バーサス・ V9 ――100マイルのタイムトラベラー
KOJI TOWNSEND
第一部 第1話 死神の残り火
2007年11月7日 新宿。
西新宿の大学病院の病室は、死臭を消すための消毒液の匂いと、
機械的な呼吸音だけが支配していた。
漆原伸(28)歳が横たわるベッドの横の床頭台の上には、
クシャクシャになった数日前のスポーツ新聞が置かれている。
一面には、かつて剛腕ビーンボール投手として恐れられた男の無惨な近影と共に、
『死神、漆原伸、復帰は絶望的』という冷酷な見出しが躍っていた。
「……動けよ、右腕!」
ベッドに横たわる伸は、自らの右腕を呪うように、にらみつけていた。
かつて161キロの速球を投げ込み、打者の内角を抉ったその腕は、
今やその輝きを無くし、自分の意志を拒絶している。
筋肉が徐々に石のように固まっていく進行性の難病だった。
マウンドでの不遜な態度と、彼が放った死球で倒れた打者が、
脳内出血を起こした事件が引き金となって付けられた「死神」という呼び名は、
今の彼にはあまりにも出来過ぎていた……
まるで、他人の未来を壊した報いが、
自分自身の肉体に跳ね返って来たようだったからだ……
「伸、リンゴを剥いたわよ」
部屋の隅で、九条真樹(25歳)が静かにナイフを動かしていた。
彼女は、自分が叩かれている記事をわざわざ取ってある新聞を指差し、
「変な趣味ね。気が余計に滅入るだけじゃない」
と淡々と告げた。
「気なんてこれ以上どうやったって滅入らねぇさ、
俺は正面突破が信条なんだ。
問題も、批判も、正面に据えて目はそらさねぇ……それが俺の野球だ」
真樹の前だからこそ、伸は剥き出しの強がりを見せた。
5年前、歌舞伎町の路地裏で意識を失い倒れていた真樹を拾った当時は、
伸こそが彼女を支える側だった。
しかし今は、日常生活のほとんどを彼女の献身に依存している。
真樹は皿のリンゴを差し出した。
「はい、リンゴ」
伸はちょっと目線を上に逸らして
「……利き腕じゃねーと、やっぱり上手くいかねぇんだ。
口に突っ込んでくれ。
胃袋はまだ生きてる、流し込んで消化してやるさ」
伸が乱暴に笑うと、真樹は呆れたように小さく息をついた。
「……ゴリラ並みね」
伸「ふん、そうだろうよ」
真樹は少し嬉しそうに
「ふふ、安心して……私、ゴリラ好きよ。オランウータンもね」
真樹はそう言って伸の口にリンゴを運ぶ。
そして、伸の口を拭おうと、
ハンドバッグからウェットティッシュを取り出そうとした彼女の指先が、
何かに触れた。
それはカバンの中に眠るビニールの小袋に入った、
少しカビの生えた小さなパッチ薬のような代物だった。
それを見た彼女の瞳には、一瞬だけ深い「罪の意識」が宿った。
現代の医学では手の打ちようがない伸の病を、
あるいは「それ」ならば救えるかもしれない。
だが、それはあまりにも代償の大きい、禁忌の選択だった。
しばらくの沈黙のあと
真樹はリンゴを置き、タブレットを取り出すと、
伸の様子を横目で見ながら、何やら細かく操作し始めた。
伸は目を細めて呟いた。
「真樹……俺、生命力もこのままゴリラ並みだと思うか?」
真樹は手を止め、黙って伸を見つめ返した。
伸は壁の一点を凝視しながら
「トイレに行こうとしてもよ、最近よく転けるんだよ。足まで俺を裏切りやがる」
震える声で絞り出されたその弱音が真樹の瞳の奥に覚悟の火を灯した。
「……伸、大丈夫よ。地獄には行かせない。
あなたを『あなたが一番輝いていた場所へ』帰してあげる」
「お前にしちゃ、随分ロマンチックなこたえだな……無理させてすまん」
伸は、それが彼女なりの不器用な励ましだと思い、自嘲気味に笑った。
――その夜、伸の病状が急変した。
激しい呼吸困難。
サイレンが夜の新宿に鳴り響く。
救急車の車内、ストレッチャーに横たわる伸の意識は、
薄氷を踏むように遠のいていく。
伸「真樹……」
真樹「大丈夫よ。私の言うことをよく聞いて」
真樹は震える手で、カバンから『あのパッチ』を取り出した。
彼女はそれを伸の延髄の辺りに強く押し当てた。
「お願い……動いて。彼の魂をもう一度だけ、マウンドに立たせて!」
その瞬間、救急車が新宿のビル群の隙間の空間を――
かつて真樹が伸に拾われた歌舞伎町の路地裏、
その場所に生まれた時空の特異点を通過した。
バチッ!!
強烈な火花が車内に走る。
パッチに付着した「カビ」が、伸の執念と量子レベルで共鳴し、
空間を歪めた。
救急隊員が悲鳴を上げる間もなく、車体は夜の闇に飲み込まれ、消えた。
……。
……。
「……おい、起きろ。大丈夫か、あんた」
鼓膜を震わせたのは、電子音ではない。
野太く、地鳴りのような人間の声だ。
伸が目を開けた瞬間、強烈な日差しと共に、
「昭和」という時代の濃厚な臭気が鼻腔を突いた。
(なんだ……この臭いは)
アスファルトの焦げる匂いではない。
強烈な「土と、埃と、安っぽい煙草」の混じった臭いだ。
視界がはっきりしてくると、目の前に立っているのは、
スーツ姿ではあるが、見覚えのある昭和の「怪物」だった。
1969年11月7日。
元G軍、伝説の400勝投手、背番号34、金畑正二、36歳。
伸は反射的に自分の右手を握りしめた。
動く!力が、指先にまでみなぎっている。
ふと横を見ると、救急車は消え、
そこには「ナショナル」のロゴが入った錆びた看板と、
白黒テレビのような質感の古いトラックが停まっていた。
そして、遠くの道路を走るオート三輪のエンジン音が、不規則に響いている。
伸「……ここは?」
金畑は首を傾げながら
「何言ってんだ、燕スターズのキャンプ地だ。
あんた、変な格好で道端に倒れてたぞ。
そんな派手な色の服(パーカー)、どこで売っとるんや。
アメリカか?」
伸が立ち上がると、視線の先には電光掲示板もドームの屋根もない。
あるのは、竹ぼうきで掃いたような土のマウンドと、ツバの長い野球帽を被り、
縁の太い黒縁眼鏡をかけた男たちが群れる、異様な熱を帯びた「過去」の景色だった。
そして、金畑の背後にはセ・リーグの在京プロ野球チーム、
TOKIO燕スターズのユニフォームを着た選手たちが練習をしている。
傍らには、呆然と立ち尽くし、
1969年の住人には「怪しげな計算機」にしか見えないタブレットを抱きしめる真樹の姿。
彼女の背後からは「ポマードでガチガチに固めた七三分け」の若者がこちらを見ている。
あのパッチは何だったのか。
真樹は何者なのか。
なぜ、過去にいるのか。
疑問は尽きないが、今の伸を支配しているのは、
たった一つのことだけだった。
それは再び、この右腕でプロ野球界に殴り込みを掛けられるかもしれないという、
圧倒的な歓喜だった。
1969年11月7日。
「死神」と呼ばれた男が、歴史を破壊するためにマウンドへ戻ってきた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
※以下近況ノートへのLinkです。
小説と合わせてお楽しみ頂けますと幸いです。
https://kakuyomu.jp/users/Koji_Townsend/news
※以下はこの小説の表紙が掲載されている近況ノートへのLinkです。
https://kakuyomu.jp/users/Koji_Townsend/news/822139842579298516
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます