第8話「静かな波紋と招かれざる客」

 カイがリアムの屋敷で暮らし始めて、数週間が過ぎた。

 最初はぎこちなかった使用人たちとの関係も、カイが作る毎日の食事を通してすっかり打ち解けていた。

 特に料理長のアンゼルはカイの知識と技術にすっかり感服し、今ではカイのことを「先生」と呼んで慕っているほどだ。

 カイの作る料理は、屋敷の中に温かい笑顔を増やしていった。


 その評判が屋敷の外にまで漏れ出すのは、自然なことだった。

 きっかけはリアムが騎士団の腹心の部下たちを数名、屋敷に招いて開いた小さな宴だった。


 カイは腕によりをかけて、大皿料理をいくつも用意した。

 香ばしく焼き上げた丸鶏のロースト、魚介をふんだんに使った彩り豊かな煮込み、数種類の芋を混ぜて作った滑らかな舌触りのサラダ。

 どれもこの国の料理とはひと味違う、目新しくて美味しいものばかり。


 屈強な騎士たちは最初こそ「団長の番」であるカイを遠巻きに見ていたが、料理を一口食べるなりその目を輝かせた。


「う、美味い! なんだこれは!」


「こんな鶏肉、食ったことねえぞ!」


 宴が終わる頃には彼らはすっかりカイの料理の虜になり、「ぜひ奥方にも作り方を教えてやってほしい」と口々にお願いしてくる始末だった。


 その宴の噂は、尾ひれがついてあっという間に貴族たちの間に広まった。


『氷の騎士アークライト卿の屋敷には、凄腕の料理人がいるらしい』


『なんでも、その料理人は団長がどこかから見出してきた秘密の存在だとか』


 そんな噂話が社交界の格好の話題となっていた。

 もちろん、その噂は聞きたくもない人物の耳にも届いていた。


 その日、カイが厨房で夕食の仕込みをしていると、執事のセバスが慌てた様子で駆け込んできた。


「カイ様、大変です! グレイフォード辺境伯様とご子息のゲオルグ様がお見えになりました!」


 その名を聞いた瞬間、カイの心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。

 手から力が抜け、持っていた野菜が床に転がり落ちる。


 父と兄。

 忌まわしい記憶が一瞬にして蘇る。

 嘲笑、罵声、そして暴力。


「ど、どうして……」


「旦那様への面会を求めて……。旦那様は今、応接室で対応されておりますが……」


 セバスの言葉の先は、聞かなくても分かった。

 彼らがここに来た目的は一つしかない。

 リアムとの繋がりを利用し、何らかの益を得ようとしているのだ。

 カイは恐怖で身体が震えるのを止められなかった。

 もしリアムが彼らの言葉を信じて、俺を追い出したら……?


「カイ」


 不意に背後から低い声がした。

 振り返ると、いつの間にかリアムが厨房の入り口に立っていた。


「リアム様……!」


「怖がるな。あいつらは俺が追い返す」


 リアムはカイのそばに歩み寄ると、震える肩を大きな手でそっと抱き寄せた。

 彼の体温がカイの心を少しだけ落ち着かせてくれる。


「だが、お前の口からはっきりと言ってほしい。お前は、あいつらの元に戻りたいか?」


 まっすぐな青い瞳がカイの答えを待っている。

 カイは首を横に振った。

 涙がぽろりとこぼれ落ちる。


「……戻りたくないです。俺の居場所はここです。あなたの、そばです」


 その言葉を聞いて、リアムは満足そうに小さく頷いた。


「分かった。なら、お前も一緒に来い。お前の口からあいつらに引導を渡してやれ」


 リアムはカイの手を強く握ると、応接室へと向かった。


 応接室の扉を開けると、そこには見違えるように着飾った父と兄が、上等なソファにふんぞり返って座っていた。

 二人はリアムの姿を見ると、媚びるような笑みを浮かべて立ち上がる。


「おお、アークライト卿。いやはや、急な訪問、失礼した」


「我が弟が、大変お世話になっているようで」


 しかしリアムの後ろにいるカイの姿を認めると、その表情が固まった。

 リアムはそんな二人を冷たく見下ろし、言い放った。


「何の用だ。手短に言え」


「は、はは……。いや、なに、カイがこちらでお世話になっていると聞きましてな。一度顔を見に来てやろうと……」


 父親が口ごもる。

 ゲオルグが作り笑いを浮かべてカイに話しかけた。


「カイ、お前も酷いじゃないか。家を出てから一度も連絡もよこさず。父上も母上も心配していたんだぞ」


 その白々しい言葉に、カイの身体の奥から怒りのようなものが込み上げてきた。

 心配? この人たちが? 冗談じゃない。


 リアムに促され、カイは一歩前に出た。


「……心配など、一度もしてくれたことなどなかったくせに」


 絞り出した声は震えていた。

 けれどその瞳は、まっすぐに二人を射抜いていた。


「あなたたちにとって、俺は家の恥で虫けらだったはずです。今更何の用ですか」


「なっ……! 貴様、恩を仇で返す気か! 誰のおかげで今まで生きてこられたと……!」


 ゲオルグが激昂する。

 その言葉をリアムのさらに低い声が遮った。


「恩、だと? 満足に食事も与えず、物置部屋に閉じ込め、虐待していたお前たちがどの口で言う」


 リアムの瞳は絶対零度の光を宿していた。


「カイは俺の番だ。グレイフォード家とはもう何の関係もない。二度と我々の前に姿を見せるな。次にカイに近づけば容赦はせん」


 それは紛れもない最後通告だった。

 父親とゲオルグは、リアムから放たれる殺気にも似た威圧感に完全に気圧され、顔を真っ青にして何も言えずに立ち尽くしていた。


「聞こえなかったか?――失せろ」


 その一言で、二人はほうほうの体で屋敷を逃げ出していった。


 扉が閉まり、静寂が戻る。

 カイは張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れ落ちそうになった。

 それをリアムの逞しい腕が力強く支える。


「よく言ったな、カイ」


 頭を優しく撫でられ、カイはリアムの胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。

 それは恐怖の涙ではなかった。

 過去の呪縛からようやく解放された、安堵の涙だった。

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