだった。

「……終わったんだ」

 隣に、風香が歩み寄ってきた。彼女は、相変わらずどこか他人事のような、涼しい顔をしていた。

「ねえ、森くん。これからどうするの? あんた、もう『正義の味方』には戻れないわよ」

「わかってる。僕は、自分の手を汚してしまった。……でも、僕は、君や千田とは違う」

 森は、風香を真っ直ぐに見据えた。

「僕は、自分の犯した罪を、一生『感情』として背負い続ける。君たちのように『情報』として処理して忘れることはしない。それが、僕に残された最後の人間性だ」

 風香は、一瞬だけ驚いたような顔をし、すぐにいつもの退屈そうな表情に戻った。

「……つまんないの。でも、まあ、ちょっとだけ面白かったかな。バイバイ、森くん。地獄でまた会いましょう」

 風香は、人混みの中に消えていった。



 数年後。

 森涼介は、小さな更生施設で働いていた。

 自分の過去を隠さず、罪を背負いながら、迷える少年たちの話を聞く日々。

 彼は、今でも時折、夢を見る。

 白い部屋の中で、千田勇吾と向かい合っている夢だ。

 夢の中の千田は、壊れる前の、あの冷徹で美しい笑顔で笑っている。

『森。君は、俺に勝ったと思っているのか?』

 千田の声が響く。

『君は、俺を止めるために、俺と同じ手法を使った。俺と同じように他者を操作し、裏切り、陥れた。……その瞬間、君は俺になったんだ。俺がいなくなった世界で、君の中に俺の種火が残っている限り、俺の実験は成功し続けているんだよ』

 森は、その声に答えない。

 ただ、静かに目を開け、朝の光を浴びる。

 自分の内側に、確かに「千田勇吾」という名の毒が残っていることを自覚している。

 他人を観察し、その弱さを瞬時に見抜いてしまう。効率的な破壊のルートが、無意識に脳内に浮かんでしまう。

 しかし、森はその「毒」を、自分の意志で、今日も必死に抑え込む。

 毒を消すことはできない。だが、毒を抱えたまま、誰かのために手を差し伸べることはできる。

 それが、千田勇吾という怪物との闘いに終止符を打った、森涼介という一人の人間の、あまりにも苦しく、あまりにも長い「贖罪」の形だった。


 明館高校の跡地には、今は新しい公園ができている。

 かつての喧騒も、悪意も、歪な青春も、すべては歴史の澱の中に沈んでいった。





 森涼介の家庭は、常に「正しさ」の匂いに満ちていた。

 それは、アイロンを当てられたばかりの真っ白なシャツの匂いであり、父の書斎に並ぶ重厚な法学書のインクの匂いであり、そして、汚れ一つない磨き上げられた廊下のワックスの匂いだった。

 父、森慎太郎は人権派の弁護士として名を馳せた男だった。

「知能は、持たざる者を救うための盾であり、弱者の声を届けるための拡声器でなければならない。涼介、お前はその力を、決して自分の欲望のために使ってはならないぞ」

 それが父の口癖であり、森家の絶対的な教典だった。母もまた、慎太郎の理想に心酔し、涼介を「清く、正しく、慈悲深い」子供として育てることに心血を注いだ。

 幼い涼介にとって、世界は明快だった。

 信号は青で渡り、嘘はつかず、困っている友人がいれば手を差し伸べる。そうすれば世界は微笑み返し、自分という存在は肯定される。

 しかし、涼介には生まれつき、その「正しさ」の枠を容易に飛び越えてしまうほどの、鋭すぎる「眼」があった。

 幼稚園の年長の頃、涼介はすでに周囲の子供たちの「嘘」を見抜いていた。

「お腹が痛い」と言って給食を残す友人が、実は単にピーマンが嫌いなだけであることを。先生が「みんな平等です」と言いながら、可愛い子や家が裕福な子を無意識に優遇していることを。

 彼は、それらすべてを論理的に説明し、糾弾することができた。だが、彼はしなかった。

 それを言えば、誰かが傷つく。誰かが傷つくことは『正しくない』

 知性を抑圧し、善性の仮面を被ること。それが、涼介が最初に身につけた、自分という怪物を飼い慣らすための「鎖」だった。



 小学校時代、涼介は「聖人」と呼ばれていた。

 誰にでも優しく、成績は常にトップ。クラスで問題が起きれば、彼は常に公平な仲裁役を務めた。教師たちは「彼こそが教育の理想だ」と口を揃え、両親は息子を誇りに思った。

 だが、涼介の内側では、冷徹な観測者が常に囁いていた。

(この先生は、僕を褒めることで自分の教育能力を確認しているだけだ)

(この友達は、僕と一緒にいればいじめられないという損得勘定で動いている)

(父さんが弁護しているのは、実は父さんの正義感というエゴに過ぎないんじゃないか?)

 自分の瞳が、愛する人々の「醜悪な本音」まで映し出してしまうことに、涼介は絶望していた。彼は、その瞳を叩き割りたかった。しかし、彼にできるのは、その瞳の上に「道徳」という名の分厚い布を被せ、何も見えないふりをすることだけだった。

「涼介、お前は本当にいい子だ。父さんの誇りだよ」

 父親に肩を抱かれるたび、涼介は胃の奥が焼けるような感覚を覚えた。

(お父さん、僕の中には、お父さんが軽蔑するような冷たい知性が渦巻いている。僕は、お父さんが愛している『正しい息子』のフリをしているだけの、嘘つきなんだ)



 涼介の人生を決定的に変え、彼に一生消えない傷跡を残したのは、中学二年生の時に起きた「事件」だった。

 相沢結衣は、涼介のクラスメイトだった。

 おとなしく、絵を描くのが好きな、少し影のある少女。彼女はある時期から、クラスの女子グループのリーダー格である上野沙織から、陰湿ないじめを受けるようになった。

 教科書を隠される。SNSで根も葉もない噂を流される。靴に画鋲を入れられる。

 涼介は、そのすべてを把握していた。

 彼は父の教えに従い、結衣を救おうとした。

 彼は数週間にわたり、いじめの証拠を徹底的に収集した。

 いつ、どこで、誰が、何を言ったか。SNSのスクリーンショット、隠された教科書の場所、目撃者の証言。彼はそれを一冊のレポートにまとめ、担任の教師と、校長、そしていじめている生徒たちの保護者に、匿名で、しかし論理的に逃げ場を塞ぐ形で送付した。

 これで、正しい結果が出る

 涼介はそう信じていた。悪は裁かれ、善は救われる。それが、世界のルールであるはずだと。

 結果は、凄惨なものだった。

 上野沙織とそのグループは、学校から厳しい処分を受け、保護者からも激しく叱責された。彼女たちの「カースト」は一夜にして崩壊した。

 しかし、いじめが消えた教室に訪れたのは、平和ではなく「死の沈黙」だった。

 結衣は、救われなかった。

 彼女は「クラスの王者を陥れた密告者」として、以前よりも深く、冷酷な孤立に追い込まれた。今度は「いじめ」という明確な暴力ではなく、「透明人間として扱われる」という、より残酷な拒絶だった。

 そして、完璧な証拠を突きつけられたことで、上野沙織の家庭は崩壊した。沙織の母親は世間体を気にする教育ママで、娘の「失敗」を許さず、彼女を精神的に追い詰めた。

 一週間後、上野沙織は学校の屋上から飛び降りた。

 一命は取り留めたものの、彼女は下半身不随となり、一生歩けない体になった。

 そして、相沢結衣は、沙織の事故に責任を感じ、自身を責め続け、転校していった。彼女が去り際に涼介に放った言葉は、彼の魂を真っ二つに引き裂いた。

「……森くん、あなたがやったんでしょ? 証拠を集めて、みんなを追い詰めたのは」

 涼介は、震える声で答えた。

「僕は、君を助けたかったんだ。悪いことをしている人を、正したかっただけなんだ」

「……助けてなんて、頼んでない。私は、ただ、普通に卒業したかっただけ。森くん、あなたの『正義』は、私を殺したのと同じだよ。あなたは、自分の正しさを証明するために、私たちを壊しただけじゃない」

 この時、森涼介は理解した。

「正義」は、時として「剥き出しの悪意」よりも人を傷つける。

 知能を使って他者を操作しようとすれば、たとえ目的が「善」であっても、そのプロセスで生じる不均衡が、誰かの人生を再起不能にする。

 彼は、自分の知能が「人を生かすための盾」ではなく「人を効率的に解体するためのメス」であることを思い知らされた。

 それ以来、彼は自分の知性を、分厚い「倫理」という名のコンクリートで塗り固めた。

 二度と、自分の力で誰かの人生を動かしてはならない。

 二度と、自分の「正解」を他者に押し付けてはならない。

 彼が明館高校で「善人」を演じ続け、千田の暴走を必死に止めようとしながらも、自ら動くことを極端に恐れていたのは、この時のトラウマがあったからだ。

 僕が動けば、また誰かが死ぬかもしれない

 その恐怖が、彼を不自由な牢獄に閉じ込めていた。



 明館高校の入学式。

 涼介は、新入生代表として挨拶をする千田勇吾を見た瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。

 その完璧な笑顔。淀みのない言葉。しかし、その瞳の奥にある、絶対的な「虚無」と「傲慢」。

(……こいつは、僕だ)

 涼介は直感した。

(僕が『正義』という重りを捨て去り、自分の知性を自分のためだけに解放した姿。それが、千田勇吾だ)

 千田は、涼介が中学時代に引き起こした惨劇を知る由もなかった。だが、千田は涼介を見るなり、愉快そうに笑った。

「やあ、森くん。君は、自分の内側にある『毒』を隠すのが、とても上手だね。でも、そんなに重い荷物を背負って歩いて、疲れないかい?」

 千田の言葉は、涼介の心の傷跡に正確に爪を立てた。

 以来、涼介は千田から目を逸らすことができなくなった。

 千田が誰かを弄び、壊そうとするたび、涼介はそれを止めようとした。それは、被害者を救いたいという純粋な気持ち以上に、「かつての自分の過ち」を繰り返したくないという、必死の贖罪だった。

 千田が村山を壊したとき、涼介は自分の無力さに泣いた。

 千田が久我を狂わせたとき、涼介は自分の偽善に吐き気を催した。

 そして、高橋麻里奈が社会的に殺されたとき、涼介はついに悟ったのだ。

「倫理を守っているだけでは、怪物を止めることはできない。怪物を止めるには、僕もまた、かつて捨てたあの『冷徹さ』を、再び手に取るしかないんだ」




 千田を破滅させた夜、森涼介は、中学時代のあのレポートを書き上げた時と同じ感覚の中にいた。

 相手の逃げ場を塞ぎ、最も効果的なタイミングで情報を投下し、精神的な急所を正確に突く。

 彼が千田を裏切るために用意した「罠」は、千田自身が教えた技術と、涼介が封印していた「解体」の才能の融合だった。

 千田に毒を盛り、彼の精神を破壊し、その絶望を観察する。

 そのプロセスを実行している最中、涼介の脳内には、これまでにない「高揚感」が沸き起こっていた。

(……ああ、そうだ。僕は、これを知っていた)

(人を支配し、定義し、思い通りに動かすこと。この圧倒的な万能感。これこそが、千田が愛した『自由』の正体だったんだ)

 彼は、千田を救いたかったわけではない。

 本当は、千田という「鏡」を壊すことで、自分の中の「怪物」を否定したかっただけなのかもしれない。

 だが、千田を倒した瞬間に彼が目にしたのは、無様な千田の姿ではなく、千田と同じ冷酷な微笑みを浮かべている「自分自身の影」だった。




 現在。

 更生施設で働く森涼介は、毎日、少年たちの泥臭い感情に触れている。

 そこには、千田が愛したような「美しいロジック」も、涼介が求めた「完璧な正義」もない。ただ、後悔と、言い訳と、微かな希望が混じり合った、不格好な「生」があるだけだ。

 涼介は、彼らの話を聞く時、決して「正解」を言わないように気をつけている。

「こうすれば解決するよ」

「君は間違っている」

 その一言が、どれほどの凶器になるかを、彼は知っているからだ。

 今の彼は、ただの「罪人」だ。

 自分の中にある、他人を支配したいという「支配欲」。

 他人の弱みを突いて優越感に浸りたいという「残酷さ」。

 それらを否定せず、しかし決して解放せず、一生、檻の中で飼い続ける。


 夜、仕事が終わった涼介は、施設の窓から夜空を眺める。

 この世界は、千田が言った通り、情報の波で満たされている。その波のどこかに、今も壊れたままの千田勇吾が漂っているのかもしれない。

(千田。僕は、君に勝てなかった)

 涼介は、ポケットから一粒の飴を取り出し、口に放り込む。

(でも、それでもいい。僕は、君という毒を飲み込んだまま、この汚れた世界で生きていく。それが、僕が選んだ『正義』のなれの果てだ)

 森涼介の物語は、華やかな勝利で終わることはない。

 それは、自らの内なる怪物と、一生対話を続け、その爪を自分の心に食い込ませながら、それでも「人間」であり続けようともがく、静かで凄惨な、終わりのない戦いの記録なのだ。


 彼は、かつての「聖人」のような微笑みを浮かべていた。

 だが、その瞳の奥には、二度と消えることのない、深い、深い、闇が宿っていた。

「……帰るか」

 森涼介は、再び「正しい自分」を演じ始める。

 その仮面が、いつか本当の自分の肌と一体化するまで。

 あるいは、再び誰かがその仮面を引き剥がし、本当の「怪物」を呼び覚ますその日まで。

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生人 和田いの @youth4432

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