第9話 父、土下座
日曜日の夕暮れ時。
私と母が夕食の支度をしていると、インターホンが鳴った。
モニターを確認するまでもない。
この執拗な連打の仕方は、あの人しかいない。
「……出るわ」
母がエプロンを外し、深呼吸をしてから玄関へ向かう。
私もその斜め後ろについていく。
ガチャリ、と鍵を開け、ドアを少しだけ開く。
そこにいたのは、二ヶ月前とは別人のようにやつれた父・健一の姿だった。
ヨレヨレのスーツ、無精ひげ、そして充血した目。
かつて「俺は一家の大黒柱だ」とふんぞり返っていた男の面影は、どこにもない。
「優子……! 凛……!」
父は私たちを見るなり、その場に膝から崩れ落ちた。
コンクリートのタタキに額を擦り付ける。
土下座だ。
「すまなかった!! 俺が、俺が間違っていた!!」
近所に響き渡るような大声だった。
母は眉一つ動かさず、冷ややかな目で見下ろしている。
「……何が?」
「全部だ! あんな女にうつつを抜かしたことも、お前たちを捨てたことも! 全部、俺が馬鹿だったんだ!」
父は顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を晒した。
「騙されてたんだよ……あいつ、俺の金が目当てだったんだ。金がないと分かった瞬間、俺を捨てて逃げたんだよ! 俺は被害者なんだ!」
被害者。
その単語が出た瞬間、私の中で何かが冷え切った。
この人は、まだ自分が「可哀想な人」だと思っている。
「優子、頼む。もう一度だけチャンスをくれ。やっぱり俺には、お前と凛しかいないんだ。これからは真面目に働く。酒もやめる。だから……また家族として……」
父が母の足元に縋り付こうと手を伸ばす。
母は一歩、スッと後ろに下がってそれを避けた。
汚いものに触れられないように。
「あなた」
母の声は、静かだったが、鋭い刃物のように研ぎ澄まされていた。
「この二ヶ月間、あなたは何を見てきたの?」
「え……?」
「凛があなたの側に行ってくれた意味、考えたことある? あの子はね、あなたが私に迷惑をかけないように、自分の時間を犠牲にして監視役をしてくれていたのよ」
父が驚愕して私を見る。
私は無表情で首を傾げてみせた。
「き、気づいてたのか……? 俺が、凛に金借りようとしたことも、ミナとの喧嘩も……」
「全部知ってるわ。凛から毎日報告が来ていたもの」
母は吐き捨てるように言った。
「あなたはミナさんに捨てられたからここに来ただけでしょう? もしミナさんが逃げていなかったら、あなたは今頃、私の家の権利を奪おうと画策していたはずよ。違う?」
「そ、それは……ミナが言えって言ったから……」
「人のせいにするなッ!!」
母の怒声が響いた。
父がビクリと震え上がる。
「五十にもなった男が、自分のしたことの責任も取れないの? 騙された? いいえ、あなたが選んだのよ。あの女も、不倫も、離婚も、全部あなたが自分で決めたことでしょう!」
「だ、だけど……人間誰しも間違いはあるだろ!? 二十年も連れ添った仲じゃないか! 情はないのかよ!」
父は逆ギレ気味に叫び、今度は私に視線を向けた。
「凛! お前なら分かるだろ? お父さん、反省してるんだ。二ヶ月一緒に暮らして、俺たちが本当の親子だってこと、再確認したよな? お母さんを説得してくれよ!」
最後の切り札として娘を使う。
その浅ましさが、決定打だった。
私は一歩前に出て、父を見下ろした。
かつて大きく見えた父の背中は、今は蟻のように小さい。
「ねえ、お父さん」
「り、凛……!」
「ムリ」
短く、端的に。
私は事実だけを告げた。
「え?」
「ムリだよ。生理的に」
父の表情が凍り付く。
「私、お父さんのこと、もう『父親』として見れないの。ミナさんに媚びて、お母さんの悪口言って、お金がないって私の貯金盗もうとして、最後には泣いて土下座するおじさん。……そんな人を、家に上げたいと思う?」
「お、俺は……お前の親だぞ……」
「親なら、子供にこんな思いさせないでよ」
私は冷たく突き放した。
「お父さんが選んだんでしょ。『愛に生きる』って。だったら最後まで愛に生きて野垂れ死になよ。私たちを巻き込まないで」
父の喉から、ヒューッという情けない音が漏れた。
彼は悟ったのだ。
ここにはもう、自分の居場所など1ミリも残されていないことを。
「さようなら、健一さん」
母が他人行儀に名前を呼び、ドアノブに手をかけた。
「弁護士を通して連絡します。二度とここに来ないでください。不法侵入で通報しますよ」
「ま、待ってくれ! 優子! 凛! 俺はこれからどこへ行けばいいんだ! 金も家も家族もないんだぞ!?」
「自業自得だね。じゃあね」
私は無慈悲に宣告し、母と共にドアを閉めた。
バタンッ。
重厚な金属音が、父と私たちの世界を完全に遮断した。
ドアの向こうで「開けてくれえええ!」という絶叫と、ドアを叩く音が聞こえたが、私たちはすぐに鍵をかけた。
ガチャリ、ガチャリ。
二重ロックの音が、これほど心地よく響いたことはない。
廊下には、静寂が戻ってきた。
私と母は顔を見合わせ、ふぅっと長く息を吐いた。
終わった。
本当に、終わったんだ。
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