IFルート:雨音は赤く、静寂を塗り潰して。

#1 開かなかった鍵

【注意】

ここから先は、本編とは異なる可能性の世界――『IFルート』です。


本編では、湊は過去の選択を乗り越え、梨花の手を取りました。

しかし、人の心は弱く、脆いものです。

もしもあの時、湊がその場の「安らぎ」に負けて、ドアを開けなかったとしたら?

もしも、静の計算が、人の「激情」を見誤っていたとしたら?


これは、誰も救われない、愛と狂気が交差する破滅の記録。

降り止まぬ雨が、すべてを赤く染め上げるまでの物語です。


___



 金属の冷たい感触が、指先から熱を帯びていく。

 俺は、静から渡された鍵を握りしめたまま、客室のドアを見つめていた。


「どうしました? 湊くん」


 静の穏やかな声が、鼓膜を優しく撫でる。

 彼女の背後には、湯気を立てるハンバーグと、暖かなリビングが広がっている。

 そこは、何も考えなくていい楽園だ。


 対して、目の前のドアの向こうには、泣き叫ぶ元カノがいる。

 鍵を開ければ、またあの泥沼が始まる。

 『なんで返信くれないの?』

 『誰といたの?』

 『私のこと好きじゃないの?』

 あの胃がキリキリするような、終わりなき詰問の日々。


 ――嫌だ。

 俺の心の中で、何かが拒絶した。

 もう、疲れたくない。怒鳴られたくない。

 ただ、静かに暮らしたいだけなんだ。


「……静」


 俺は、ドアノブにかかっていた指を離した。


「え?」


「開けられない。……いや、開けたくない」


 俺は鍵を、静の手に押し返した。

 静の目が、驚きで見開かれる。そしてすぐに、蕩けるような歓喜の色に変わった。


「……賢明な判断です、湊くん」


 彼女は俺の手を両手で包み込んだ。


「そうです。貴方には私がいます。面倒な過去なんて、切り捨ててしまえばいいんです」


 彼女の言葉は甘い麻薬のように、俺の罪悪感を麻痺させていく。

 これでいい。これで俺は、永遠の平穏を手に入れたんだ。


「湊くん?」


 ドアの向こうから、梨花の声がした。

 泣き声ではない。信じられないものを見るような、震える声だった。


「ねえ、今の……どういうこと?」


 聞こえていたのか。

 俺は息を呑んだが、もう遅い。


「開けたくないって……私のこと、見捨てるってこと?」


「……ごめん、梨花」


 俺はドア越しに、絞り出すように言った。


「もう無理なんだ。……帰ってくれ」


 沈黙が落ちた。

 もっと罵倒されるかと思った。

 「ふざけるな」と扉を叩かれるかと思った。


 けれど、返ってきたのは、奇妙なほど静かな声だった。


「……そっか」


 カタリ、と何かが崩れ落ちるような音がした。


「湊くんは、そっちを選んだんだ。……私より、その女の方がいいんだ」


 その声の響きに、俺は背筋が凍るような寒気を感じた。

 それは諦めの声ではない。

 もっとドロドロとした、どす黒い感情が煮詰まったような「怨嗟」の響きだった。


「行きましょう、湊くん。ハンバーグが冷めてしまいます」


 静が俺の腕を引いた。

 彼女は勝利を確信し、ドアの向こうの敗者になど興味を失っていた。

 俺もまた、その温もりに縋り、ドアに背を向けた。


 背後で、梨花が低い声で何かを呟いた気がしたけれど、換気扇の音にかき消されて聞こえなかった。

 それが、彼女の理性が焼き切れる音だったとも知らずに。

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