05.水流の前と後
この基地で魔力温熱式の浴場を利用したときは、その機能性にびっくりしたものだ。
わたしは操士になる前の記憶が薄いけれど、それでも驚いたということは、以前はこんなものを当たり前に使って身体を洗うなんてことはできなかったんだと思う。
事実、こういったものをさかんに作っていた国がヴィスカムに滅ぼされたせいで、フェリィの中でもここまで良いものはほとんど存在していないらしい。
サアァ、という音は、さざれ雨のあらわれる時のそれに似ている。
頭上から、髪へ、顔へ、体へ。余計なもののない、全ての肌に濡れた風が降りしきる。
レミアという一人の人間の肌の上に、霧の形をしていた水たちが、水滴となって胸元の曲線を形取り、水流となって腰と足を滑り落ちていく。
温水が噴き出した次は、こんなに水を使って大丈夫なのかとわたしは驚いた。聞けば、この時使った水は後で洗濯や耕作、清掃に使いまわされるのだという。
「それだけ期待されてるのよ。操士は」
と、ティルチェが言っていた。
きれいな水を、一番はじめに使える場所。
川の上流。
わたしたちはそこに立っている。
そこに立つように、できている。
「はあぁ、生き返る……」
「このために頑張ってますもんねー」
頭から霧を浴びて、ティルチェとリサはいつものようにそう漏らした。
靄が降り注いでは立ち上るここでは、誰の身体もシルエットくらいしか分からない。
にも関わらず、ティルチェの体は輪郭だけでも丸みと柔らかさに満ちている。対するリサは、研ぎ澄まされた剣のようにしなやかだ。
わたしはどうにもどっちつかずで、半端だな、と思ってしまう。
でも、体力が余っているときは、良いとこ取りだな、と思う。
「浴場間に合って良かった。こんな状態で夜まで待つなんて耐えられないもの」
「ごめんなさい、話し込んでしまっていて。待っててくれてありがとうございます」
「いいのいいの。あたしもそうだけど、リサの方が入り損ねたら大変でしょ」
ティルチェが気にしているのは、髪のことだろう。わたしに比べればティルチェのふんわり肩にかかる亜麻髪も十分長いが、リサの真黒な髪は腰の辺りまで伸びていて、基地内の誰よりも長く目立つ。
教官や統括官には何度か切るように言われていたけど、さらりとした笑顔で聞き流して、結局手入れ以上のことはしていないはず。
リサはそういう子だった。
「髪、私がしていい?」
「もちろん」
シャワーの下を避けるように据え付けられた椅子へ、リサが腰かける。わたしは石鹸を布で巻いて泡立てると、首元辺りから髪を洗い始める。
「レミアちゃんにこうしてもらえるのも今日で終わりですね」
「私も残念」
「転属した後は余裕もって入浴するのよ」
自分の頭を洗いながら言うティルチェ。わたしがリサの髪を洗い始めたのは、単に時間を短縮するためだけだった。
他意なく大変そうだと思ったのがきっかけで、リサも最初は遠回しに断っていた。今となってはリサがわたしを断ることはないし、わたしもリサの髪に触れて、清めることが、純粋に好きだ。
泡と水流に
「シトラスでいい?」
「お願いします」
洗浄を終えた後は、もう少しシャワーから遠くに座り、櫛にオイルを馴染ませて、洗った髪を磨き始める。
「だからオイルやるなら上がってからにしなってー」
「時間がもったいないですから」
「それをやる場所も決めなきゃいけないし」
「も~」
ティルチェとしては、この手順は気に入らないらしい。眉尻を下げて笑う。
「最後までリサは、レミアと一緒で全然言うこと聞かないんだから。この不良姉妹」
「善良なレミアちゃんになんてことを言うんです、ティルチェお姉様」
「うん。こんなにリサは優良なのにね」
年齢はわたしが分からず、背丈はリサが少し高いが、全体的な発育はわたしの方が良いから、わたしとリサのどちらが姉でどちらが妹と言うべきかは分からない。
ただ少なくとも、みんなのまとめ役で気のつくティルチェには、身長も女らしさも二人揃ってかなわず、だからわたしたちはしばしばまとめて、ティルチェお姉ちゃんの妹たちになった。
(……ああ、でも、そっか。それも最後なんだ)
木櫛の歯の隙間から、黒い髪が流れ落ちていく。
何度やってもそれが留まることはない。
別に留めたいわけではないけれど、ただ、留まらないんだなということだけを思う。
「レミア?」
ティルチェに言葉をかけられ、いつもより長い時間リサの髪を梳いていたことに気づいた。
「なーに、俯いちゃって。寂しくなっちゃった?」
「ええ~、そうなんですかレミアちゃん?」
「……別に。そうじゃない」
幸いなことに、ここは霧雨の降りしきる川の上流。
流れ落ちる一粒一粒の塩分濃度の違いに、誰も気付いたりしない。
「ただ、話……話したいことが意外と、まだあるかもって思っただけ」
「一応、今夜は談話室を遅くまで借りて良いことになってるよ。許可もらったし。
「別に、今だって話してもいいんですよ」
リサは変わらず、穏やかな口調だ。
「今から邪魔者を片付けるので、その後なら」
「レミアならちょっとくらいリサを独り占めしたって……ん?」
ティルチェがリサの不穏な一言に気付いたその瞬間、
『エッ!? ゲッ! やばッ、あっ、痛だだだだだ!!』
浴場の清冽さにそぐわない、太い悲鳴が聞こえてきた。
* *
『……エリオット!?』
カーテンの向こうの浴場から響くティルチェの声。事態が悪い方向へ転がり始めたのを感じる。
「あだだだっ、何っ、何だよこれ!? 何が刺さってんだ!?」
『何? エリオットよね。もしかして更衣スペースにいるの? なんで!?』
「なんでってもう男女切り替えの時間だよ! 規則はコッチの味方だぞ!」
『規則の話なんてしてない! 何、入る気だったの? あたしたちがいるのに!?』
「入らねえよ! ただ入ってる奴がいるか確認するためにカゴを……」
『見たの!? 着替え!!』
「見なきゃ分かんねえだろ!?」
『遠くから見れば分かるでしょ!!』
「別にジロジロ見たりはしてな……っ痛たただから何なんだよこいつはぁ!!」
「…………」
俺たちはエリオットとティルチェの喧々諤々を見守りながら、しかし関わり合いになりたくないので、ただ沈黙を守り更衣スペースの扉の左右を守っていた。
我らが東方アルギア部隊を取りまとめるエリオットとティルチェのコンビだが、ティルチェは行き過ぎなくらいに細かいところがあり、エリオットはどうにも大雑把なので、こうして衝突することもしばしばある。
「……まあ、これも中央に行ったら味わえない奴だしな」
「別に最後に味わいたいものでもないんだけど……」
ため息交じりに低い声で返すサムエル。
エリオットと同じくらい背が高く、しかしエリオットと違いひょろりとした体格だ。今みたいに壁にもたれていると、浅黒い肌も相まって、なんだか細い木のようにも見える。
「しかし、エリオットは何にやられてるんだ、さっきから」
「リサのイヌだと思う。明日は絶対に出撃ないから、遠慮なしに使ってるんでしょ」
「精霊犬か」
サムエルを探すために生み出された、イヌの鼻先だという光球のことを思い出した。
「……牙だけとかも行けるのか?」
「まあ、多分目と耳とセットで……っていうか普通に首かな? 番犬させてたんじゃないかな。近付くと噛みつく設定で」
「あいつそんなこともできたのかよ。何年も一緒にいるのに知らなかった」
「最近コツ掴んだらしいよ。転属前の出撃調整でヒマな時間多かったから」
「背景じゃなくて解決策はっ、痛だだっ、コイツ離れても離れねえ!」
エリオットが更衣スペースから転げ出てきた。見れば、右腕に怒ったイヌの顔をした光が食らいついている。
「うわ……単純に不気味だな」
「こっちは単純に痛いんだよ! 服も破れてないし、血も出てる訳じゃないけど……噛まれてる! 何なんだ!」
「リサが命令すれば止まるだろうけど……」
『サムエル?』
浴場の方からリサの声が聞こえた瞬間、サムエルの体が跳ねた。
『エリオットだけじゃなくあなたもいたんですか。番犬、もう一頭いても良かったかもしれませんね』
「おッ、俺は何もしてませんから!」
「オレも何もしてねえよ!」
「……そうか。番犬は一体だけだから、エリオットに噛ませておけば他の奴が無傷で接近できるんだな」
「ファレン! 攻略手順を考えるのは自由だけど口に出すのはやめよう!」
「あとオレに噛ませておくのもやめてくれ!」
シャアッ。
浴場と更衣スペースを区切るカーテンを引く音に、俺たちは一斉に硬直する。
きっちり閉まったドアの向こうから、いくつかの布がせわしなく擦れる音がかすかに聞こえてくる。
『いきなり静かになって、聞いてるんですか? 私たちが着替えてる音とか……』
「聞いッ、てません!!」
ドアを隔ててのリサの言葉に、サムエルは背を伸ばして溌剌と弁解した。
命令を復唱する時ですらボソボソと喋るやつなのに、リサの前ではいつもこうだ。
「てかリサ! もう良いだろ。このイヌ離してくれよ。そろそろ感覚なくなってきた」
『あら、すみません。忘れていました』
エリオットの腕からイヌが離れ、唸り声と共に消える。
「この魔力バカめ……
『便利ですよ。浴場を覗こうとする人を追い払うのに』
「よし、改めてハッキリさせておくけど、マジで全く覗こうとはしてないからな! 最初から一回も……!」
がらりと戸が開く。
ドアの前で弁解していたエリオットを一歩押しのけて、ティルチェが姿を表した。まだ髪が濡れたまま、険しい表情でエリオットを睨んでいる。
「……本当に?」
固唾を飲む俺とサムエルの間で、ティルチェは存外落ち着いた声だった。
「覗こうとした訳じゃない?」
「んなワケあるか」
「下着……着替えも見てない?」
「見てない!」
「ちょっとも?」
「……落ち着いて聞けよ。ちょっとは見た。存在してるかどうかを確かめるためだ。でもその、影っていうか、輪郭だけだ」
「輪郭って……」
「カゴの中に服が残ってるかどうか! イヌがいなくても、それ以上のことを確かめるつもりはなかった」
エリオットはざっくりとした奴だ。しかし正直な奴でもある。
そしてそれを一番分かっているのはティルチェだ。彼女は溜息を吐く。
「入れ替えの時間だったなら声かけてよ」
「普段ならそうする。でも三人きりで話せるタイミングは、多分ここが最後だったろ」
「……だから声を掛けないで、目視で確認したって?」
「そう! もちろんいつまでも待たされるなら声はかけるつもりだったぜ?」
しばし沈黙の中、二人が見合う。
やがてティルチェはもう一度溜息を吐き、エリオットの胸元を小突いた。
「もうそういうことしないで」
「分かった」
「誤解で怒ってごめん」
「オレも悪かった。すまん!」
「……会の準備あるから」
足早に歩き始めるティルチェ。
道を開けた俺の前を通る彼女は、どうしてかわずかに笑みを浮かべている。
それを見送ろうとした所、エリオットの大柄な体が動いた。
「待てって、ティルチェ……オレも行く」
ちらりと彼を振り返ったティルチェは、もう笑っていない。
「入浴はいいの?」
「他の男子に声かけねーと、食事まで済ませられない奴出てきそうだ。ファレン、サムエル! 先入っててな!」
並んで去っていく二人を見送っていると、更衣スペースからリサとレミアも顔を出す。レミアはリサの髪を小器用に頭の上の方でまとめていた。
「余計なことをしたとさすがの私も反省していましたが……そうでもなかったかもしれませんね」
「リサ、良い仕事したよ」
「はあ?」
俺は思わず声を上げる。
「明らかに余計だっただろ。無駄にケンカ起こして。時間も食ったし」
「まあ、ファレンはそうでしょうねえ」
「誰から見たってそうだろ。エリオットは痛い目も見てたし……だよな、サムエル?」
「……痛い目を見ていたのは確か」
「そら見ろ」
「レミアちゃん、髪の毛ありがとう。あとは自分でやります」
「うん」
「おい、無視するな」
無視するなという俺の言葉も綺麗に無視し、リサはサムエルがいる方へ抜けた。頭くらいに大きい球になった黒髪が、いつにも増してツヤツヤしている。
「サムエル。会、ちゃんと出てくださいね」
「…………はい」
(相変わらずリサの前だとサムエルは羽虫より無力だな)
「ねえ」
ヘビとそれに睨まれるカエルのような二人を見ていると、レミアに声をかけられた。
自分のシャツの胸元を引っ張り、その中を覗き込みながら、彼女はこんなことを問う。
「……ファレンは見たかったりする?」
「あのなあ」
呆れる。ティルチェの勝手な誤解でレミアまで妙なこじらせ方をしてしまってるじゃないか。
「誰がどこに何を何枚着ようが、興味なんて一切ない。お前のは特に!」
「……そう」
「大体俺ら、生殖能力もなくなってんだからその辺の欲だって……あ、おい。レミア!」
話の途中なのに、足早で去っていくレミア。相変わらず突拍子もないやつだ。
(どうせ意味深なことを言ってみているだけで、何も考えてないんだろうが……)
リサがサムエルを何やら弄っているのを見て、やれやれと嘆息する。
目の前の浴場が、どういうわけだかまだ遠い。
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