明日を忘れた喫茶店

平沢哉太

500字程度

明日を忘れた喫茶店

街の外れ、地図にも載っていない小さな喫茶店がある。 店名は《トキシラズ》。 扉を開けると、古い柱時計がカチコチと音を立てているのに、なぜか針は動いていない。


ある冬の朝、大学生のミナトは偶然その店を見つけた。 店主は白髪まじりの穏やかな老人で、ミナトを見るなりこう言った。

「いらっしゃい。今日のおすすめは“忘れたい記憶ブレンド”だよ」

冗談だと思って笑ったが、出てきたコーヒーは驚くほど香りがよかった。 一口飲むと、胸の奥がふっと軽くなる。 昨日教授に怒られたことも、レポートの締め切りも、どうでもよくなっていく。

「これ、本当に忘れられるんですか」

「忘れたいものだけね。代わりに、思い出したいものがひとつ浮かぶはずだよ」

ミナトは目を閉じた。 浮かんできたのは、小学生の頃に飼っていた犬・ハルの姿だった。 尻尾を振って、雪の中を走り回っている。

「……なんで今、ハルのことを」

「君が本当は思い出したかったからさ」

店主はそう言って微笑んだ。


会計を済ませて外に出ると、店の扉が勝手に閉まり、看板が裏返った。 《本日は閉店しました》 ミナトは振り返ったが、次の瞬間、店は跡形もなく消えていた。

ただ、手の中には温かい紙ナプキンが残っていた。 そこには丸い字でこう書かれていた。

「忘れたいことが増えたら、またおいで」

ミナトは笑った。 忘れたいことはたくさんあるけれど、今日のことだけは絶対に忘れないだろう。

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