2話

第5章2話 「正当化される侵攻」


人間軍司令部は、地下にあった。


王城の喧騒から切り離され、厚い石壁と鉄扉に守られた空間。

戦時にのみ本格稼働するその部屋は、平時には半ば忘れられた存在だ。

だが今夜、その静寂は役に立たなかった。


魔力灯の白い光が、長机の上に広げられた地図を照らしている。

境界線。

防衛線。

そして、赤い印。


数日前までは存在しなかった印が、

今では複数、無造作に打たれていた。


「――確認する」


総司令官の声が落ちる。

低く、抑制されているが、逃げ場のない響きだった。


「国境第一防衛線周辺にて確認されたキメラは、計3体。2体は討伐済み。1体は魔族領側へ移動後、消息不明」


机の端に控えていた将校が、形式的に頷く。


「被害状況」


「死者58名。重軽傷者は七十二」


報告が終わった瞬間、空気が一段重くなった。

誰もが、その数字を少なくないと判断した。


「……防衛線の内側だな」


現場将軍が、地図を睨みつけたまま言う。


「ええ」


参謀長が補足する。


「警戒はしていました。ですが、キメラの飛行能力と機動力は想定を超えていました」


総司令官は、何も言わずに聞いている。

問いを発しないのは、すでに理解しているからだ。


「次」


「被害の内訳ですが――」


参謀長は、一拍置いた。


「魔族側にも、死傷者が確認されています」


将軍が、勢いよく顔を上げた。


「魔族も、だと?」


「はい。討伐した一体は、魔族の小隊を捕食した痕跡を残しています」


一瞬、場の緊張が別の質へ変わった。


「……敵味方の区別なし、か」


将軍の声には、怒りよりも嫌悪が混じっていた。


「制御できない怪物を……」


言葉が、自然と荒くなる。


「そんなものを使うなんて……!戦争以前の問題だろう!」


参謀長は、反論しない。

事実だからだ。


「キメラは、完全に制御を失っています」


淡々と、だがはっきり告げる。


「狩りの効率は異常に高い。判断速度、攻撃精度、撤退判断。いずれも“個体の意思”で動いている」


「意思、だと?」


「命令系統が存在しません」


参謀長は続ける。


「誘導魔術、遠隔制御、発信源。いずれも確認されていない」


総司令官が、ようやく口を開いた。


「……魔族の正規兵器ではない」


断定ではない。

確認だ。


「はい」


参謀長は頷く。


「ですが、“魔族由来の技術”である可能性は否定できません」


将軍が、机を拳で叩いた。


「だから厄介なんだ!制御できない兵器を放り出して、自分たちは関係ない顔をするつもりか!」


「感情は理解します」


参謀長の声は冷静だ。


「ですが、重要なのは責任の所在ではありません」


「何だと?」


「我々が、被害を受けたという事実です」


一瞬、将軍が言葉を失う。


「……魔族も被害を受けている」


総司令官が、静かに言った。


「それは、判断に影響するか?」


参謀長は、即答しなかった。

一度、地図に視線を落とし、考えを整える。


「感情的には、影響します」


正直な答えだった。


「ですが、戦略的には――ほとんどしません」


「理由は?」


「制御不能な存在を生み出し、それが自陣営をも襲っている。それは――」


言葉を選ぶ。


「統制が崩れている、という証明だからです」


将軍が、苦々しく笑った。


「つまり、余計に危険だってことだな」


「はい」


参謀長は頷く。


「内部ですら抑えられない力を、国境付近に放置している」


総司令官は、ゆっくりと息を吐いた。


「……事故では済まないな」


「ええ」


参謀長が続ける。


「被害規模、発生地点、頻度。いずれも“偶然”として処理できる段階を越えています」


将軍が、低く呟く。


「キメラが越境した時点で……」


「はい」


参謀長は、言葉を重ねる。


「キメラが飛行し、境界線を越えた瞬間、それは“攻撃”として成立します」


「魔族の意思かどうかは、関係ない」


総司令官が、静かに言った。


「受けた側が、そう判断する限りは」


誰も否定しなかった。


被害は、現実に存在する。

死者も、村も、消えている。


「……防衛では、もう足りない」


将軍が、はっきりと言う。


「現場は限界だ。次が来れば、持たん」


参謀長が頷く。


「防衛線を“守る”だけでは、キメラの発生源を断てません」


「発生源が、魔族領内にある以上――」


総司令官は、言葉を切る。


「前に出るしかない、か」


沈黙。


誰も、それを侵攻だとは言わない。

言葉を選んでいるのではない。

そう認識していないのだ。


「これは侵攻ではありません」


参謀長が整理する。


「境界の安定化。脅威の排除。再発防止のための限定行動です」


将軍が、短く笑った。


「都合のいい言い方だが……正しい」


総司令官は、地図を見つめたまま言う。


「制御不能な化け物を使うなど、許されない」


その言葉に、私情はない。

だが、強い確信があった。


「それが、相手の内部事情であろうと関係ない」


参謀長が、最後に念を押す。


「魔族も被害を受けている。だからといって、我々が手を引く理由にはなりません」


「むしろ――」


将軍が続ける。


「相手は、もう“自分たちですら抑えられていない”」


総司令官は、ゆっくりと立ち上がった。


「前に出る」


それは命令でも、宣言でもない。


「境界を回復する。それだけだ」


誰も反対しなかった。


なぜならこの判断は、あまりにも合理的で、あまりにも正しく見えたからだ。


制御不能な災厄を放置することこそが、最大の罪だと彼らは本気で信じていた。


だから、人間軍は動く。


防衛の名の下に。

正義の論理の下に。


そしてその一歩は、

もはや境界を守るためのものではなく――


世界を、次の段階へ押し出す一歩だった。

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魔王と、その勇者 喜哀楽 @Kiara-Syo-Setsu

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