陽成院妖物事

宝井星居

陽成院妖物事(やうぜいゐんのばけもののこと)・前

 


 今は昔、陽成天皇が帝の位を降りられた後の御所は、

 内裏の北、西洞院通と油小路の間にあって、

 そこは妖物ばけものの住むところであった。




 院(陽成上皇)は新年の宴から邸に帰る途上みちにあった。

 お乗りになるのは葦毛の駿馬であって、無類の馬好きの院であるから、それは立派な体躯に馬具も美事な造りのもの。

 祝い膳で白酒を過ごしてしまったが、酒につよいたちなのでむしろ宵の風が心地よく感じるほど。(注一


 しかし共連れの顔はどれもこれも優れない、邸も近いのにびくびくと覇気の色がない。


 その理由わけを院は知っている。だからこそ武官にも負けぬ真剣の太刀のこしらえだ。帝の位を降りる前から、馬の次に剣に愛着をおぼえる院であるからして。


 新年の風はますます冷たく、宵闇は濃くなりまさる。とはいえ邸まではもうあとわずか、というところで――


 ヒュルュィィっと甲高い音がして、四辻に一際つよい風が巻き起こった。


「痛ッ」


 突風が孕んだ砂塵が目に入ったのは、松明をかざす先鋒の侍従だけではなかった。

 近侍どもは突然の刃向かうような風の仕業に周章狼狽する。

 院も狩衣の袖で目を覆った。

 しかも怪しいほど、それはなまぬるい。

 まるで初春にわきおこる旋風つむじかぜのようだ。


 そして――


 風が熄んだとき、もっと激しく一同をおどかし慌てふためかせるものが、ついさっきまで松明にもその宵の月にも映し出されなかったのに、忽然と陽成院一行の前に現れいでた。


 ふわりとした白い水干のような衣を羽織り、袴は漆黒、足先をくるみこむ沓を履いている。

 もっとも面妖なのはその髪形かみかたちだ。赤っぽい蓬髪は天に向かって立ち上がっている。色の白い、むしろ整った風貌の持ち主で、その唇は美女と見ちがえる深紅色に染められて……


 細身で丈の高いその男は、細くて短い笛に似たものを咥えており、おそらく最前の面妖な音は風音でなく、笛の音色だろうと院は確信した。その小笛を蓬髪の男は手にとると、やおら真紅あかい口から煙を噴きだしたのだ❗️


「ば、ばけもの……」先鋒の若い、けれど勇猛なる近習がうめき声をあげる。

「とうとう、でた」


 その恐怖心が他の公達や侍者、警護の武官に伝染うつったのだ。


「火を吐く化け物ぞ!」


「おに、羅城門の鬼や!」


「油小路に鬼が出たあ」


「食われるぅ…」


 人々の恐慌パニックを暴発させる一点ポイントはだいたい決まっている。


「逃げろ!」


 食われる前に殺される前に、ここからどこかへ、どこでもいいから!


 なにはともあれ、食われたくなかったら……この場を

 逃げだせ‼️



 公達のひとりが来た道に馬の首を向けあぶみを蹴ったのが合図になった。

 馬の者は馬を駆り、徒歩かちの者は自前の足を駆って。

 蜘蛛の子をちらすようにたちまちその場を逃げ出した。

 本来なら命を賭して護らねばならない、やんごとなき院を置き去りにして。


 陽成院は皆が逃げさってしまっても、その場にとどまり動かずにいた。

 怪しい風、怪しい出現の仕方、血を吸ったような口から吐き出す怪しい紫煙……。

 人非ざる者と断じても良いだろう。

 だからと人を食う鬼なのか、おそろしい仇をなす者だろうか?

 院は馬が好きだ。厩に泊まったことも、出産を初めから終わりまで見たこともある。馬に人間のような賢さ、臆病さがあることもよく知っていた。


 ――馬が少しも怖がっていない。

 馬は厩で餌をもらう時のように好奇心に輝く目と耳とを"鬼"に向けている。

 つまり馬に害をなす者ではない、ということだ。


 また陽成院は考えた。

 ――矢を射かけ、あやつの出方を見る手もあるにはあるが。

 鏑矢を入れた矢筒を捧げもたせた侍童も逃げ去ってしまった。

 稚い頃より多少の武術をたしなむ院でも弓矢が無ければ威嚇しようがない。


 ――鬼かもしれぬ、あの者をどうしてやろうか?


 思案に暮れていたところに――

 思いもよらなかった。

 蓬髪を逆立てた、白衣びゃくえ玄袴くろばかまの人非ざる者は、馬に乗った院の方を向きすたすたと歩いてきて、言った。


「こんばんは、こちらは京都市内と推察しますが。当代の元首あーミカドのお名前を教えてくださいますか? お差し支えなければ、あなた様の中央集権国家ちょうていでの立場か身分を、だいたいのところでよいので。もし、差し支えなければ……」


 へりくだっているが、参内できぬ下人ゆえ言葉が不自由なのだろうか? 奇妙な言い回しだが意味は大体わかった。陽成院は珍奇のものを否定しないたちだ。


「御所の方角がわからぬのか? 今上の名を知らぬとは……蓬莱山に篭っていた行者なのか」そうは思えなかったが、ありきたりの問いを院は口にしていた。唐か隋の代より伝わる神仙の物語をふと思いついて。 


 対手あいてはにっこりした。蓬髪と口が紅すぎることに目をつぶれば「青海波」を奉ずる貴公子に混じっていても不思議はない、整った実に品のある顔立ちである。


 怪しの公子は柔和な表情のまま、こう言った。


「見ず知らずのお人にいきなり時代や座標、身分まで訊くなんて不躾でした。まず自己紹介するのが礼儀でしたね? 私は西暦にして2006年の、普段は東京という都市の渋谷という区画に住んでいます。職業は心療内科……まあ医者ですね。名前はゆう、天川游と……」


 と言いかけたところで、ふたたび季節はずれの南風が吹いてきて、"ゆう"と名乗る医師くすしの髪を根本からかき乱した。その額に二本の白く尖った"鬼のあかし"をみいだした陽成院は、奇妙な安堵さえおぼえた。


 1200年もの未来からやってきたという怪異譚よたばなしより、「やはり羅城門の鬼だった」ほうが腹黒い伯父によって廃帝とされた人物には優しい物語であったのだ。

 

 



(注一 : 平安時代の地球、「中世温暖期」だったらしい、京の都の底冷えって何?

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