第3話:生地の反乱

ざあざあ、ざあざあ。

雨は、まだ降っている。


大通りの角。

看板「PAN!KOYAKI」が、ためらう鼓動みたいに点滅していた。


ぱちっ。

PAN! が点く。

ぱちっ。

次は KOYAKI。

ぱちっ、ぱちっ。

両方。

……。

どっちも点かない。

まるで電気にも、機嫌がある。


ビニールの幕の向こう。

鉄板はもう熱い。

じゅう、じゅう。

油の匂い。

古いソースの匂い。

そして、雨に濡れたコンクリートの匂い。

全部混ざって、東京の夜の味がする。


カウンター。

にこにこタコ型のペーパーウェイトの下に、刷りたての同意書の束。

紙は、コピー機のぬくもりがまだ残っている。

一枚目にはこうある——

「私は、たこ焼きの摂取に伴う窒息リスクについて、説明を受けたことを認めます……」

脚注には小さく——

「県令第○号に基づく」

危険物の取扱説明書、みたいだ。


がらり。

引き戸が開く。


タコヤ・キイチが入ってくる。

腕に前掛け。

顔は開いているけど、疲れている。

目の下に、うっすら隈。

履歴書を何枚書いたか、もう覚えていない。


「早いわね」

乾いた声。

目は上げない。

鉄板の向こうで、クボさんが串を数えている。

戦の前に棒を数えるみたいに。

腕には刺繍入りの腕章——「同意書必須」。

うなじに細い汗。

鉄板の熱。

時代の熱。


キイチは素直にお辞儀。

「こんばんは」

「きれいな前掛けを取って。あと——サイン」

あごで示されたのは、いちばん上の同意書。

従業員も"見本として"サインしろ、というやつ。


キイチは小さく苦笑する。

もっとバカな紙にだって、どこかでサインしてきた。

払われない時間。

求められない約束。

今さら、一枚くらい。


鎖つきのペンを取る。

かちゃり。

名前を書く——TAKOYA KIICHI。

二つ目の i で、ペン先が引っかかった。

いらっ。

一度置いて、息を吐いて、もう一度。

さらさら。

最後の欄にサイン——「説明を受けました」。


壁の小さなモニターでは、音なしのヤキズミ首相。

安定した笑み。

カメラの向こうの目は見えない。

唇の折れ方で、「好きだ」が読める。


「ミスター・ヤキ」

反論しない相手に向ける口調で、クボさん。

「串、握ったことある?」


「あります」

——嘘だ。


「よし」

クボさんは振り返らない。

「油。生地。タコ。頃合いで返す」

指が鉄板を指す。

「中心の熱は切らすな」

別の指がゴミ箱を指す。

「失敗は取り分け」

目がキイチを刺す。

「ニュース見たでしょ? 意味、分かるね」


「はい」

分かる。

分かりたくないけど、分かる。


キイチは袖をたくし上げる。


本当は。

本当は、キイチは揚げ物の夢なんか見ていない。


夢は、バター。

膨らむ生地。

ショーケースに、フランス語の約束を並べる店。

——ミルフィーユ。パリ・ブレスト。サントノーレ。


引き出しの奥には、カスタードの染みがついた前掛け。

それから黄ばんだ冊子——『折り込みと伸ばし 入門』


残酷な小話。

市のコンクールで、彼は"完璧に四角いクロワッサン"を作った。

立方体じゃない。

ぴったり四角。

角は鋭角。

層は頑固に直角。

審査員は最初、現代アートかと思い、次に笑い、そして採点した。

それから彼は「四角さん」と呼ばれている。


本人いわく「バターの三角形から外れて考えた」から。

本当は、三回目の折りで畳み間違えただけ。


料理は大好き。

でも、片思いだ。


インスタント麺を焦がしたことがある。

——彼は小声でしか言わない。本人も理由が分からないから。

鍋は彼をそこそこ嫌い。

水は機嫌で蒸発。

「簡単」って言った途端、レシピは逃げる。


この仕事を拾えたのは、たこ焼き業界が人手不足だから。

求人は何週間も空いたまま。

屋台は穴の空いたシフトで回っている。


PAN!KOYAKI が「至急募集」を出した日、クボさんが受け取った履歴書は——一通だけ。

彼のだ。

バイトだらけ。

穴だらけ。

そしてバカみたいな一行——「コンクール:四角いクロワッサン(参加賞)」

クボさんは舌打ちして、鉄板と同意書の山と、まだ閉まっている扉を見た。

それから、採った。

「最悪。……でも、あんたでいい」


キイチはうなずいた。

世界を救うか、今日だけ救うのか分からない任務を受ける、そんな顔で。


PAN!KOYAKI の厨房。

鉄板の上で空気が揺れる。

ゆらり、ゆらり。


クボさんが、生地を型に流し込む。

とろ、とろ、とろ。

白い流れが、ぷくぷくしながら半球を満たす。


タコヤ・キイチは、串を手に、獣に近づくみたいな距離感で見つめる。


「油」

じゅわ。

「生地」

とろり。

「タコ」

ぽとん。

「縁が固まったら返す」

かりっ。

「中心の熱、忘れない」


クボさんがタコ角を投げ込む。

ぽん、ぽん、ぽん。


反射で、キイチの頭は別の場所へ飛ぶ——

バター。

折りパイ。

四角い惨事。

すぐ戻る。


表面が歌う。

じゅう、じゅう、じゅう。

甘じょっぱいブラウンソースの匂い。

古いヒット曲みたいに、鼻が覚えている。


誰も見ていない。

文句を言いながら同意書にサインする客も。

ポスターを数えるSFSの職員も。

全部見てきたクボさんでさえも。


誰も、ひとつひとつの玉の"中心"で起きていることは見ていない。


熱が入る。

じわ、じわ、じわ。

中心で、まだ生じゃない、でも乾ききってもいない地点に届く。

合言葉みたいな約70℃。


生地が膨らむ。

ほんの少しアルカリの、家の配合。

イースト、重曹、祭りの記憶。

ぷく、ぷく、ぷく。


そして回転。

くるり。

くるり。

くるり。

串の小さなバレエ。

ためらいを丸くする、返しと滑り。

層を整えて、見えない糸をそろえ、結び目を引く。


温度。

アルカリ。

回転。


T³。


小さな信号が走る。

ぴりっ。

窓に当たるハエくらいの小ささで。


屋台用に四角く切られたそのタコ片には、ノードがひとつ残っている。

人間の意味での"脳"じゃない。

記憶の点。

世紀が置いていったアルゴリズムの欠片。

古すぎて地図にない海の名残。


暗がりでは、ノードは眠っている。

ここでは——

ぱちり。

——目を開ける。


キイチは、まだ何も知らない。

ただ、手が少し震えていて、縁が焦げる前に返さなきゃいけないことだけ知っている。


——カン、カン、カン。

串が鉄に当たる音。


「それは置いといて、ミスター・ヤキ」

クボさんが、形の崩れた一個を指す。

「分けとく。あとでつまむ」


失敗作が、狭いベッドの端っこみたいに、型の縁を転がる。

ころん。

キイチはそれをつかまえて、ボトルのそばの小さなステンの台に置く。

ことん。


その中心。

祭りの匂いの生地の中で。

ノードが、目を開ける。


ラッシュが始まった。

型はじりじり。

ソースは歌う。

じゅわわわ。

鎖つきのペンの先で、同意書がパチンと鳴る。

カウンターの前では、みんな慎重に噛んでいる。

もぐ、もぐ、もぐ。


鉄板の裏で、タコヤ・キイチは汗をかく。

右手には"もったいないから"と取り分けた失敗作。

それが——

ぴくっ。

——身振りを始めた。


小さなびくっ。

もう一つ。

ぴくっ、ぴくっ。

生地の袋の中の心臓、みたい。


目覚ましのスヌーズみたいに、しつこく身じろぎしている。


緊張のキイチに、急にバカなアイデア(だいたい当たり)が降りる。


レジ横のマーカーをつかんで、身をかがめ、ささやく。

「なあ」

息を殺して。

「動けるなら……」

ごくり。

「……描いてみて」


ぷちっ。

——静かな音。


玉がひらき、つるんとしたピンクの先端が空気を味見する。


ぴくぴく。

それから、当たり前みたいにマーカーをつまむ。

きゅっ。


間。

ま。


世界が、止まる。


キュッ、キュッ。

ステンレスの上にペン先が走る——

二つの穴。

三日月。


髑髏。


「マジかよ……」

魅せられつつ、背筋は冷える。

キイチが息をもらす。


触手はペンを離す。

ことん。


次の瞬間。


跳ねた。


びゅんっ!


喉を叩く。

ばちんっ!

首へ跳ぶ。

ぐるんっ!


「グッ——!」


そこから、地獄。


キイチは飛び退き——

がしゃんっ!

天かすのバットにぶつかって、カリカリの雨が弾け飛ぶ。

ぱらぱらぱらぱら!


腕を振り回し、ついでにお玉をはじき飛ばす。

ひゅんっ!

お玉→ステンのカバーにカンッ!→ボウルの生地にリバウンド——

ビシャッ!


白いシーツが鉄板と床を流れ落ちる。

どろどろどろ。


マヨは倒れて、地震みたいなジグザグ。

ぶりゅりゅりゅ。

ソースは読めない漢字になって流れ。

どろり。

かつお節が舞う。

ひらひら、ひらひら。

——魚の雪。


「えっと……きょ、今日って……閉店です?」

ビニールの幕の向こうをのぞき込みながら、客が恐る恐る。


「今の音、なに?」

影絵みたいに飛ぶ鍋を指さして、女子高生。


触手は巻きつき、締め、引く——

ぎゅうっ!

でも届かない。

短い。

あと一センチ。

致命の折り返しに足りない。


"たこ焼きに首を絞められて死ぬ"と信じ切ったキイチは、空回りで足踏み。

ずるっ!

滑って、盛大な開脚。

びたーんっ!

立て直して、バケツに転ぶ。

がらんがらんっ!

足元で串がころがる。

チン——チン——チン。


「だいじょーぶです!」

二オクターブ高い、締まった声で客席へ。

「今だけ……コホッ、コホッ……紅しょうが、サービス!」


「店員さん?」

鎖の先のペンを掲げた女性が言う。

「見てるだけでも、同意書いります?」


「キイチ!」

クボさんがビニールをはね上げて飛び込む。

ばさっ!

「何やって——」


固まる。


光景:

生きたマフラーみたいな触手を首に巻くキイチ。

片耳にステンのカバー。

眉まで天かす。

マヨの口ひげ。

背後の鉄板は生地を泣かせ、床には茶色い湖。

行儀の悪いシロップが進軍中。


「……何このサーカス?!」


「お、俺——こ、これは——ぐぅ——襲って——でもちゃんと——ゲホ——火は——」


「失敗作は襲わない、ミスター・ヤキ! 失敗作は"恥"!」

クボさんは一歩。

「うちの売れ残りで首飾り作らないで!」


「首を——」

引っ張る。

「——絞めてる!」


クボさんは瞬きして、じっと見る。

触手はまだ引く。

吸盤ポコポコ。

——失敗。

やっぱり届かない。


鼻で息を吐く。

ふん。

「届かない」

冷静に。

「……殺すにも、あんた、射程外」


客席がざわっ。

目は釘づけ。


「トリックっすか?」

スマホを構える男子。

「店でケータイ出すな!」

見もしないで一喝、クボさん。


触手はもう一手。

前掛けの紐をつかんで距離稼ぎ。

——悪手。

キイチは呪われたコマみたいに回り、トレーを倒す。

ガラン!

かつお節、再び降雪。

ひらひらひら。

客が反射で拍手、からの真っ赤になって謝罪。


「ストップ」


よく研がれた包丁みたいな声が空気を断つ。


クボさんは布巾で触手をつかみ、ひと撥ね——

ぷちん。


キイチの喉からはがし、ステンの台にポイ。

ぺたん。

それはまだじたばた。

機嫌を損ね、息切れ気味。

——触手が息するなら、だけど。


クボさんは客席に向き直り、商売の呼吸を取り戻す。

にこり。

「皆さま、ご安心を。厨房内の……軽微な事案です」

「すぐお出しします」

「同意書に汗が落ちた方は、念のため再サインを」


神経笑いがいくつか転がる。

あはは、あはは。

額を拭く音。

鎖ペンのカチカチ。


そして、キイチへ。

"戦場は見た。でも、これはない"という目。


「クビ」


静寂。

しーん。

かつお節の一片が落ちる音が、はっきり聞こえた。

ひら……。


「……今?」

とキイチ。


「今」

クボさんは動かない。

「初日。ラスト一分。二度と来ないで」


指を一本、上げる。

ぴっ。

「それと片づけ。外には出すけど、この惨状には戻らない」


キイチは呆けて、うなずく。

唾を飲み、空咳。

幽霊みたいな反射。


スクレーパーで寄せ、生地をまとめ、マヨを押し戻し、ため息まじりにソース回収。

ごしごし、ごしごし。


ステンの上の触手は、先端で曇りをこすって描く……

きゅっ、きゅっ。

ちいさな髑髏。

それから、雑な T³——三本の線。


「まだやってんのかよ……」

クボに聞こえないくらいの声で、キイチ。


「独り言、始めた?」

きしむ声のクボさん。


「俺……」

それを見る。

「"失敗作"に話してただけで」


「やめな」

空のソース容器を差し出す。

こつん。

「そこに入れて。——で、出てけ」


考えるより早く、手が動く。


触手を容器に入れて、カチッと蓋。

中からトン、トン、規則正しい音。

——遠い地下鉄みたい。

それを前掛けの中、胸の下に隠す。


クボさんはその動きを見て、眉を上げる。

「問題、家まで持ち帰るつもり?」


「……研究します」

キイチは目を逸らさない。

「もう失敗しないために」


「外へ。そっちが簡単」


一秒だけ見つめ合う。


のれんが揺れ、路地が呼吸する。

客席では子どもが首しめごっこ。

母親が指をはたいて、笑いすぎる。


クボさんはため息。

腕章同意書必須を外して、拭いて、また巻く。


「ミスター・ヤキ」

——平たい声。

「履歴書はクソ」

荒れた店内を指さす。

「初日も、もっとクソ」

出口を指す。

「二度と来ないで」


キイチはうなずき、スクレーパーを最後にひと滑り。

曲がったカバーを片づけ、手を拭き、客席に(機械的に)一礼。

クボさんに(恥)でもう一礼して、ビニールののれんをくぐって出る。


路地。

雨がまた仕事に戻っている。

ざあざあ、ざあざあ。


屋台から二歩で足を止め、冷たいアクリルに額を当てる。

ひやり。


前掛けの中で、箱が胸に当たって鳴る。

トン……トン……トン……


手のひらで押さえる。


「よし」

小声で。

「お前と俺」


息を吸う。


「帰ろう。……帰るぞ」


アクリルの向こうで、クボさんは荒れた海の船長みたいな勢いでサービスを立て直す。

「クラシック三つ! マヨ別一つ!」

"客席"はまた"客席"に戻り、同意書は鎖ペンでカチカチと鳴る。


キイチは灯りに背を向け、細い路地に溶ける。


街の蒸気が顔に貼りつく。

一歩ごとに箱が胸を叩き、内側のそれが応える。

——圧に圧。

二つのリズムが合おうとしているみたいだ。


向かう先:自宅。


ざあざあ、ざあざあ。

雨は、まだ降っている。


第3話 おわり


――――――――――――――――――


▶ 次回「第4話:ドクター・ハチ」


触手と無職の、奇妙な同居生活が始まる——


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2026年1月12日 21:00
2026年1月15日 21:00

触手パニック! ~クビになったたこ焼き職人と、下水で拾った宇宙人(触手)が東京を救うそうです~ Jacques Riolacci @dr-hachi

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