第2話 公の盾――合図は白百合――大聖堂で名が落ちた瞬間

結び紐が締まるたび、昨夜が“公”になる音がした。

「……苦しくありませんか」

問いは低い。

ユイは息を整えるふりをして、でも整えきれないまま答えた。

「……いい」

その返事が落ちた瞬間、セラの誓約紋が淡く灯る。

手が戻る。触れる。触れた熱が、さらに息の逃げ場を狭くする。

結び目の直前で、手が止まる。

昼になる直前の数秒。

まだほどけている時間。

昨夜が布の隙間に残っている時間。

ユイは振り返らない。振り返らないまま、落とす。

「……結んで」

返事は吐息。布越しに背が温まる。

“はい”より濃い返事。

結び目が完成する。

息を吸ってしまう。喉の奥で声が震える。

震えが誓約を走り、セラの誓約紋が淡く灯る。

結び目の上に指が置かれる。整えるふり。

でも置き方が長い。

夜の予告として、長い。

「……夜まで」

それだけ。

それだけで、昼が長くなる。

「……夜まで」

その二文字を背に結んだまま、ユイは大聖堂の光へ歩き――神官長が静かに名を落とす。「……ユイ」

大聖堂で名が落ちた瞬間。


背中に結ばれた「夜まで」は、ほどけない。

ほどけないまま光の中へ出ていく――そのことが、いちばん怖くて、いちばん甘い。

名が空気に触れた瞬間、背中の結び目だけが熱を持った。

大聖堂。香。祝詞。拍手。

祭壇の脇に白百合が並ぶ。清さの象徴。今日は別の意味で刺さる。

清いはずの空気が、息を奪う。

神官長の声が落ちる。

「……ユイ」

名が空気に触れた瞬間、背中の結び目が熱を持つ。

鍵ではないはずなのに、身体が先に反応する。

息が止まる。止まった息が誓約を走る。

背後でセラの呼吸が一拍遅れて乱れる。

セラが半歩詰める。

腰に掌――の直前で止まる。

触れられない一拍。公の規律が指を縛る。

縛られるほど、触れたい熱が濃くなる。

それでも次の瞬間、掌が置かれる。

支えるふり。介助。

誰の目にも正しい所作。

けれど圧は、正しさを超えている。

今は、まだ。崩れるな。

ユイは笑うふりをする。唇だけで微笑む。

背中の熱だけを必死に隠す。

それを嗅ぎ取るように、頭侍女の視線が刺さる。

夕刻。丁寧な声。刃の内容。

「今夕より、侍女セラは儀礼部へ」

滞りなく。

夜を断つ言葉。

廊下に出た瞬間、ユイはセラの袖へ手を伸ばし――触れる直前で止めた。

角を曲がれば誰かがいる。

その危険が、息を細くする。

セラが先に、ユイの指先を包んだ。

包むだけ。握らない。

でも包む圧が、「離れない」を言っている。

「……よろしいですか」

囁きは息。

ユイは頷く代わりに、落とした。

「……いい」

包む手が、ほんの少し強くなる。

それだけで足元が揺れる。

ユイは喉の渇きの奥で決める。

「……決着を」

セラは低く返す。

「……離れません」

言葉が短い。短いほど確かだ。

「今夕より、侍女セラは儀礼部へ移ります」

その宣告が落ちた瞬間、ユイの背中の結び目だけが、ほどけもせずに熱を持った。

公の盾――合図は白百合。


「儀礼部へ」――その言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。

引き剥がされる前に、引き剥がせない形へ。ユイはその場で、選び直した。

奪われる前に、奪われない形へ――ユイは“公”を選ぶ。

王妃の私室。香が薄い。権力が濃い。

机の上に、乾いた白百合が一輪。飾り。証人。

王妃は最初から知っている顔で言う。

「公にしなさい。公は盾になる」

小礼拝堂。逃げ場のない空気。

神官長が問う。

「守り手を選べ」

ユイの息が浅くなる。

浅くなった熱が誓約を走る。

セラの誓約紋が淡く灯る。

灯りが胸の奥まで熱くする。

「セラ」

次の問い。

「合図を定めよ」

ユイは口を開き――止まる。

音にした瞬間、制度になる。

制度になれば、もう戻れない。

戻れないことが、逆に呼吸を甘くする。

触れない距離で、セラが半歩だけ近い。

触れないまま、息だけが背に触れる。

「……大丈夫ですか」

ユイは答えを選ばず、選ぶ。

「……いい」

そして、白百合を見る。

夜に選んだ合図。

昼に使っても、誰にも意味が割れない言葉。

「……白百合」

「許可の言葉は」

一瞬迷い――迷いのまま止まり、息を吸う。

許可は、命令ではなく選択になる。

選択は、声の震えまで連れてくる。

ユイは震えを隠さず、落とす。

「……いい」

言葉が礼拝堂に落ちる。

誓約紋の光が変わる。鎖の熱ではない。合図の熱。選べる熱。

神官長が宣言し、王妃が淡々と釘を打つ。

「あなたは彼女を動かせない」

頭侍女は黙るしかない。

その沈黙が決着。

夜。扉が閉まる前の回廊で、セラが一度だけ立ち止まり――

ユイの背へ手を伸ばして、触れる直前で止める。

公の場の最後の壁。

越えられない壁が、越えたい熱を濃くする。

セラは息だけを落とした。

「……白百合」

「合図は白百合。許可は〈いい〉」

その言葉が盾になった夜、扉の鍵の音が鳴り――闇の手前でセラが息だけを落とす。「……白百合」

鍵の音ひとつで、ほどける。


合図は白百合。許可は「いい」。

昼に盾になった言葉が、夜には鍵になる――そう決まった瞬間から、待つという行為が苦しくなった。

闇の手前でセラが息だけを落とす。

「……白百合」

ユイは声ではなく選択で返した。

「……いい」

夜。扉。鍵。金属音。

それだけで昼の仮面が落ち、息がむき出しになる。

背を向けたまま言う。待てない。

「……ほどいて」

「……はい」

近づく気配だけで誓約が熱を持つ。

鎖じゃないのに、互いの熱を拾ってしまう。

拾うから逃げ場がない。逃げ場がないのに怖くない。止まれると知っている。

結び目へ伸びる指。

触れる直前で止まる。確認の間。

止まるほど濃くなる。

「止めて、と言えば」

「止めない」

掠れた即答。

誓約が走る。セラの息が一拍乱れる。

乱れたまま、合図が落ちる。

「……白百合」

音が肌に触れる。鍵が回る。

ユイは声ではなく選択として返す。短いほど深い。

「……いい」

その瞬間、結び目の熱がふっと緩む。

布はまだあるのに、身体が先にほどけてしまう。

先にほどけたぶんだけ、息が乱れる。


公の視線に晒されても、半歩の温度だけが肌の内側を灼いて、息は嘘をつけなくなる。

――封蝋の赤い召喚状が、昼に咲かない白百合を連れてくる。

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