祝杯への供物
速水静香
祝杯への供物
顔面の筋肉に、もはや自分の意思は届かない。頬骨のあたりに染み込んだような鈍い痛みが、この国に生きる者の病なのかもしれない。口角を無理やりに引き上げる動作を、毎朝の挨拶で、買い物のレジで、路上で見知らぬ誰かとすれ違うたびに繰り返すうちに、表情を作るための神経は擦り切れ、ただ張り付いた笑顔だけが残った。
四十二年間、私はこの町工場で旋盤を回してきた。油と鉄粉にまみれた手で、部品を削り、家族を養い、国に税金を納めてきた。それが今日、終わる。
ここは町外れにある小さな鉄工所だ。油と錆びた鉄の臭いが、床に染み付いたカビの臭気と重なり、鼻腔を刺激する。天井の高い作業場の真ん中で、社長が椅子にへたり込んでいた。彼の足元には、蹴飛ばされたパイプ椅子と、天井の梁から垂れ下がったロープがある。首を吊ろうとして失敗したのか、それとも私たちが止めたのか。それは、もはやどちらでも構わない。重要なのは、彼が今、人生のどん底にあり、それを私たちが「祝わなければならない」という事実だけだ。
社長の周囲には、生きることを諦めた人間だけが纏う独特の気配が立ち込めていた。
私はロッカーから、くしゃくしゃになった紙吹雪の入った袋を取り出した。こういう時のために、誰もが常備している。若い同僚が、社長の背後でスマートフォンを構えた。証拠映像の撮影だ。私たちが「適切に祝福した」という記録を残さなければ、後で疑われた時に証明できない。それに、今の状況で音声認識アプリが、不適切な単語――「悲しい」「辛い」「死にたい」など――を拾えば、即座に福祉局へ通報が飛び、全員の銀行口座は凍結されることだろう。
「おめでとうございます!」
私は腹の底から声を張り上げた。声帯が悲鳴を上げているが、構うものか。私の声は、静まり返った工場の中でむなしく反射し、鉄骨にぶつかって落ちてきた埃が、わずかな光の中で舞った。
「素晴らしい再出発です、社長! この工場という重荷から解放され、私たちはついに自由な個人としての権利を行使できるようになったのです!」
私が言った。四十二年間、この人の下で働いてきた私が。
社長は虚ろな目で私を見上げた。その瞳には焦点がない。涙で濡れた頬は蒼白で、小刻みに揺れている。彼が口を開きかけた瞬間、私は素早く間合いを詰め、ポケットから取り出したプラスチック製の器具を彼の口に押し当てた。『スマイル・キーパー』。強制的に唇を横に広げ、歯茎を剥き出しにさせるための安っぽい矯正具だ。ドラッグストアで三百円で売っている。誰もが一つは持っている代物だ。
「ぐ、ぐぅ……」
社長がうめき声を上げるが、器具のおかげでそれは歓喜の叫びのようにねじれる。
「分かります、分かりますとも」
私は言った。
「言葉にならないほどの喜びでしょう。長年の借金苦という修行を終え、今日からあなたは『無限の可能性を秘めた求職者』へと生まれ変わったのですから」
私は社長の肩を力強く叩いた。骨と皮ばかりの肩は、枯れ木のように脆い感触を伝えてくる。古参の同僚がタイミングを見計らって、百円ショップで買ったクラッカーを鳴らした。パン、という乾いた音が、まるで処刑の号砲のように広がる。赤や黄色の安っぽい紙テープが、社長の頭上から降り注ぎ、彼の薄くなった頭髪や、薄汚れた作業服にまとわりついた。
従業員全員が、声を揃えた。
「おめでとうございます!」
社長の喉から、ひゅー、ひゅー、という音が漏れる。過呼吸だ。だが、若い同僚のスマートフォンに記録される映像には、「興奮のあまり息を弾ませた」という注釈がつけられるだろう。
この国において、不幸は罪だ。経済を蝕む病、周囲を腐らせる害悪。だからこそ、私たちはあらゆる喪失を、あらゆる失敗を、「幸福」へと塗り替えなければならない。国民幸福維持局の執行官は、今ここにはいない。だが、誰かが通報すれば、彼らはやってくる。税務調査官のように。麻薬取締官のように。だから私たちは、自分たちで自分たちを祝うのだ。誰かに強制される前に。自発的に。嬉々として。
社長の顔色が紫色に変わっていくのを確認しながら、私は事務的に祝辞を述べ続けた。給料への感謝も、人生の師としての敬意も、すべてを呑み込んで。彼の絶望が深ければ深いほど、私たちの「祝福」は適切だったという証明になる。私の妻の入院費を工面するためには、失業保険を受け取らなければならない。失業保険を受け取るためには、「前向きな離職者」としての記録が必要だ。そのためには、この人に、死ぬよりも辛い「おめでとう」を浴びせ続けなければならないのだ。
◇
日が傾き、街が薄暗い紫色に染まる頃、私はようやく工場を後にした。従業員全員で社長を祝い、従業員同士で互いの「新たな出発」を祝い合う式典は、三時間に及んだ。誰もが誰かを祝い、誰もが誰かに祝われた。私の頬は強張ったまま固まり、もはや手で揉み解さなければ元に戻らないほどになっていた。
地下鉄の駅へと向かう途中、街頭ビジョンには、政府広報の極彩色の映像が流れている。どこかの有名企業が倒産したことを、「新たな産業構造への発展的解消」として祝うパレードの様子だ。画面の中の人々は、誰一人として目を笑わせていない。口元だけを三日月型にゆがめ、色とりどりの風船を空へと放っている。
私は視線を足元に落とし、吐瀉物と吸殻で汚れたアスファルトを見つめながら歩いた。視界の端に映る通行人たちも、一様に俯いているか、あるいはスマートフォンの画面に没頭している。誰かと目が合えば、反射的に笑顔を作らなければならないという強迫観念が、この街の空気には充満している。うっかり眉間に皺を寄せようものなら、相互監視に励む「善良な市民」たちによって通報され、矯正施設へ送られる可能性があるからだ。
すれ違う人々の中に、今朝まで同僚だった古参の職人の姿を見つけた。六十二歳。定年まであと三年だった男だ。彼は私に気づくと、満面の笑みを浮かべて手を振った。
「やあ、いい日でしたね!」
私も笑顔で手を振り返した。
「ええ、最高の日でした!」
私たちはそのまますれ違い、互いに振り返ることなく歩き去った。
病院の待合室は、消毒液の冷たい臭いと、造花のような甘ったるい芳香剤の香りが入り乱れ、独特の不快な空気を醸成していた。壁には「笑顔は最高の免疫力!」というスローガンが書かれたポスターが貼られ、その下で、深刻な病状を抱えた患者たちが、必死に口角を上げようと努力している。
診察室に入ると、白衣を着た医師が私を迎えた。彼もまた、顔面に疲労を張り付かせたまま、目だけが笑っていない典型的な表情をしていた。
「奥様の件ですが」
医師はカルテに視線を落としたまま、明るい声で切り出した。
「おめでとうございます。いよいよ、最終段階へのステップアップが確定しました」
私は膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、私の理性を辛うじて繋ぎ止める。
「……それは、つまり」
「ええ。奥様はまもなく、この苦しみに満ちた現世を卒業され、天上の楽園へとお引越しされます。奥様の膵臓がん、余命数日、といったところでしょうか。いやあ、羨ましい限りです。私たちがまだこの世で汗水垂らしている間に、奥様は永遠の安息を獲得されるのですから」
医師は机の上の引き出しから、パンフレットを取り出した。『栄光ある旅立ち・プラチナプラン』と書かれた極彩色の表紙には、花畑の中で微笑む高齢者の写真が印刷されている。
「延命治療という名の、現世への未練がましい執着は、奥様の魂のランクを下げるだけです。ここは、盛大な祝杯を用意してあげるのが、夫としての愛でしょう」
医師の言葉は、この社会の論理で構築されていた。この社会の法律と倫理に基づけば、彼の言うことは絶対的な正義だ。
「……痛みは。彼女の痛みは、どうなりますか」
私が尋ねると、医師は困ったように首を傾げた。
「痛み? ああ、それは天国への階段ですよ。苦痛を乗り越えてこそ、真の安息が得られる。痛み止めなどで感覚を鈍らせては、せっかくの旅立ちが台無しです。奥様には、最後まで全身で喜びを感じていただきたい」
「先生、お願いします。彼女が……最後まで、笑っていられるように」
「承知いたしました! その前向きな姿勢、感服いたしました」
医師はわざとらしい拍手をした。乾いた音が、診察室の白い壁に吸い込まれていく。私は立ち上がり、深々と頭を下げた。感謝しているわけではない。顔を上げていれば、殺意が表情に出てしまいそうだったからだ。
◇
妻の病室に着いたのは、夜の九時を回った頃だった。
個室の扉を開けると、消毒液と、かすかな死の予兆が鼻をついた。窓際に置かれた介護用ベッドには、様々な医療機器が接続されており、心拍モニターの電子音が規則正しく室内に流れていた。
「……ただいま」
私は小声で呟いた。返事はない。ベッドの上で、妻は浅い呼吸を繰り返していた。痩せこけた頬は骨格を際立たせ、眼窩は深く落ち窪んでいる。かつてふっくらとしていた彼女の手は、今では細い枝のようになり、血管が青黒く浮き上がっていた。
私は上着を脱ぎ、洗面所で手を洗うと、すぐに妻の枕元へ座り込んだ。彼女の額に滲んだ脂汗を、タオルで丁寧に拭う。彼女の瞼がわずかに動き、薄く目が開かれた。
「……あ、なた」
掠れた声。まるで乾いた落ち葉を踏みしめるような音だ。
「ああ。来たよ。気分はどうだ?」
「……うれ、しい」
彼女は条件反射のようにそう言った。この国で教育を受けた人間にとって、「辛い」という言葉は禁句だ。たとえ身を引き裂かれるような苦痛の中にいても、口から出る言葉はポジティブなものでなければならない。それはもう、思考する以前の生理現象になっている。
「そうか。嬉しいか。それは良かった」
私は彼女の手を握った。冷たい。生命の火が、今まさに消えようとしている冷たさだ。私はその手を両手で覆い、自分の体温を伝えようとした。
妻は、私を見て微笑もうとした。しかし、顔面の筋肉が衰えきっているため、それは苦悶の表情にしか見えなかった。唇が引きつり、歯がカチカチと鳴る。
「……もう、がんばらなくていいんだ」
私は誰にも聞こえないほどの低い声で囁いた。廊下を通る看護師に聞かれれば、通報されるかもしれない危険な言葉だ。だが、私は言わずにはいられなかった。
「笑わなくていい。ただ、眠っていてくれ」
妻の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。それは頬のくぼみを伝って枕に吸い込まれた。私はそれを指で拭うことができなかった。涙を認めることは、彼女の不幸を肯定することになる。私はただ、彼女の手を握りしめる力を強めることしかできなかった。
その時だった。
病室のドアをノックする音が、静寂を乱暴に破った。一度ではない。連打されている。明るく、リズミカルな連打。それは借金取りの催促のようでもあり、悪ふざけをする子供のいたずらのようでもあった。
私は立ち上がり、ドアへと向かった。開ける前から分かっていた。廊下から聞こえてくる、わざとらしいほどの高笑いと、賑やかな話し声で、誰が来たのかは明白だった。誰かが連絡を回したのだろう。私の妻が「最終段階」を迎えるとあれば、その仲間として「適切な対応」を取らねばならない。そうしなければ、私たちの連帯は「不幸を共有する反社会的集団」と見なされかねないからだ。
ドアを開けると、そこには工場の元同僚たちが立っていた。今朝、一緒に社長を「祝った」仲間たちだ。
「サプラーイズ!」
彼らは一斉に叫び、手にしたクラッカーを鳴らした。病室の入口に、安っぽい火薬の臭いと、色とりどりの紙テープが充満する。
「いやあ、水臭いじゃないですか、先輩!」
先頭に立っていたのは、あの若い同僚だった。生まれたばかりの子供がいる。住宅ローンも残っている。今朝、失業したばかりの男だ。彼はコンビニの袋を両手に提げ、満面の笑みを浮かべている。その後ろには、古参の職人や、事務の女までいる。全員が、まるで忘年会にでも来たかのような、不自然なほど高いテンションだった。全員が、今朝失業したばかりの人間とは思えない表情をしていた。
「何なんだ、これは。今は……」
私が言いかけると、古参の職人が私の肩を抱き寄せ、缶チューハイの臭いを漂わせながら言った。
「何って、決まってるでしょう。奥さんの一世一代の晴れ舞台、その前夜祭ですよ! こんなめでたい時に、一人で祝うなんて寂しすぎる。俺たちが、盛大に盛り上げに来ました!」
「工場はなくなっちまったけど、仲間は仲間ですから」
六十二歳の男が言った。定年まであと三年だった。彼の目は、笑っていなかった。
「ほらほら、入った入った!」
彼らは私の制止など意に介さず、どやどやと病室に入り込んでいった。個室とはいえ決して広くない空間は、瞬く間に大人たちで埋め尽くされた。彼らは手に持っていた缶チューハイを開け、コンビニの惣菜をサイドテーブルに広げ始めた。
「わあ、奥さん、聞いていた通り、素晴らしいコンディションですね!」
事務の女が、ベッドの上の妻を見て声を上げた。彼女は妻の枕元に近づくと、持ってきた百円ショップの飾りつけを取り出した。「HAPPY ENDING」と書かれたキラキラ光るモールを、点滴スタンドに巻き付け始める。
「ちょっ、やめてくれ! 彼女は今……」
「先輩、シーッ!」
若い同僚が人差し指を唇に当て、私を睨んだ。その目は笑っていなかった。赤ん坊を抱えて失業したばかりの男の目だった。
「空気、読んでくださいよ。ここで湿っぽい顔をしたら、みんなに迷惑がかかるんですよ? 看護師さんも見てるんです。楽しく、賑やかにやりましょうよ」
彼の言う通りだった。病室で大勢が集まって静まり返っていれば、すぐに不審がられる。「不幸の集会」が開かれていると通報されれば、全員の失業保険が打ち切られる。彼らは、私を祝うために来たのではない。自分たちが「いかにポジティブな人間か」を証明するアリバイ作りのために、私の妻の死を利用しに来たのだ。
いや、違う。彼らだけを責めることはできない。
今朝、私は長年世話になった社長の口にスマイル・キーパーをねじ込んだ。彼の顔に紙吹雪を浴びせ、「おめでとうございます」と叫んだ。私が彼らにされていることは、この国では当たり前の日常だ。私は唇を噛み締め、抵抗を諦めた。
「……ありがとう。わざわざ、すまないな」
「いえいえ! さあ、乾杯しましょう! 奥さんの、来たるべき平穏に!」
「乾杯!」
プラスチックのコップがぶつかり合う音がした。妻は、喧騒の中で身じろぎをし、苦しげな呼吸音を漏らした。だが、元同僚たちはそれを「喜びのあまり声が出ないのだ」と解釈し、さらに大きな声で笑った。
時間は、泥のように重く、遅く流れた。彼らは妻のベッドを囲んで酒を飲み、上司の悪口や、将来の不安を、すべて「前向きなジョーク」に変換して語り合った。リストラされそうな恐怖を「自由への切符」と呼び、給料カットを「清貧の美徳」と笑う。今朝の失業を「人生最高の転機」と祝い合う。その会話の中身は空っぽで、ただ音量だけが大きかった。
妻の呼吸が、次第に不規則になっていくのを私は感じていた。モニターの電子音が、速くなったり、遅くなったりを繰り返す。彼女の命が、最後の灯火を燃やし尽くそうとしている。
「おい、そろそろじゃないか?」
誰かが言った。その一言で、場の空気が変わった。どんちゃん騒ぎの狂騒から、獲物を待ち構えるような、異様な興奮へと。
「カウントダウンだ! みんな、準備しろ!」
古参の職人が叫び、全員が立ち上がった。彼らは手に手に、特大のクラッカーや、紙吹雪の入ったボールを持った。今朝、社長に浴びせたのと同じものを。
「今日は、奥さんが主役ですよ。ほら」
若い同僚が私に手渡したのは、バズーカ砲のような形をした巨大なクラッカーだった。今朝、私が社長に向けて構えたのと同じ型だ。ずっしりとした重みが、私の腕にのしかかる。
「これを、奥さんの顔に向けて。盛大に、一発」
「……顔に? そんなことをしたら」
「何言ってるんですか。それが『祝福』のシャワーでしょう? 奥さんも、それを望んでいるはずです。ねえ?」
彼は妻の顔を覗き込み、そして、あろうことか妻の頬に手を伸ばした。妻の口は半開きになり、苦痛でこわばっていた。若い同僚は、その両頬を指で強く押し上げ、無理やりに笑顔の形を作った。
今朝、私が社長にしたのと、まったく同じ動作だった。
「ほら、見てください。奥さん、こんなに笑ってる。早くしてって言ってますよ」
私の頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。それは私が長年守ってきた、社会人としての理性か、あるいは人間としての尊厳だったのかもしれない。
妻の顔は、元同僚の指によっておぞましい笑顔に固定されている。皮膚が引きつり、白目が剥き出しになっている。それは愛する人の顔ではなかった。この社会では当たり前の、最期という祝祭だった。
これが、私たちの社会だ。誰も強制していない。執行官はここにいない。私たちは自発的に、互いの顔を歪め、互いの尊厳を踏みにじり、互いを「おめでとう」と口ずさんでいる。これは最後だ。
モニターのアラームが鳴り出した。心拍数がゼロに向かって急降下していく。
「いっけええええ! やれえええ!」
「おめでとう! おめでとう!」
「ハッピー・デス・デイ!」
元同僚たちの怒号のような歓声が、病室を揺らした。彼らの顔は、酒と興奮で赤黒く充血し、口は裂けんばかりに開いている。その表情は、笑っているようでもあり、泣き叫んでいるようでもあり、あるいは何かに怯えているようでもあった。今朝、社長を「祝った」時の、私たちの顔と同じだった。
私は動かない指を、クラッカーの紐にかけた。
妻を見る。彼女の目は、もう何も見ていなかった。ただ、天井のシミを見つめたまま、光を失っていた。
祝わなければならない。ここで祝わなければ、私は失業保険を失う。路頭に迷う。私が生きていくためには、彼女の死を、ゴミのような紙切れで汚さなければならない。
今朝、私は社長にそうした。今、私は妻にそうしようとしている。明日は、誰かが私にそうするだろう。
「……う、うう」
喉の奥から、嗚咽が漏れそうになった。私はそれを、必死に飲み込んだ。笑え。笑うんだ。顔の筋肉を動かせ。引きつる頬を引き上げろ。
「……おめでとう」
私は囁いた。
「おめでとう……愛してる」
私は紐を引いた。
ドォン、という爆発音が、耳の奥を殴りつけた。
私の手の中から放たれた金と銀のテープが、螺旋を描きながら飛び出し、妻の顔を直撃した。細かく刻まれた色紙の吹雪が、彼女の開いた口の中に、鼻の穴に、開いたままの目に、容赦なく降り注いだ。
妻の姿が、きらびやかなゴミの下に埋もれていく。
「なんて素晴らしい!」
「最高だ!なんて美しい最期なんだ!」
拍手喝采。口笛。歓喜の嵐。
私はその中心で、立ち尽くしていた。クラッカーの筒からは、火薬の硝煙が細く立ち上り、私の鼻を刺激した。
視界が滲んだ。熱い液体が、目から溢れ出し、頬を伝って顎から滴り落ちた。止めようとしても止まらなかった。それはダムが決壊したように、次から次へと溢れ出てきた。
「あれ? 先輩、泣いてるんですか?」
若い同僚が、ギョッとした顔で私を指差した。室内の空気が一瞬で凍りついた。全員の視線が、私の濡れた頬に集中する。
泣いている。それは犯罪だ。不幸の肯定だ。社会への反逆だ。
私は引きつった笑顔を張り付かせたまま、両手で顔を覆った。指の隙間から、さらに涙が噴き出した。
「いや……違うんだ……これは……」
私は声を絞り出した。笑い声のように聞こえるように、喉を動かしながら。
「笑いすぎて……涙が出てきちゃって……ほら、あまりにも嬉しくて……笑いが止まらなくて……」
苦しい言い訳だった。笑いすぎて涙が出る。それが、この顔で起きているはずがない。
しかし、元同僚たちは一瞬顔を見合わせた後、爆発するように笑い出した。
「なんだ、笑いすぎですか! 紛らわしいなあ!」
「そうですよね、こんなにおめでたい席ですもんね!」
「あははは! 先輩ったら、本当に幸せそう!」
彼らは私の嘘を淡々と受け入れた。いや、受け入れざるを得なかったのだ。私が泣いていると認めてしまえば、この祝祭は失敗となり、彼らもまた「不幸な場に同席した」として連帯責任を問われるからだ。だから彼らは、私が笑っていることにした。私が嬉し泣きをしていることにした。私たちは、お互いの嘘を、お互いに守り合っている。それが、この社会で生き延びる唯一の方法だからだ。
私は妻の顔にかかった紙吹雪を払いのけようとしたが、手が動かずうまくいかなかった。赤い紙切れが、彼女の唇に張り付いたまま離れない。それはまるで、彼女が血を吐いているようにも見えた。
モニターの電子音が、ピーッという単調な連続音に変わった。心停止。
その無機質な音は、元同僚たちの「万歳!」という叫びにかき消された。
私は笑い続けた。涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、喉が裂けるほど笑い続けた。私の笑い声は、泣き声と区別がつかない音色を帯びていたが、この部屋の狂乱の中では、それは和音の一部だった。
病室の隅で、空になったチューハイの缶が転がっていた。こぼれ落ちた液体は、誰にも拭われることなく、ゆっくりとリノリウムの床に広がっていった。
祝杯への供物 速水静香 @fdtwete45
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