はじめての「ワープゲート」

タケル

序章 リアスの発明家

 紺碧の海が複雑な入江を形成し、緑豊かな山々がその縁を彩る岩手県、三陸海岸の北部。そこに、まるで時が止まったかのような静けさを湛える小さな漁村、波音村(なみおとむら)があった。


 リアス式海岸特有の風光明媚な景色は訪れる者を魅了するが、その地形ゆえに交通の便は悪く、主要都市へのアクセスは長年、村人たちの悩みの種だった。時代は2042年。東日本大震災の爪痕は癒えつつあったが、過疎化と高齢化の波は容赦なくこの美しい村にも押し寄せ、その未来にかすかな影を落としていた。しかし、そんな村にも変わらないものがあった。それは、豊かな海の幸と、昔ながらの温かい人々の絆、そして、浜崎猛、通称タケルの存在だった。


 タケルは38歳。この波音村で生まれ育った発明家だ。彼の日常は、穏やかな村の風景とは少し異なっていた。夜明けと共に起き出し、まずは年老いた父の漁を手伝う。寡黙な父との間には多くを語らずとも通じる信頼があり、タケルにとって海は生活の一部であり、インスピレーションの源でもあった。漁から戻ると、彼は実家の納屋を改造した雑然とした研究室へと姿を消す。そこは、半田ごての匂い、金属の摩擦音、そして時折響く小さな爆発音やタケルの独り言に満ちた、彼だけの聖域だった。


 幼い頃から機械いじりが何よりも好きだったタケルは、地元の工業高校を卒業後、一度は都市部の精密機械メーカーに就職した。しかし、故郷の不便さを肌で感じ、いつか自分の手でそれを解消したいという思いと、組織の枠に縛られず自由な発想で発明に打ち込みたいという夢を諦めきれなかった。数年後、彼は大きな期待と一抹の不安を胸にUターンし、この納屋で「瞬間移送装置」という途方もない夢に取り憑かれたように開発を続けてきたのだ。周囲からは変わり者扱いされることもあったが、妻の海と娘の未来は、彼の最大の理解者であり、応援団だった。


「お父さん、また徹夜?顔色が悪いわよ」


 朝食の席で、海が心配そうにタケルの顔を覗き込む。彼女は村の小さな診療所で働く看護師で、太陽のように明るく、そして現実的な視点も持つしっかり者だ。タケルの突拍子もない夢物語を、誰よりも信じ、支えてきた。


「ああ、ごめん。昨日はちょっと集中しちゃってね。でも、もう少しなんだ。本当に、もう少しで…」


 タケルは寝不足で少し掠れた声で答えながら、娘の未来の頭を優しく撫でた。未来は8歳。父親の発明品に目を輝かせる好奇心旺盛な女の子で、時々、研究室に忍び込んでは、タケルの小さな助手役を気取っていた。


「お父ちゃんの魔法のドア、まだー?」


 未来の純粋な問いかけに、タケルは苦笑いを浮かべながらも、胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


 その日の午後、タケルは研究室で最終調整に没頭していた。目の前には、シンプルな金属製のドアフレームのような装置が二つ、数メートル離れて設置されている。これが、彼が長年心血を注いできた瞬間移送装置、通称「ワープゲート」だ。藤子不二雄の漫画に登場する「どこでもドア」とは異なり、地名を告げるだけでどこへでも行けるわけではない。電話のように、拠点ごとにこのゲートを設置し、それらをペアリングすることで、初めてゲート間の瞬間的な移送が可能になるという仕組みだ。それでも、これが完成すれば、人々の移動や物流のあり方を根底から変える画期的な発明になるはずだった。


 過去の失敗が脳裏をよぎる。爆発、ショート、原因不明の誤作動。数えきれないほどの試行錯誤と、資金難に何度も直面した。その度に、海の励ましや、未来の屈託のない笑顔、そして村の仲間たちのさりげない支援が彼を支えてくれた。特に、幼馴染で漁師の中村良太は、実験に必要な廃材を集めてきてくれたり、人手が必要な時には二つ返事で駆けつけてくれたりした。


「よし…これで最後だ」


 タケルは額の汗を拭い、深呼吸を一つした。制御パネルのスイッチに指をかける。緊張で指先が微かに震えた。スイッチを入れると、静かな起動音と共に、二つのゲートのフレーム内に淡い青白い光の膜がゆっくりと張られていく。まるで水面が揺らめくような、幻想的な光景だった。


 彼は実験台の上に置かれていた真っ赤なリンゴを手に取り、片方のゲートの前に立った。そして、意を決して、リンゴを光の膜の中へとそっと押し込んだ。リンゴは膜に吸い込まれるように消え、次の瞬間、数メートル離れたもう一方のゲートから、コロン、と音を立てて転がり出てきたのだ。


「やった…!やったぞ…!」


 タケルは思わず叫び、拳を突き上げた。長年の夢が、今、確かに目の前で現実のものとなったのだ。研究室の隅で固唾を飲んで見守っていた海と未来が、歓声を上げてタケルのもとに駆け寄った。


「お父さん、すごい!本当にリンゴが消えて、出てきた!」


 未来は興奮して飛び跳ねている。海は、涙を浮かべながらタケルの肩を叩いた。


「あなた、本当に…本当にやったのね…!」


 タケルは二人を強く抱きしめた。胸に去来するのは、達成感と、感謝の念、そして、これから始まるであろう新たな挑戦への予感だった。


 この小さな村から生まれた発明が、世界をどう変えていくのか。まだ誰も知らない未来への扉が、今、静かに、しかし確実に開かれようとしていた。

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