俺は何時しか魔術の頂へ

華園モモカ

第1話 アイリス山脈の谷底で

 世界には、決して癒えぬ傷がある。


 アイリス山脈――そう呼ばれるその地は、かつて最強の魔術師アイリスが天魔てんまを討ち滅ぼした際、自身の魔術によって山脈そのものが引き裂かれ、生まれた巨大な渓谷だった。


 谷底には霧が溜まり、風は常に不規則に吹き、魔力は淀み、絡まり、せめぎ合っている。


 正統な魔術師にとっては最悪の土地だ。詠唱は乱れ、魔力は暴走し、第一階位の灯火魔術でさえ安定しない。


 そんな場所に、小さな村があった。


「また失敗かい、フェルト」


 村外れの岩場で、少年は肩を落とした。


 フェルト――年の頃は十五。痩せた体に、どこかぼんやりとした目。今も手のひらに集めた魔力が、ふっと霧散して消えている。


「……うん。第二階位と第一階位を重ねたつもりだったんだけど」


「やめときなよ、そういうの」


 そう言って苦笑したのは、フェルトの隣に立つ少女だった。


 淡い銀色の髪が渓谷の霧に溶け込み、澄んだ瞳が柔らかく彼を映す。


 リーリス。

 この村一番の美少女と噂される、フェルトの幼なじみだ。


「魔術はちゃんと教わった通りに使わないと。ほら、帝都の人たちも言ってたでしょ? 初級魔術師は第一階位と第二階位まで、って」


 フェルトは小さく頷いた。

 魔術師のランク制度は、この世界では絶対だ。


 初級。中位。上位。英雄級。勇者級。そして神話級。


 フェルトは村の戸籍上、魔術師ですらない。せいぜい「初級候補」。


 第一階位の生活魔術が、やっと安定して使える程度だった。


「でも……この土地だと、普通にやっても失敗するだろ」


 フェルトが渓谷を見下ろす。

 割れた大地の奥から、目に見えぬ魔力の流れが複雑に渦巻いているのが、彼には感じられた。


「だから、繋げばいいと思ったんだ。ぶつかる魔力同士を……」


「フェルト」


 リーリスが、静かに彼の名を呼んだ。

 その声は、透き通るように澄んでいて、霧を震わせる。


 不思議なことに、その瞬間――

 周囲の魔力のざわめきが、わずかに静まった。


「……あ」


 フェルトが息を呑む。

 さっきまで制御不能だった魔力が、彼の手のひらで穏やかに回転していた。


「また、だね」


 リーリスは少し照れたように笑った。


「私、何もしてないよ?」


「ううん……してる。たぶん」


 フェルトは、その現象を何度も経験していた。

 リーリスが話すとき、歌うとき、囁くとき。

 乱れた魔力は、まるで耳を傾けるかのように静まる。


 だが、そんなことを理論立てて説明できる魔術書は、どこにもなかった。


「ねえフェルト」


 リーリスが渓谷の奥を見つめながら言った。


「この谷ってさ……全部、アイリス様が作ったんだよね」


「うん。第七階位魔術で、山を割ったって」


 英雄譚では、そう語られる。

 天魔を倒した神話級魔術師。

 世界を救った代償として、大地を裂いた最強。


「すごいよね」


 リーリスはそう言いながら、どこか寂しそうだった。


「でも……この村の人たちは、あんまり幸せそうじゃない」


 フェルトは答えられなかった。

 確かに、ここでは正統な魔術師は育たない。

 帝都から来る者は、蔑み、恐れ、そして去っていく。


 ――壊された世界の底で、生きるしかない人々。


 そのとき、谷の向こうから、魔力の強い波動が走った。

 帝都の紋章を刻んだローブを纏う一団が、村へ向かってくる。


「……帝都の魔術師だ」


 フェルトの胸が、ざわついた。


 この日、彼の運命は、静かに動き始めていた。

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