とある(福祉)事業所M  新刊 4

あらいぐまさん

第1話  統計と私

    第一章  統計             

 ■序章

 精神障害者は全国で563万人以上いるという。国の統計によれば、その数は今後も増え続ける見込みだ。

 日本の人口が約1億2千万人とすれば、20人に1人が精神障害を抱えている計算になる。決して少ない数ではない。

 統計はただの数字だが、その一つひとつに、学の様な生きづらさと日々の葛藤がある。


 ■学の欠点

 学がこの世界に執着するのは、身体的障害もさることながら、精神障害から生じる「指示の喪失」――つまり、言われたことが頭から抜け落ちてしまうこと――があまりにも多いからだ。これでは社会で通用しない。


 ■良い所

 では、良いところはどこだろう。例えば仕事と創作――この二つの営みは、まるで異なる脳を使っているかのようだ。両輪が上手くかみ合っている。

 作品を読んだ人は「頭が良い」と思うかもしれない。しかし学自身は、実際にはやっと作業についていける程度である。


 だが、そこには救いもある。弱者と呼ばれる人々に、希望となる「越後の魂」の種を植え付けているのだ。簡単にできるわけではないが、確かに芽は息づいている。


 ■越後の魂

 学が「越後の魂」と呼ぶものは、派手な理念ではなかった。

 雪深い土地で、人々が互いに声を掛け合い、黙って手を貸し、春を待ちながら生き延びてきた、その静かな気質のようなものだった。

 弱さを抱えた者が弱さのまま立っていられるように、そっと支える力。


 それは学自身が、長い時間をかけて受け取ってきた火種でもあった。

 彼が誰かに挨拶を教え、声をかけ、連帯を願うとき、その小さな火はかすかに揺れながらも、確かに灯り続けていた。


 ■ああ、朱莉さん

 やがて事務所の体制が整うにつれ、支援員との関係も少しずつ打ち解けていった。支援員の朱莉さんはいつも言う。

 「世の中は厳し〜いの。ここにいた方がいいわよ」

 その言葉は、優しさと警告の入り混じった響きを持っていた。


 ■落ちる雰囲気

 新入りが入ってきて、雰囲気が一段落ちると、学は最近、「おはようございます」の次に「体調どうですか?」と声をかけるようになった。

 実際に聞いてみると、「良いよ」と答える人もいれば、「普通です」と淡々と返す人もいる。


 この声掛けをコトゲにも手伝ってもらいたいと考えた。朝の送迎で人が集まるタイミングを見計らい、学はコトゲに声をかけた。

 「コトゲさん、みんなに『おはようございます』って言ったあとに『体調どうですか?』って聞いてみてほしいんだ」

 「はい」

 コトゲは、何か嬉しそうに頷いた。


 その後、コトゲは学の言いつけを守り、周りの人たちに声をかけて回った。答えない人もいたが、多くは彼に返事をした。

 学はコトゲを呼んで尋ねた。

 「どうだった?」

 「ん〜へへっ」


 照れ笑いしながらも、視線はどこか下を向いている。その様子から、うまくいかなかった場面もあったのだと察した。

 「誰が答えてくれたの?」

 コトゲは5、6人の名前を挙げた。

 「良くやった」

 その瞬間、コトゲの顔がふっとほころんだ。学の胸にも、小さな灯がともる様だった。

 本当は毎日続けてほしかったが、ひとまず学が頼みたい時にお願いする形にした。


 ■新しい人

 学は、最近入った男性利用者のゴンとミックに「5つの挨拶」を教えることにした。しかし、支援員が新しい取り組みを始めたため、学は午前中、人の気配が薄く寒い作業室へ行くように言われ、新入りと話す時間がなかなか取れなかった。


 ある日のお昼、食後の休憩時間に、学はゴンとミックを捕まえて説明を始めた。

 「ゴンさん、ミックさん、少しだけ時間いい?」

 「?」

 「ちょっと話したいことがあってね」

 ゴンは屈託のない顔で笑った。

 「いいよ」


 「ここでは、5つの挨拶を覚えると良いんだよ」

 「なに? その挨拶って……」

 ゴンは何かを期待しているようだった。きっと今まで、誰にも相手にされない時間を重ねてきたのだろう。


 「まず、理解したら『はい』。お願いするときは『お願いします』。何かしてもらったら『ありがとう』。ここまでは大丈夫?」

 「それで、あと二つは?」


 「ミスしたら『すみません』。ダメ出しされても、ぐっと堪えるんだ」

 「うん、うん。最後は?」


 「最後は、連帯のために『お疲れ様』って言うんだ」

 「へぇー」

 ゴンは興味深そうに聞いていたが、ミックは無視に近かった。

 ミックは、こちらを見ているようで見ていない。後で聞いた話では、ミックは、昔から返事をしないことが多いらしい。


 学は、彼らの小さな変化を見守りながら、自分自身もまた変わりつつあることに気づいていた。

 数字では測れない弱さと希望が、学の中で静かに芽を出し始めていた。

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