第12話 最期の友

雨が上がると、雲の切れ間から光が差した。

誰かが笑い、誰かが手を合わせ、誰かが空に向かって声を上げた。

「晴れた」

その一言に、喜びが詰まっていた。


那津は胸の前でそっと手を合わせた。

――ありがとう。

誰に向けた言葉なのかは分からない。 雨か、空か、ここに至るまでの時間か。


ただ、確かに言えることがあった。

「私の中に、ずっと生きてたんだ」

瀬織せおりは答えなかった。 だが、その沈黙ちんもくは、確かな肯定こうていだった。


***

その夜、焚き火の前に座った。

何年前からこの火を見ていたのか。


炎が揺れ、火の粉が舞う。

那津は火に向かって静かに頭を下げた。 それは祈りではない。 生きていることへの、自然な感謝だった。

――八百万の神様は、遠くにいるのではない。 ――この火、この土、この命の中にいる。

那津はようやく理解した。


自分がこの時代に来た理由を。 瀬織せおりと出会った意味を。祖母の言葉が、時を越えてここに届いていたことを。

そして那津は、覚えている者として、この感謝の形を未来へつないでいくのだった。


縄文の世に迷い込んでから、すでに五十年という歳月が流れていた。

杉浦育美―― かつて現代で歴史を愛し、知識を惜しみなく語ってくれた親友。

その記憶は、この時代において那津にとって何よりの道標みちしるべとなり、育美自身もまた、この世界で生きる覚悟かくごを固めていた。

しかし、長い年月は確実に彼女の身体はおとろえていった。

それは病でも傷でもなく、ただ静かに命の火が小さくなっていく自然の流れだった。

ある年の終わり、育美は床から起き上がれなくなった。


薄暗い竪穴住居たてあなじゅうきょの中で、那津は彼女のそばに座り、その呼吸が弱まっていくのを感じていた。

育美は那津の手を取り、かすれた声で言った。

「……これが、本当に最後だね」

そして、これまで語ってきた歴史の先―― 英雄ヒーローが生まれ、国が形を持ち、争いと統一を繰り返す未来のことを、断片的に、しかし必死に伝えた。

文字のない時代に生きる那津へ、記憶だけをたくすように。

「あなたは……歴史を見届けてね。私は……先に帰るから」

その「帰る」がどこを指すのか、那津は聞かなかった。


ただ、育美が恐れていないことだけは、はっきりと分かった。

育美の人生は、この縄文の地に深く根を下ろしていた。

三度、縄文の男と夫婦となった。 二人の夫は狩りの最中の事故で命を落とした。

けものに傷を負わされた者、がけから落ちた者―― どちらもほこり高き狩人かりゅうどだった。

三人の子を産んだ。そのうち一人は、生まれて間もなく静かに息を引き取った。

小さな体を抱きしめながら、育美は泣かなかった。


この時代では、涙よりも受け入れる強さが求められることを知っていたからだ。

残された長男は、今や集落でも名の知れた狩人かりゅうどとなっていた。

獲物を追う姿は父たちに似て、判断の早さと慎重さは育美の血を引いていた。


育美は、その成長を何よりの誇りとしていた。

最期の夜、育美は微笑ほほえんだまま那津を見つめた。

「……私ね、幸せだった」

現代に戻ることも、帰る場所も、もうどうでもよかった。

ここで愛し、失い、子を残し、生き抜いた―― それが、彼女の選んだ歴史だった。


夜明け前、育美は静かに息を引き取った。

苦しみはなく、まるで眠るように。


那津は、しばらくその場を動けなかった。

この時代に、未来を知る者がまた一人消えた。育美の死は、未来から来た

仲間の最後の死であり、那津が“ひとり”になった瞬間しゅんかんだった。

だが同時に、その未来は確かにたくされた。


那津の胸の中に、 育美の声と、知識ちしきと、さまが―― 確かな重みをもって残っていた。

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