ハナ
波打 犀
ハナ
彼の鼻が好きだった。
すっと鼻筋の通った高い鼻。形もそうだけれど、いつも自信満々に、つんと上を向いているのが好きだった。
彼がわたしの部屋に泊った日の翌朝は、隣で静かに寝息をたてる彼の鼻先に軽くキスをする。起こしちゃ悪いから、ちょっと物足りないけど、それで我慢する。
朝の支度をして、簡単な朝食をつくって、書置きをして家を出る。
毎日決まった時間にスーツを着て出勤するわたしと違って、大学生の彼は起きる時間も日によってバラバラだ。羨ましいと思ってしまいそうになるけれど、大変なのはお互い様だろうと考え直してエレベーターに乗り込む。
彼とは、友人の紹介で参加した飲み会で、二年前に知り合った。
社会人と大学生というと誤解がありそうだが、わたしと彼はたったの一歳差で、趣味も合って、馬も合った。
このままあと二年。彼が修士課程を修了し、卒業して、結婚する。そんな理想の未来を思い描く生活が、まだしばらくは続くのだと思っていた。
「……ごめん」
彼のつむじが、眼下にあった。
腰をぎっくりと屈めて、深く頭を下げている。
「……え?」
わたしの脳は、理解を拒んだ。
「ほかに、好きな人ができたんだ。だから……――」
「待って。……何を、いってるの?」
「チサト……、俺……」
「……冗談、だよね?」
そう問うのが精いっぱいだった。
「……――ごめん」
わたしの理想の未来は、真っ黒に塗りつぶされた。
◇◆◇
「おはようございます」
エプロンの紐を結びながら店内に入ると、濃密な香りが鼻の奥を刺激した。
「あ、おはよう!」
とりどりの花々が陳列されるショーケースの傍に立っている金髪の女性が振り向いて、愛想のいい笑みを浮かべる。フラワーショップ『
今年で37歳になるというが、まったくそうは見えない若々しさをもっている。
彼女の手には、熟練の観察眼でなければ見落としてしまいそうな程度に傷んだ花が束で握られていた。
「今日は忙しくなるよ~」と、微妙なニュアンスで彼女はいう。
そうですねぇ、とこちらも曖昧な調子で合わせて、店内の隅に置いてある用具入れからモップとローラー付きのバケツを手に取る。レジの傍にある作業台脇の水場でバケツに水を溜めながら、ふと思った。
「……もう五月か」
声は同時にコトカさんのほうからも聞こえた。
反射的に顔を見合わせて、どちらからともなく笑う。
「うそ~、そんなことある?」
「ですね。びっくりしました」
「本当にね。いや~、でも時間の流れは早いね。永田さんがうちに来てくれてから、もう一か月になるなんて信じられないな」
「……ですよね」
つまり、前の職場を辞めてから二か月。彼と別れてからは約三ヵ月になる。
たった一度の失恋で自分がこんなことになるなんて思いもよらなかったけれど、とにかく前の仕事を続ける気力は一ミリもなくなって、次の仕事を考える前に辞表を出した。
すぐにここが見つかったのは奇跡だ。捨てる神あれば拾う神ありとはいうが、コトカさんはわたしにとって紛うことなき女神様だった。
「前の子が急にやめるって言いだしたときは焦ったけど……」
「……はは」
耳が痛い。
「なにか、やりたいことがあるって話でしたっけ?」
「うん。むかしからの夢だったんだって、イラストレーターとして大きな仕事を貰えるようになったから、そっちに専念したいって。そういわれちゃ、引き留められないでしょう?」
「夢、か……」
その人は叶ったのだ。それも、自力でつかみ取った。
とはいえ、大変なのはこれからなのかもしれないが、イラストレーターの世界には詳しくないのでよくわからない。
「まぁ、いまは永田さんがいるから。ほんっとーに助かってる、ありがとう」
「い、いえ……」
正面きっていわれると照れ臭い。あと、なんだか申し訳ない。
「――って! 永田さん、後ろっ。バケツ、水! 溢れてる!」
「えっ!? あ、あーっ!」
◇◆◇
その日。母の日の前日にあたる休日は、やはり大忙しだった。
十時の開店からまもなくして老若男女がひっきりなしに訪れて、
「見繕っていただきたいのですが」と、当然のようにいってくる。
こちらをプロと見込んでいるのだから当たり前なのだけれど、ひと月のうちに詰め込んだ知識では力不足は否めない。
結果としてお客様をだいぶ待たせてしまったり、不安がらせてしまったりして、ろくな昼休憩もなしに午後も二時をまわって客足が落ち着くころには立っているのもしんどいくらいに疲れ切っていた。
「ありがとうございますー! よい母の日を!」
コトカさんが最後の一人を店先まで見送って、腰に手をあてて振り返る。
「やー、疲れた!」
「……はい」
「クッキー焼いてあるんだけど、食べる?」
「はい……!」
じゃあ持って来るねん、とコトカさんは店を駆け足で出て行った。
彼女の自宅は店舗のすぐ隣に建っている。誰の視線もなくなって気が緩み、わたしはレジ台に突っ伏するようにしてしゃがみ込んだ。
腰のあたりがじわーっとして、頭の天辺がびりびりする。
母の日というイベントが盛況なのは素晴らしいことではあるが、それとこれとは話が別だ。
「疲れた……」
「……あの」
「は、はいっ!」
か細い声にも飛び上がるくらい驚いて立ち上がり、辺りを見るが誰もいない。
「あれ……」
気のせいだったのだろうか、と首をひねると、
「あの、大丈夫ですか」
と、視線のだいぶ下のほうから声がした。
見れば小学生くらいだろうか。小柄な少女が心配そうにわたしを見上げていた。
「具合、悪いんですか」
「あ……」
「あのぅ……」少女の声はしりすぼみになる。
わたしはなにをやっているのだ。しっかりしろ。
「あ、ご、ごめんなさい。なんともないですよ」
「……本当ですか?」
「う、うん……。本当です」
大丈夫、とにっこり笑いかけると、少女はようやく納得したのかほっと胸を撫でおろした。その仕草が少し大げさだったが、『良い子だ』と直感する。
「いらっしゃいませ。……もしかして、母の日の、ですか?」
「は、はい……。いつもお仕事頑張ってくれてありがとうって、感謝の気持ちを花束で伝えたいんです」
「わあ……! 素敵ですね」
「え、えへへ……」
はにかむ健気な少女の様子に、仕事の疲れも吹き飛ぶ気がした。
が、少女はちょっぴり緊張した面持ちになって、スカートの裾を握りしめる。
「あ、あの……。お母さんは薔薇の花が好きで……。マヤのお小遣いでも足りますか……?」
「ん……」と、わたしは言い淀む。
マヤというのは、きっとこの少女の名前だ。それはいいとして。
ついうっかり「いくら?」なんて言いそうになって危ないところだった。「お小遣い、どれくらい貰ってるの?」もデリカシーがない。「ご予算は?」も堅苦しいし……、と児童に対する完璧な対応法を探っていると、救いの女神が現れた。
「持ってきたよー。ペットボトルのやつだけど一応、紅茶も……」
「コトカさんっ……!」
「わっ、なに……!?」
かくかくしかじか、小声に事情を耳打ちすると、コトカさんは難しい顔で腕組をした。
「うーん……、一本も買えないってことはないと思うけど。薔薇の花束となるとねぇ……」
「そう、ですよね……」
薔薇は一本からでも数百円、ものによっては札が飛ぶ。
「あたしがイメージする小学生のお小遣いってなると、無難にカーネーションを勧めたいところなんだけど……」
数秒、わたしとコトカさんは無言のまま見つめ合う。きっと考えていることは同じだ。このくらいの歳の子が、母親のためにお小遣いをなげうつ覚悟でやって来た気持ちには、なんとかして応えたい。
「悲しませたくないよぉ……」
「はいぃ……」
そうはいっても商売は商売だ。
景気がいいとは言えないこのご時世、甘えたことばかりではやってはいけない。それにマヤちゃんの笑顔を見るためにコトカさんが泣きを見る出血大サービスをしたとして、マヤちゃんの母親は喜ぶどころではないだろう。
後日になってどうなるかは察しがついた。
「あの……、ダメなら帰ります……」
重い空気に気がついたのか、最近の子供らしくなかなか聡い反応でマヤちゃんは俯いてしまう。
「うぅ……! こうなったらあたしの自腹で……!」
「……あっ!」
そのとき、閃いた。情けない顔をしているコトカさんに、そっと耳打ちする。
「それだ……! あたし、ちょっと裏見てくるから……」
「薔薇のほうは用意しておきます」
「お願い!」と、クッキーが入ってそうな袋とペットボトルの紅茶をレジ台の上において、コトカさんは慌ただしくバックヤードに入っていく。
わたしは居心地悪そうにしているマヤちゃんを振り向いて、視線を合わせるために腰をかがめた。
「それじゃあ、薔薇の花を見てみましょうか」
「え、でも……」
「とりあえず、ね?」
少し強引に促すと、マヤちゃんはおずおずと頷いた。
◇◆◇
さく、さく、とクッキーを食べる音がはっきり聞こえた。
ほかに客がいないのをいいことに、レジ台をテーブル代わりにして用意されていた小皿にコトカさんのクッキーをあけたのが数分前。嫌に喉が渇いて、二本あるうち一本の紅茶に手を伸ばす。一人だけ飲み物を飲むのも悪い気がして、マヤちゃんにもどうかと勧めた。
本当はコトカさんの分なのに違いないが、彼女なら仕方がないといってくれる気がした。そうしてわたしの分の紅茶が半分を切ったころ、コトカさんは戻ってきた。
色とりどりの、種類もてんでバラバラな花束を抱えて。
「お待たせー」
「あ、お帰りなさい。すみません、勝手に食べてました」
「いいの、いいの。味はどう?」
「美味しいですよ」
「でしょ。うまくいったなと思ったのよね。マヤちゃんも、どうだった?」
「……クッキーは、美味しいです」
「……そっか。よかった」と、コトカさんはわたしを見る。
そして、クッキーの入った皿の脇に退けてある花瓶にささった三本の薔薇を見た。
その視線に気づいたのだろう、マヤちゃんが背中を丸めた。
「……こんなの、格好悪いです」
「そんなこと……」
絶対にないのだけれど、それは大人から見ればの話だ。
こういうのは気持ちが大事なんだよ、なんていったところで、マヤちゃん本人が不満そうなのは見ればわかった。
「あたしもね、格好悪いとは思わないよ」コトカさんはいう。「でもね、もっと素敵にする方法は確かにあるね」
「……本当、ですか?」
「うん。こっちのお姉さん、チサちゃんのアイディアでね」
コトカさんはわたしにウィンクをする。
期待の籠ったマヤちゃんの眼差しに、力強く頷き返す。
「三本の薔薇のほかは、すべて廃棄……売り物にはならない傷んだ花です。だけど、きっと満足してもらえると思います。コトカさんの手にかかれば、えっと……最強なんです」
「最強……」
「ふふ、最強かぁ……」
いっちょやったりますか、とコトカさんがシャツの腕のボタンを外して、腕まくりをする。
「チサちゃん、あたし、ちょっと集中するから」
「はい。そのあいだのお客様の対応はわたしに任せてください」
「よろしくね」
「マヤ、見ていてもいいですか」
「もちろん」と、応えたのはコトカさんだ。「マヤちゃんが傍でお母さんへの気持ちをたっぷり込めてくれたら、超最強だよ」
「……はいっ」
元気を取り戻した声を聞いて、わたしはそっと二人のそばを離れた。閉店まで約三時間。さすがに一時間もかからなかったけれど、手際のよいコトカさんでも普段の倍以上の時間はかけて、アレンジメントの制作を行った。
わたしはというとその間に二組の接客にあたって、最初から最後までコトカさんに手間をとらせることもなかった。
「――完成~!」
静かな店内にコトカさんの歓声が響く。
「お疲れ様です」
「チサちゃんもお疲れ様。対応、丸投げしてごめんね」
「全然です」
それより、と出来上がったフラワーアレンジメントに注目する。
普段ならば思いつきもしない、ありえない組み合わせだが、まとまっているように見えるのは熟練の技によるものだ。中央でひときわ存在感を放つ三本の薔薇が生き生きとしている。
「やっぱり、すごいです」
「へへん。どや」
「それに……意外と状態がいいですね」
「ま、廃棄とはいっても、生きものだもん。自宅に飾るぶんには構わないでしょ? いつもとっておくの」
「……なるほど」
「とはいえ、流石に売り物にはならないなぁ。これでもだいぶマシなものを選んではきたんだけどさ」
素人目にはあまり気にならないが、黙っておく。
「はい、マヤちゃん」と、コトカさんがフラワーアレンジメントを両手で手渡す。
マヤちゃんはそれを両手で受け取って、信じられない、という顔をした。
「本当に、薔薇の花ぶんのお金だけで、これをもらっていいんですか……?」
「いいに決まってるよー。その子たちもすっかりマヤちゃんの気持ちを、お母さんに届けるつもりでいるからさ」
「……あの、ありがとうございます!」
「いいえー」
コトカさんは自然に、マヤちゃんの頭を撫でた。
余計なお世話だろうか、と思ったが、わたしは手を挙げた。
「メッセージカード、添えませんか」
「おお、いいじゃん」
「文章……」マヤちゃんが気の遠そうな声でいう。「自信ありません……」
「長くなくてもいいんです。一言添えるだけでも、全然違いますから」
いって、コトカさんに目配せをする。
意図が通じたのか、
「あたしも、マヤちゃんのお母さんに書いていい?」
「え、店長さんが……ですか?」
「うん。一緒になに書くか考えようよ」
そうして和気あいあいとした雰囲気で、メッセージカードを用意する。
マヤちゃんは文章が苦手だといったわりに、書くことは沢山思いつくのか、しばらくすると黙々とペンを動かし始めた。
それを微笑ましいと眺めつつ、コトカさんとわたしが考えるのは誤解のない説明文だ。三本の薔薇の花を除いてすべての花が廃棄品であることを正直に書き、手は尽くしたとはいえ、本来はお客様の手に渡すものではないことを謝罪したうえで、世界に唯一の想いが詰まっていると書き添える。
「こんなもので、どう思う?」
「いいと思います」
「よし。マヤちゃんは、どうかな。できた?」
「はい……、でも、なんか最初のほうの字が大きくて……」
後半は行間が詰まっていた。
「むしろ、いいんじゃないですか。マヤちゃんの気持ちが伝わってきます。お母さんのことが、大好きなんですね」
ぱあっと、マヤちゃんの表情が明るくなる。
「うんっ! 大好き!」
「ええ子や……」
コトカさんの目が潤んでいた。
マヤちゃんが、そうっとフラワーアレンジメントに顔を近づける。目を閉じて、小さくて形のいい鼻で、スーッと息を吸い込む音が聞こえた。
「……いい匂い」
それを聞いてわたしは、胸のなかにポッと花が咲くのを感じた。
ハナ 波打 犀 @namiuchi-sai
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