第10話 この後の焼き鳥
羽瀬川剛24歳。AB型。五穀米変更に100円払ったことはないが、ナンをチーズナンにグレードアップできるなら500円も惜しんだことはない。
国立大の医学部を卒業後、埼玉県の中川病院で研修医として働いている。
東京ほどではないものの、駅のホームは通勤ラッシュでごったがえしており、息をするのがやっとだった。
今朝の電車で俺は今日も立っていた。別に席が空いていなかったからではなく、かといって親切心からそうしているのではない。席を譲るという行為が嫌なのだ。遠慮された時の何度か続くターンや、俺が譲ったことによって隣に座る客が背負う妙な罪悪感全てが厄介だった。
無事仕事場につき、1番に目を向けるのは駐車場だ。大宮ナンバーのNワゴンをとらえるとやはり頬を緩めてしまう。
今日は火曜日。村雨夏菜子の出勤日だ。
今日は研修医全員が研修の一貫で注射を打つ日でもあった。今回は手本として先輩の医者たちがやってくれるそうだ。
出勤して席に着くとすぐ、その時間がやってきた。
いくらか覚悟はしていたものの、いざ夏菜子先生が向かいに座ってきた時はついガッツポーズをしてしまいそうだった。
「おはよ。あ羽瀬川くん、また痩せた?
ちゃんとご飯食べないとだめだよ?」
夏菜子先生が顔を覗き込みながら困り眉をして言った。俺はただ毛穴ひとつない肌に見惚れていた。
実際俺はこの2週間ほどろくに食事をしていなかった。自炊をするのは面倒だが栄養バランスは気にかけてしまう面倒な性格を、ドロドロの野菜ジュースを飲んでおけば大丈夫と盲信することで落ち着かせていた。
一人暮らしをすると母親のありがたさを痛いほど感じてしまう。バイトを掛け持ちして貯金はしていたものの実際大学の費用はすべて母親が払ってくれていた。こっちに住み始めてからも自立とは言い切れないほど世話になっていた。
頭ではわかっているのだが、常に感謝し続けるのも疲れてしまうものであった。
母親への仕送りも最初の一回だけでそれっきりだ。帰ってこいというLINEもリアクションで片付けている。
学生時代不自由なく暮らせていた分、一人暮らしの過酷さがわかっていなかった。
夏菜子先生が腕に消毒をし始めたのに気づき我にかえった。
打ちやすいよう、静脈が浮き上がるように拳を握りしめる。
夏菜子先生が苦笑したことで自分が失礼なことをしていると気付いた。
夏菜子先生は小学生にも大人気の注射の腕前を持つ医者だ。打ち慣れているに違いない。
腕を緩めようとしたが緊張なのか力は入ったままだった。
そのおかげで驚くほど痛かったけれど、夏菜子先生に打ってもらえた手前何もいうことはなかった。
「羽瀬川くん今日あがったらさ、焼き鳥行こうよ.奢ってあげるから。」
一瞬耳を疑ったが、それは紛れもなくご飯の誘いであった。
「え、あ、うん、はい、はい。」
中高男子校で培われた女性への免疫のなさを情けなく感じつつも俺は心の中で今度はしっかりとガッツポーズをとっていた。
「楽しみ。じゃあ今日もがんばろ!」
夏菜子先生が軽く背中をとん、と叩いてきた。背骨の部分がいやらしく痒くなってきた。
夏菜子先生の後ろ姿をしっかりと見送ったあと、俺はただ幸福を噛み締めて薬品棚を見つめていた。
ふと、ガラス戸に映った自分が目に入った。
由々しき事態である。
放し飼いにした眉毛と青臭さの残る肌荒れをなんとかしなければ。
今週末はドラッグストアへ走るしかないな。
実家へ帰るのは相当先延ばしになりそうだと確信したのであった。
恋愛未遂 ゆめいちごひいな @YumeichigoHina
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