第五章:静寂の領土と審判の配当(2)

 その確信を得るために、美咲は一つの実験を決行することにした。


 ターゲットに選んだのは、クラスの隅で常に小さな悪意を振りまいている男子生徒、ミヤシタだった。女子の持ち物に勝手に触れ、気に入らない生徒の悪口を陰で言いふらす。その卑小な攻撃性で均衡を保つ、寄生虫のようないじめっ子。




 美咲は、これまでのように彼を嫌悪の対象として見ることをやめた。ただ、法典の教えに従い、解体すべき個体として観察を開始した。




 一週間、美咲はミヤシタの視線の動き、指先の震え、そして彼が誰の前で最も饒舌になるかを徹底的に鑑定した。判明したのは、彼の拠り所が「悪意を通じた他者との繋がり」であるという事実だった。


 教師の前では好青年を演じ、裏で他人を貶める二面性。彼は自分の悪事が誰かに認識されることで、初めて自分の存在を実感していた。彼の最大の恐怖は、自分の悪意が誰にも届かなくなり、自分の存在そのものが、世界から無視されること。無に帰すことだ。




 美咲はその核を射抜くために、彼が己の存在を刻印しようとする瞬間を、音もなく待ち伏せした。


 ある日の放課後。夕闇が迫る美術室で、ミヤシタは一人の女子生徒が描いたスケッチブックの隅に、卑猥な落書きを加えていた。その行為自体が、彼なりの世界への署名だった。


 背後に立った美咲の気配に気づき、ミヤシタは勝ち誇ったような、それでいて怯えの混じった笑みを浮かべた。




「おい、美咲。見たのか? 言ったらどうなるかわかってるよな?」




 美咲は応じなかった。怒りも、蔑みも、ましてや恐怖もない。ただ、鏡のように冷たい無表情で、ミヤシタの瞳の奥をじっと見つめ返した。


 美咲の瞳は、彼の存在を映し出すことを拒絶していた。まるで、目の前に立つ人間をただの無機質な障害物として処理するかのような、絶対的な無視。




 その視線に射抜かれたミヤシタは、自分が立っている床が、底なしの泥濘ぬかるみに変質していくような錯覚に襲われた。


 美咲が意図的に何もしないという意志を固めた瞬間、教室の湿度が狂ったように跳ね上がった。窓の外の竹林から「シャリッ……」と、獲物を見つけた獣の咀嚼音のような鳴動が響く。




「……なんだよ、なんか言えよ。不気味なんだよ、お前」




 ミヤシタの声が上ずる。彼は美咲に罵倒されることを望んでいた。反応こそが彼の生存証明だからだ。しかし美咲は、彼を人間として認識することを完全に放棄した。彼女の視界の中で、ミヤシタという輪郭が、背景の壁と同じ灰色のノイズに溶けていく。




「見てないよ、ミヤシタくん。何も」




 美咲が発したその言葉は、優しさではなく、彼の存在を世界から切り離す「切断」の宣言だった。


 翌日から、ミヤシタを構成する世界が、音を立てずに剥落し始めた。


 それは緩やかな処刑だった。朝、彼が登校しても、誰の視線も彼に留まらない。授業中、彼がどれほど大きく筆箱を落としても、教師は彼の方を向きもしない。出席確認の際、彼の名前だけが、あたかも最初から名簿に存在しなかったかのように飛ばされた。




 誰からも認識されないという空白は、やがて彼の内側さえも侵食していった。


 鏡を見ても自分の輪郭がひどく曖昧に感じられ、叫び声を上げても、その音は空気の振動にすらならず消えていく。世界というキャンバスから、ミヤシタという色が、毒に浸した筆で乱暴に拭い去られていくようだった。


 存在の拠り所をすべて失い、精神の土台が崩壊しきったその日の放課後。




「なあ、美咲。……俺、俺ここにいるよな? 誰とも目が合わないんだ。昨日、ちゃんとここで笑ってたよな? 俺の名前、なんて言ったっけ? ……思い出せないんだ、何も」




 ミヤシタは、もはや涙も出ないほどに乾ききった眼窩を剥き出し、血の気の失せた手で美咲の肩を掴もうとした。だが、その指先が美咲の制服に触れることはなかった。




 美咲の肩を掴もうとしたミヤシタの指先は、実体を失い、抵抗なく彼女の身体を透過した。掴むべき標的を失った彼の身体は、そのまま前方にのめり込み、床に触れる前に薄墨を水に垂らしたような影となって散っていく。




 美咲は、自分を通り抜けて消えていくその現象に、眉ひとつ動かさなかった。


 彼女の瞳に映っているのは、ミヤシタという哀れな残骸ですらない。彼が消えた後に残された何もない空間を通り越し、窓の向こうでごちそうを待つように静まり返った漆黒の竹林だけだ。




 ミヤシタだったものが霧散した瞬間、教室の空気が不自然なほどに澄み渡った。あたかも、世界を汚していた染みが一拭きで消し去られたかのように。彼の叫びも、彼が犯した罪も、そして彼という存在の記録さえもが、竹林が吐き出した漆黒の闇に吸い込まれ、一秒ごとにこの世から希薄な無へと溶けていく。




 その透過は、時間をも加速させた。


 数日後、ミヤシタの机は、まるで数年前から使われていない廃棄物のように埃を被っていた。クラスの誰一人として、昨日までそこに誰が座っていたのか、思い出せる者はいなかった。




 彼の存在は、霧峰市の地脈に飲み込まれ、新しい女王の玉座を支えるための、名もなき肥料へと変えられたのだ。




 その芳醇な生贄の余韻を啜り、竹林がさらに深く、昏い鳴動を上げた。地の底で肥大化した漆黒の意思は、もはや校庭の境界線に留まることを潔しとしない。


 竹の根が、飢えた触手のようにアスファルトの隙間から這い出し、東側の合理性を物理的に侵食し始めている。ひび割れた舗装路から突き出す鋭い竹の子は、人間の築いた秩序を無慈悲に貫き、女王の版図はんとを広げていく。




 それを見つめる美咲の瞳には、もはや一滴の人間的な迷いも残っていなかった。彼女は、境界線の主としての冷たい玉座に、深く、静かに腰を下ろしたのである。




 この日から、霧峰市における異常は法へと変わった。


 竹林は静かに、だが確実に街の毛細血管を支配し、不要な枝葉を間引くための自浄作用としてこの地に根付いた。人々は、時折発生する不可解な失踪や破滅を避けられぬ天災として受け入れ、その深淵を覗くことを無意識に拒絶するようになった。




 季節は巡り、霧峰市を数ヶ月にわたって覆い尽くしていた、あの黒い霧は、秋の訪れとともに静かに引いていった。それは、水嶋沙羅が遺した呪詛が三人の少女を喰らい尽くし、かつての女王による清算が完了した合図であった。そして同時に、その惨劇の終焉に立ち会い、ミヤシタという生贄を捧げて理を完全に手なずけた新しき女王美咲によって、怪異の牙が日常の裏側へと格納されたことを意味していた。




 美咲がその意思で、荒れ狂う呪いの奔流を地脈の底へと押し鎮めると、街を窒息させていた黒い噴煙は、急速にその色を失い、透き通っていった。牙を剥き出しにしていた暴力的な怪異は、彼女の統治下で、再び柔らかな風景の仮面を被せられたのだ。




 そうして街は、かつての姿に戻った。


 霧峰市は、その名が示す通り、再び一年を通じて街を閉ざす白く淡い霧のヴェールに包まれた。美咲の手によって鎮められた怪異の残滓ざんしは、この街本来の生理現象である霧の粒子ひとつひとつに溶け込み、その深層へと沈殿していった。




 今や人々を包む霧は、ただの気象現象ではない。美咲が手なずけた新たな理が、無害な風景のふりをして、街の呼吸そのものに成り代わったのである。この理が街の隅々にまで行き渡り、あの夏の血生臭い残響を霧の彼方へ押し流したとき、世界はようやく、何事もなかったかのような、平穏すぎる顔を取り戻した。




 空は高く、霧越しに届く陽光はどこまでも淡い。東側のニュータウンは鏡のように無機質な美しさを取り戻し、西側の竹林も、今はただの風光明媚な景観として、観光客のカメラに収められている。あの夏、境界線の向こう側に引き摺り込まれた者たちの断末魔など、最初からなかったかのように、街の代謝機能は完璧に、そして残酷に働いていた。




 しかし、美咲にだけは分かっていた。


 この白く無害に見える霧は、かつての姿に戻ったのではない。街があの黒い霧をその内側へ飲み込み、いつもの風景という薄い皮膜で覆い隠しただけなのだ。


 今、街を包んでいる白いヴェールは、かつてのようなただの気象現象ではない。それは獲物を胃袋の中に収め、安らかに眠っている怪異の吐息そのものだった。




その冷たく湿った吐息は、校舎の壁を這い上がり、開け放たれた窓を抜けて、静まり返った図書室の中まで忍び込んでくる。窓際に座る美咲の肌をなぞるように霧が流れるたび、彼女の右手首に刻まれた漆黒の痣は、街の呼吸と同期するように熱く、愛おしむように疼いた。


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