DAY5
何という傲慢な人間だっただろうか。僕ではなく彼女は、柏月乃という名前の人間は。もう死を待つのみだった人間がきれいな手紙を生者に残して驚かれたい、なんて理由は嘘ではないが真実でもない。そうして声がかかった人間、今回で言うのなら筆跡を真似することがちょっとだけ得意な僕にとあることをさせること、それが彼女の本当の目的だった。僕を狙い撃ちにしたのかとさえ思ってしまうが、そこまでは流石に自意識過剰になってしまうだろう。僕だけではなく、時間のある人間なら誰でもよかったのだろうから。
そして僕は彼女の狙いの通りにパソコンと向かい合っている。しばらく前に作ったきり放置していたアカウントを起動して、何度も指を止めながらキーボードを使って文字を打ち込んでいく。
考えてみればと頭につけるほどの新事実ではないが、僕が知っている柏月乃の情報は片手で数えられる程度しかない。二進数を使ってではなく各指を一つに割り当てて考えてもすべての指は折れない。僕へと話が届いたときに聞いただけの話が知っている情報だ。……何なら、僕は彼女の死因すら知らないのだ。年齢は二十代前半と聞いていた。大学に通っているんだか卒業直後なんだか、言っていた内容的には卒業はしたのだろうと推測できる。それぐらい、それぐらいが知っていることだ。
ある程度文字が増えて、僕は一息ついてお湯を沸かす。インスタントのコーヒーを淹れて画面の前へと戻り、自分が書いた文章を推敲がてら振り返る。表現の稚拙云々は自分であるため不可能だが、最低限誤字や誤用は無くせるだろう。意図的でないのなら気になる箇所は少なくすることが没入感を高めるコツなのだから、彼女の遺書を真に全うするためにもその確認は必須だった。
……読み返すとやはり、これで良いのかという疑念が湧き出てくる。課題提出直前の感覚に似て非なる、本当に完成形から乖離していないのかという恐れ。これに明確な正解はなく、僕が思うままにやっていいのだということはわかっている。だけどやはり思ってしまう。正解の形があって、それを全うすることが必要条件なのではないかと。特に今回のような場合なら、彼女の意に沿うことが必要なのであって、僕にできることやっていいことは全く関係ないのでは――――。
自分の思考が空転していることを実感した。簡単に言って考えすぎで、誰の得にもならない思考だということだけはわかった。
コップの中のコーヒーをこぼす勢いで立ち上がる。少々強引にその思考を打ち切るためにわざとせわしなく机の上に放置してあった手紙をつかんで上着を羽織って外へ出る。重たいドアに体当たりするような形で開け放つと、途端に刺すような冷気が襲い掛かってきて、自棄になって飛び出した。
冬は大気中の物質が少ないから綺麗に空が見える。それは夜でも同じことで、日が落ちるのが早い分天体観測に適した季節なのだ。まして今のような深夜に出れば、僕だけの夜空を邪魔する人口の光は街灯の頼りない明かりだけ。寒さの中に置かれても相変わらず空転する思考を抱えたまま、僕は引き寄せられるように歩き出す。
自然と考えは柏月乃に寄っていく。もう零時を回ったから昨日ではなく一昨日、僕と別れたその夜に旅立った。結局友達とそんなに会話は出来なかったらしい。僕に語った遺書にはまだ会話をしたい旨があったが、それを書いてからは時間が足りなかったということになる。少なくとも最後に会ったのは僕だったようだ。僕が最後に会話をして、僕が最後の言葉を聞いた。
なんで僕なのだろう、という言葉が湧いて出る。当たり前だけどそこに特別な理由はない。僕が彼女に選ばれたとかそういう運命だったとかの言葉を差し込む余白のないほどの偶然、ただの偶々で。だけど僕はどうしても、僕では無いだろうという後悔のような文句しか出てこない。彼女の人生の最後を飾るのは僕では無く、もっと昔から共にいた人間に相応しいはずだ。僕では無い、とただ思うだけ。ああいう人間に限らずだけど、人生の最後というものはもっと穏やかになるべきだと思っている。今まで長い時を共に生きてきた人間に囲まれて、春ど真ん中のような穏やかで長閑な日の中で眠るように終わらせる。こんな、刺すような厳冬の中で一人寂しくなど――――。
僕の視線は上に静かに横たわる夜へと向いた。ぽつぽつと輝く星はドレスにちりばめたスパンコールの様に頼りなく僕へと届いている。昨日も同じ空だったはずで、僕は。
迷っていた続きから全部、最後の終わらせ方まで思いついた。
彼女の遺志がどうだとか、面白いだのつまらないだのの話はどうでもいい。ただ僕は僕の思うものを書こうと思って、だれがどう思うとかそんなことは一つも関心が持てなかった。
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