第8話 違和感
午後のフロアは、
午前中より静かだった。
キーボードの音と、
空調の低い音だけが続いている。
彩乃は、
画面に表示された資料を確認しながら、
マウスを動かしていた。
少し離れた席で、
美咲が電話をしている。
いつも通りの光景。
何も起きないはずの時間。
川原「小川さん」
呼ばれて、
彩乃は顔を上げる。
彩乃「はい」
川原は、
書類を一枚手にしたまま、
自然な足取りで近づいてきた。
川原「この数字、
一緒に確認してもらえる?」
彩乃「分かりました」
画面を切り替える。
仕事の話。
いつもと同じやり取り。
川原は、
彩乃の横ではなく、
少し後ろに立った。
画面を覗き込む気配が、
背中に近い。
近い。
そう感じた瞬間、
肩に力が入る。
川原「……ここ、
この処理で合ってる」
彩乃「はい」
指示は的確だった。
これまで何度も、
この人に助けられてきた。
分からないことがあれば、
いつでも聞いていいと
言ってくれた上司。
話しやすくて、
尊敬していた人。
だから、
今までも
この距離で話していたはずだった。
それなのに、
今日は、
少しだけ違う。
川原「……やっぱり、
小川さん丁寧だよね」
彩乃「……ありがとうございます」
それで終わると思った。
でも、
川原はそのまま立っていた。
川原「……あ」
一瞬、
言葉を選ぶような間。
川原「小川さんって、
彼氏いるの?」
その質問が、
少し遅れて耳に入る。
彩乃の手が、
マウスの上で止まった。
彩乃「……いえ」
声は、
自分でも驚くほど
落ち着いていた。
川原「そっか」
それだけ言って、
すぐに視線を画面に戻す。
川原「じゃあ、
この続きなんだけど」
仕事の話を一つ確認して、
書類をまとめる。
川原「また話そう」
軽い口調だった。
それだけ言って、
川原は自分の席に戻っていった。
フロアの音が、
少しずつ元に戻る。
彩乃は、
画面に視線を落としたまま、
しばらく動けなかった。
今のは、
ただの雑談だった。
仕事の流れの中で、
たまたま出た質問。
深い意味なんて、
なかったはずだ。
そう思おうとする。
川原は、
話しやすい上司だった。
尊敬していた。
その事実は、
何も変わっていない。
だから、
悪く考える理由はない。
それでも。
距離が、
少し近かった。
質問が、
仕事の枠を
越えていた。
そして、
「また話そう」という言葉が、
どこに向いていたのか
分からなかった。
マウスを動かそうとして、
指に力が入らない。
一度、
机の下で
手を握りしめる。
美咲が、
電話を終えて戻ってくる。
美咲「彩乃、
これお願いしていい?」
彩乃「……うん」
返事は、
いつも通りだった。
美咲は、
何も気づいていない。
彩乃は、
画面に向き直る。
数字を追いながら、
さっきのやり取りが、
頭の端に残ったまま
消えなかった。
彼氏、いるの?
また話そう。
その二つの言葉を、
まだ、
どう受け取ればいいのか
分からずにいた。
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