第七章 標準作業という革命

「これが——『標準作業票』ですか」


若い見習いのトーマが、壁に貼られた紙を食い入るように見つめていた。


紙には、工房のレイアウト図が描かれている。作業台、炉、水槽、研磨台——それぞれの位置が正確に記されている。そして、その上に、赤い線で「作業者の動き」が示されていた。


「ここで材料を取って、ここで加熱して、ここで叩いて、ここで冷やす——」


トーマの指が、赤い線をなぞった。


「今まで、何も考えずにやってたことが、こうして図にされると——なんか、違って見えますね」


「だろう?」


セイは、満足そうに頷いた。


「人間は、無意識にいろんな動きをしてる。でも、それを『見える化』すると、無駄な動きが分かるんだ」


「無駄——ですか」


「例えば、ここ」


セイは、図の一点を指差した。


「今まで、ハンマーを取るのに、作業台から三歩下がって棚まで行ってた。でも、作業台の横に専用の置き場を作れば、一歩で済む」


「二歩の差——ですか」


「たかが二歩。でも、一日に百回ハンマーを使うとしたら、二百歩の差になる。一か月で六千歩。一年で——」


「七万二千歩」


ラルフが、横から口を挟んだ。


「すげえ数だな」


「そう。その時間を、本当に大事な作業——鍛造とか、仕上げとか——に使えたら、生産性は確実に上がる」


セイは、壁に貼られた三枚の紙を示した。


「これが、『標準三票』だ。『工程別能力表』『作業組合せ票』『標準作業票』。この三つを揃えることで、『最も効率的な作業の仕方』が定義される」


「工程別能力表——って、何ですか?」


「各工程で、どれくらいの時間がかかるか、どれくらいの数が作れるかを数値化したもの。例えば、鍛造工程は一本あたり十五分、研磨工程は一本あたり八分——みたいに」


「作業組合せ票は?」


「複数の工程を、どういう順序で組み合わせるかを決めたもの。機械——っていうか、炉が動いてる間に、人が何をするか。待ち時間をなくすための計画だよ」


トーマとラルフは、真剣な表情でセイの説明を聞いていた。彼らは、最初はセイの「改善活動」に懐疑的だった。十歳の子どもに何が分かる、という態度だった。だが、二年の間に、セイの提案が実際に効果を上げるのを目の当たりにして、今では積極的に協力するようになっていた。


「しかし——」


ガルドが、腕を組みながら言った。


「こうして全部を紙に書き出すってのは、職人の世界じゃ珍しいな。普通は、親方の頭の中にあるもんだ」


「だから、問題なんだよ」


セイは、父を見た。


「親方の頭の中にしかないと、親方がいなくなったら消えてしまう。でも、紙に書いておけば、誰でも見られるし、後から改良もできる」


「——確かにな」


ガルドは、息子の言葉を噛み締めていた。


「俺の親父——お前の爺さん——は、何も書き残さずに死んだ。だから、俺は一から自分で覚えなきゃいけなかった。もし、爺さんのやり方が紙に残ってたら——」


「そういうこと。知識は、共有してこそ価値がある。秘匿してたら、一代で途絶える」


「だが、他の工房は——」


ガルドの声が、少し沈んだ。


「技術を秘密にしたがる。教えたら、自分の強みがなくなると思ってる」


「短期的には、そうかもしれない。でも、長期的には違う」


セイは、真剣な目で父を見た。


「みんなが技術を共有すれば、業界全体のレベルが上がる。レベルが上がれば、顧客の信頼が増す。信頼が増せば、仕事が増える。仕事が増えれば、みんなが潤う」


「理想論だな」


「理想論かもしれない。でも、誰かが最初にやらないと、変わらないでしょ?」


ガルドは、息子の顔をじっと見つめた。


「——お前は、本当に十二歳か」


「また、その質問?」


「いや——何度聞いても、信じられんのだ」


ガルドは、深い溜息をついた。


「まあいい。お前の言う通りにしてみよう。『標準三票』とやら、うちの工房で試してみる」


標準作業の導入は、予想以上に困難だった。


最大の抵抗は、職人たちの「プライド」だった。


「俺の技を、紙に書けるか!」


ベテランの職人——ガルドの古い友人でもあった——が、声を荒らげた。


「お前は十何年も修行してきた技を、ペラペラの紙一枚にできると思ってるのか!」


「いえ、そういうわけでは——」


「大体、こんな『作業票』なんてものは、腕のない奴の言い訳だ! 本当の職人は、体で覚えるもんだ!」


工房に響く怒声に、セイは萎縮しそうになった。だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。


「——おっしゃる通りです」


セイは、冷静に答えた。


「職人の技は、紙に書けるほど単純じゃない。僕も、それは分かっています」


「なら、何で——」


「でも、職人の技を『紙に書ける部分』と『書けない部分』に分けることはできます」


「——何?」


「例えば、『どの順序で作業するか』は、紙に書けます。『材料をどこに置くか』も書けます。『温度を何度にするか』も、数値で表せます」


セイは、標準作業票を指差した。


「でも、『いつハンマーを振り下ろすか』の微妙なタイミングや、『どれくらいの力で叩くか』の加減は、紙には書けない。それは、体で覚えるしかない」


「——」


「僕が提案してるのは、『紙に書ける部分』だけでも標準化しよう、ということです。そうすれば、『紙に書けない部分』——本当の職人技——に集中できる。余計なことに気を取られなくて済む」


ベテラン職人は、黙ってセイの説明を聞いていた。その目には、まだ不信感が残っていたが、最初の怒りは収まりつつあった。


「つまり——」


ガルドが、口を挟んだ。


「標準作業ってのは、職人の技を否定するもんじゃなくて——」


「職人の技を、より活かすためのものです」


セイが続けた。


「雑用に時間を取られなければ、その分、本当に大事な作業——職人にしかできない繊細な判断——に時間を使える。標準作業は、職人を『縛る』ものじゃなくて、職人を『解放する』ものなんです」


長い沈黙の後、ベテラン職人は、ふう、と息をついた。


「——口の達者なガキだな」


「すみません」


「いや——言ってることは、分からんでもない」


職人は、標準作業票をもう一度見つめた。


「試してみるか。効果がなければ、やめればいい」


数週間後、ガルドの工房の生産性は、目に見えて向上していた。


「——信じられん」


ベテラン職人が、自分で言った言葉を、自分で否定するように首を振った。


「同じ時間で、前より三割多く作れてる。しかも、品質は落ちてない——いや、むしろ上がってる」


「だろう?」


セイは、控えめに笑った。


「でも、僕の手柄じゃないですよ。職人さんたちが、標準作業を守りながら、さらに工夫を加えてくれたおかげです」


「工夫——ああ、あれか」


ベテラン職人は、標準作業票の余白を指差した。そこには、赤い字で追記が書き込まれていた。


「『鍛造後、すぐに叩くと歪みやすい。二呼吸おいてから叩くと良い』——これ、俺が書いたんだ」


「素晴らしいです。こういう気づきを書き加えていくことで、標準作業はどんどん良くなる」


「こういうのを——何と言うんだ」


「『改善』です」


セイは、その言葉を噛み締めるように言った。


「標準作業は、『今の最善』を定めたもの。でも、『永遠の最善』じゃない。もっと良い方法が見つかったら、標準を更新する。その繰り返しが、『改善』です」


「改善——か」


ベテラン職人は、その言葉を反芻していた。


「悪くない響きだな」


標準作業の成功は、工房の外にも波及し始めた。


「ハンマーフェル工房が、新しいやり方を導入したらしい」


「生産性が三割上がったって話だぞ」


「品質も安定してるとか」


噂は、王都の鍛冶業界に広まった。最初は懐疑的だった他の工房も、実際の成果を目の当たりにして、興味を示すようになった。


「うちにも、そのやり方を教えてくれないか」


ある日、近所の鍛冶工房の親方が、ガルドの工房を訪ねてきた。


「いいですよ」


セイは、快く了承した。


「でも、一つ条件があります」


「条件?」


「教えた工房でも、改善点が見つかったら、教えてほしいんです。みんなで知恵を出し合えば、もっと良い方法が見つかるかもしれない」


親方は、少し驚いた顔をした。


「普通、こういうのは秘密にするもんだろう。なぜ、わざわざ——」


「秘密にしたところで、いずれ広まります。だったら、最初から共有して、一緒に良くしていったほうが、みんなの得になる」


「——変わった考え方だな」


「変わってますか?」


「ああ。だが——嫌いじゃないな」


親方は、にやりと笑った。


「分かった。協力しよう」


こうして、「標準作業」と「改善」の概念は、ガルドの工房を起点に、王都の鍛冶業界に広がり始めた。


それは、静かな革命だった。


派手なスローガンも、政治的な闘争もない。ただ、一つ一つの工房で、小さな改善が積み重ねられていく。その積み重ねが、やがて大きな変化を生む。


セイは、前世で何度も経験していた。トップダウンの改革は、しばしば抵抗を生み、頓挫する。だが、ボトムアップの改善は、じわじわと根を張り、気づいたときには全体を変えている。


「これでいい」


夜、工房の片隅で、セイは一人呟いた。


「焦らなくていい。一歩一歩、確実に」


品質革命は、着実に進んでいた。

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