社畜の私が風邪を引くと、世界経済が止まるらしい ~なぜか米大統領と総理大臣に全力で過保護にされています~

坂下 卓

第1話 深夜の公園と、目覚めの夜

「……はぁ。今日も終わった」


 深夜二時。 誰もいない静まり返った住宅街を、私は重い足取りで歩いていた。 街灯の光が、アスファルトに私の頼りない影を長く伸ばしている。


 私の名前は佐藤健二。四十二歳。 中堅食品メーカー「スマイルフーズ」の営業部に勤める、ごく平凡な係長社畜だ。


 今日の残業サービスは、なかなかにハードだった。 事の発端は、午後五時の定時直前に部長が言い放った、「来期の商品開発、やっぱり『激辛スイーツ』で行こうと思うんだ」という思いつきの一言だ。


 そのせいで現場は大混乱に陥った。 「部長、ターゲット層のF1層は激辛を求めていません!」と反論した部下の田中君は別室に連れて行かれ、泣きながら戻ってきた。


 私はその尻拭いのために、すでに印刷に入っていたカタログを止めるべく印刷会社に土下座し、取引先には「仕様変更」という名の嘘をつき続け、気づけば終電もなくなっていたのだ。


「腰、痛いなぁ……」


 安物の革靴が、アスファルトをカツカツと乾いた音で鳴らす。 四十を過ぎてからの徹夜仕事は、ボディブローのように体に堪える。 ふと空を見上げると、都会の濁った夜空に、月だけがポツンと浮かんでいた。


(明日は、結衣が弁当の日だったな)


 高校一年生になる娘・結衣。 最近は反抗期なのか、会話も少なくなってきた。 けれど、私が作る「タコさんウインナー」だけは文句を言わずに食べてくれる。 朝六時には起きて、卵焼きを作らなければならない。睡眠時間は……あと三時間か。


「……頑張れ、俺」


 自分で自分を励まし、帰路の途中にある小さな公園に差し掛かった時だった。


 そこは、錆びついたブランコと、塗装の剥げたベンチが二つあるだけの、寂しい場所だ。 普段なら通り過ぎるだけだが、今日は喉が渇いていた。 私は公園の入り口にある自販機で、「あったか〜い」と書かれた缶コーヒーのボタンを押した。 ガコン、という音が静寂に響く。


 温かい缶を握りしめ、一息つこうと公園に足を踏み入れた瞬間。


「……ん?」


 先客がいた。 街灯の薄明かりの下、ベンチに誰かがうずくまっている。


「う、ぅぅ……っ」


「……ぐ、ぅ……」


 苦しげな、押し殺したような呻き声。 酔っ払いだろうか? いや、様子がおかしい。


 私は目を凝らした。 ロマンスグレーの髪をオールバックにした、初老の男性だった。 着ているのは、素人の私が見ても「高い」と分かる、上質な生地のダークスーツ。 だが今は、その背中が苦痛に歪み、スーツには深いシワが刻まれている。


(……救急車か?)


 私は迷わず駆け寄った。 私は典型的な事なかれ主義だ。面倒ごとは嫌いだし、できることなら平穏無事に生きていたい。 だが、目の前で人が死にそうなのを見て見ぬふりができるほど、器用な人間でもなかった。


「あの、大丈夫ですか?」


 声をかけると、老人はビクッと体を震わせた。 ゆっくりと顔を上げる。 その眼光の鋭さに、私は思わず息を呑んだ。


「……っ、来る、な……!」


「いや、そんなこと言われましても。顔色が土気色ですよ」


 随分と迫力のあるお爺さんだ。 苦痛に顔を歪めているはずなのに、その瞳には人を射抜くような威圧感がある。 ただの老人ではない。どこかの大企業の会長さんか何かだろうか。 不景気のあおりでリストラか倒産でもして、ショックで発作を起こしたのかもしれない。


「救急車、呼びましょうか?」


 私はスマホを取り出そうとした。


「呼ぶな……! 極秘シークレットなんだ……騒ぎにするわけには……ぐぅっ!」


 老人はさらに強く胸を掴んだ。 拒否する元気はあるようだが、かなり痛そうだ。 狭心症か何かだろうか。薬は持っていないのか。


(仕方ない。とりあえず、楽にしてあげるか)


 私はスマホをポケットにしまい、老人の背中に手を回した。 昔から、マッサージだけは得意だ。 妻の恵子が肩こりに悩んでいた時も、私が揉むと「魔法の手ね」なんて喜んでくれたものだ。


 あくまで素人の真似事レベルだが、背中をさすって血行を良くすれば、少しは呼吸も楽になるはずだ。


「ちょっと背中さすりますよ。深呼吸してください」 「触るなと言って……ぬぉっ!?」


 私が老人の背中に掌を当てた、その瞬間だった。


 ドクン。


 私の心臓が、大きく一度、跳ねた気がした。 それと同時に、掌がカッと熱くなった。 まるでカイロを握りしめたような、いや、体の中からマグマが湧き上がってくるような、不思議な熱だ。


(ん? なんだこの熱? 静電気か?)


 強烈な違和感を覚えたが、私は構わず背中をさすり続けた。 自分の中にある何かが、掌を通じて老人の中に奔流となって流れ込んでいくような、奇妙な感覚。


 最近、疲れが取れにくいと思っていたが、更年期障害かなにかだろうか。体調の変化が激しい。


「ふー、ふー。痛いの痛いの、飛んでいけー」


 娘が小さい頃、転んで泣いた時によくやってあげたおまじないを、無意識に口ずさむ。 大の大人が何をやっているんだか、と自分でも思うが、不思議と口をついて出た。


 数秒後。 老人の荒い呼吸が、ピタリと止まった。


「……は?」


 老人がカッと目を見開き、自分の胸を触っている。 苦痛に歪んでいた表情が消え、代わりに信じられないものを見るような驚愕が張り付いていた。


「痛みが……消えた? いや、それどころか……体が軽い? まるで二十代の頃のように……」


 老人は立ち上がり、自分の手を見つめ、軽く屈伸までし始めた。 さっきまでの瀕死の状態が嘘のようだ。


「落ち着きましたか? よかった」


 私は自分の掌を見つめた。 熱はすっかり引いている。 やっぱり気のせいだったか。あるいは、長年の社畜生活で、私のマッサージの腕がプロ級に上がったのかもしれない。


「まだ寒いので、そのコーヒーで暖まってください。微糖ですけど」


 私は握りしめていた缶コーヒーを、老人の横に置いた。


「き、君は……一体、何をしたんだ?」


「何って、背中をさすっただけですよ。お爺さん、あんまり無理しちゃだめですよ。ストレスは体に毒ですから」


 私はニカっと営業スマイルを見せ、軽く手を振った。 これ以上長居して、「俺の会社を継げ」とか「壺を買え」とか、変なトラブルに巻き込まれるのも御免だ。 私はただの係長。明日の弁当作りが最優先事項なのだ。


「じゃあ、お大事に」


「ま、待て! 君の名前は!」


 背後で老人が何か叫んでいたが、私は「名乗るほどの者じゃありませんよ(かっこいい)」と心の中で呟き、聞こえないフリをして公園の出口へと向かった。 早く帰って寝たい。


 その時だった。


「――あっ」


 ガッ。


 私は暗がりにあったベンチのあしの角に、左足の小指を思いっきりぶつけた。


「いっ……てぇ……!」


 これ、地味に一番痛いやつだ。 脳天まで突き抜けるような鋭い痛み。 小指が取れたんじゃないかと思うほどの衝撃。 私は涙目になりながら、その場で片足飛びをして痛みに耐えた。


「ついてないなぁ……。気をつけて帰ろう」


 私はジンジンする小指をさすりながら、再び歩き出した。 背後で、老人がまた何か叫んでいたような気がしたが、振り返らなかった。


 平和な夜だ。 人助けもしたし、明日はきっといいことがあるだろう。


 ***


 同時刻。 公園に残された老人――現職の内閣総理大臣・五十嵐剛いがらし ごうは、戦慄していた。


 彼は今夜、極秘裏に行われた野党党首との会談を終え、SPを撒いて一人になりたい気分だったのだ。 長年の激務で蝕まれていた心臓の持病。 医者からは「いつ止まってもおかしくない」と宣告されていた爆弾。 それが先ほど、発作を起こした。 (ここで終わりか……志半ばで……)と覚悟した瞬間、現れたのがあの男だった。


「あ、ありえない……」


 五十嵐は自分の胸に手を当てた。 心臓の雑音が消えている。 それだけではない。慢性的な肩こりも、腰痛も、老眼のかすみさえも消え失せている。 全身に力が漲り、細胞の一つ一つが生まれ変わったかのようだ。


「あの男は、神か……? それとも最新医療の極秘エージェントか……?」


 五十嵐は震える手で、男が置いていった缶コーヒーを握りしめた。 直ちにSPを呼び戻し、内閣情報調査室を総動員して、あの男の身元を特定させなければならない。 これは国家、いや、人類の歴史を変える大事件だ。


「おい! 誰かいないか! 車を回せ!!」


 五十嵐が叫ぼうとした、その瞬間。


「ぎゃあああああああああああああっ!!?」


 突如として、五十嵐の左足の小指に、巨大なハンマーで粉砕されたような激痛が走った。


「ぐ、あ、ああっ!? な、なんだ!? 足が……足がああああ!!」


 何の前触れもない。 攻撃された形跡もない。 だが、確実に、「タンスの角に小指を全力でぶつけた痛み」の数百倍の衝撃が、一国の総理大臣を襲っていた。


 骨が砕け、神経が焼き切れるような、この世のものとは思えない激痛。 五十嵐はその場に転げ回り、アスファルトを爪で掻きむしった。


「テロだ……! 見えない敵の攻撃だ……!! 警護班んんん!!」


 深夜の公園に、日本最高権力者の断末魔のような絶叫が木霊した。


 数分後。 駆けつけたSPたちが目撃したのは、のたうち回りながら「小指ぃぃぃ!」と叫び続ける総理大臣と、その横にポツンと置かれた微糖の缶コーヒーだけだった。


 これが、世界を巻き込む「佐藤健二・争奪戦」の幕開けだとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。


 ***


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