大都会の無人島
FLYFLAT
第1話
スマホのアラームだけが、暗い部屋の真ん中で鳴っていた。
布団の中から片手だけ伸ばして画面をスワイプすると、音はあっさり消える。静けさが戻る。天井を見たまま、しばらく動かない。
カーテンのすき間から、細い光の帯が一本だけ伸びている。外を走る車の音は、まだ少ない。たまに一台だけ、遠くから近づいてきては通り過ぎる。そのたびに、アスファルトの上を小さな波が滑っていくような音がする。
息を一つ吐いて、身体を起こす。
六畳のワンルームの全体が、いっぺんに視界に入る。右半分がキッチンで、その奥にユニットバスとトイレ。仕切りのドアは、昨日から開けっぱなし。床には脱ぎ捨てたズボンとシャツ。シンクには、夜に使った皿とフライパン。折りたたみテーブルの上には、コンビニのレシートと、飲みかけのペットボトル。
どこにも、誰かが来る予定の気配はない。
トイレのドアは閉めない。
閉めようと思えば閉められるけど、その手間をかける理由が見当たらない。ここにいるのは、ぼくだけだ。水の流れる音が、やけに大きく響いて聞こえる。
洗面台で顔を洗う。冷たい水をすくって頬に当てると、一瞬だけ頭がはっきりする。顔を上げると、鏡の中に、寝癖で跳ねた自分の髪と、伸びた前髪がかかりはじめた目がある。
前より伸びたな、と思う。そこから先には、考えが進まない。「切りに行こう」とか「整えよう」とかいう発想まで辿りつかない。「まあ、いっか」で終わる。
鏡の中の自分と目を合わせる前に、タオルで顔を拭く。
冷蔵庫を開けると、見慣れた並びが待っている。
卵がいくつか。安い豆腐。小さくなったキャベツ。特売のソーセージ。半分だけ残っているマヨネーズ。下の段には紙パックの麦茶。
頭の中で素早く組み合わせを試して、白いごはんと目玉焼きに決める。炊飯器のふたを開けると、昨日の残りのごはんが少しだけ。そのまま茶碗に移してラップをかけ、レンジに入れる。
フライパンに油をひいて火をつけると、ジュッと音がして、ようやく「朝が始まった」感じがする。
卵を落とす。白身がじわじわ固まり、黄身の縁がうっすら白くなっていく。フライパンの上で変化していく卵を、ぼくは黙って見ている。料理と呼べるほどのものじゃないのに、火を使って何かを少しだけ変えていることだけは、実感がある。
レンジの「チン」という音が、決まったタイミングで割り込んでくる。茶碗を取り出してテーブルに置き、目玉焼きを皿に滑らせ、ついでにソーセージを二本だけ転がす。味噌汁を作る元気はなくて、麦茶をコップに入れて終わり。
「いただきます」と、声に出さずに口だけ動かして、箸を取る。
一口食べる。温かいことは分かる。噛めばちゃんと崩れて、飲み込める硬さだ。でも、それが「おいしい」のかどうかは、よく分からない。
机の隅に置きっぱなしの塩を少しかける。しょっぱいのか、ちょうどいいのか、自分の舌だけでは判断がつかない。
その昔実家で、親の手伝いで味見をしたとき、「もうちょっと塩足して」と言われた場面を、うっすら思い出す。その記憶が、今の一口の基準になるほど鮮明でもない。
結局よく分からないまま、黙々と口を動かす。気づけば皿は空になっていて、茶碗の底が見えている。洗うかどうか、一秒だけ迷って、「帰ってからでいいや」で終わり。空の食器を、昨夜の皿の上にそっと重ねる。
クローゼットから、バイト用の黒いズボンと無地のTシャツを引っ張り出す。その上にコンビニの制服を着る予定だ。半分開いたままのクローゼットの隙間から、ぐちゃっとした服の山が見える。
靴下が片方だけ床に落ちている。コンセントには充電器が刺さりっぱなし。どこもかしこも、「途中で止まっている」みたいな部屋。
スマホをポケットに、鍵を手に取る。
玄関のドアを閉める前に、一度だけ振り返る。カーテン越しの薄い光、テーブルの上のレシート、積み重なった食器。そこにあるのは、確かにぼくの生活の痕跡なのに、急に、別の誰かのものみたいに見える。
ドアを閉めて、鍵を回す。カチリという音が、やけに大きく聞こえる。
マンションの廊下は、蛍光灯の白い光で均一に照らされている。どこかの部屋の換気扇の音が、かすかに続いている。誰かがドアを閉めたような音もするけれど、その「誰か」の顔は浮かばない。
エレベーターの鏡に映る、自分の寝癖を手ぐしで誤魔化す。ここでこの顔を見たことを、他の住人の誰かが覚えている可能性は、ほとんどない。
代わりに覚えているのは、たぶんこのエレベーターの天井にある小さなカメラだ。
そのカメラのレンズが、毎朝のぼくを何秒かずつ記録している。
外に出ると、冷たい空気が一気にまとわりついてくる。見上げれば、四角い窓を積み重ねたビルが、木の幹みたいに空に向かって伸びている。枝のない木ばかりの森。
道路には、さっきより車が増えている。信号が青になると、一斉に流れ出して、赤になると揃って止まる。その繰り返しを眺めていると、ずっと昔に見た海辺の記憶が、勝手に重なってくる。
最後にちゃんと海を見たのがいつかは、思い出せない。
イヤホンを耳に差し、適当に作ったプレイリストを再生する。特別好きでも嫌いでもない曲が流れ出す。歌詞もメロディも、頭には残らない。ただ、外の音を少し薄めてくれればそれでいい。
駅へ向かうスーツの群れと、コンビニに向かうぼくのルートは、途中まで一緒だ。信号待ちで集まった人たちが、青に変わった瞬間、一斉に動き出す。
黒や紺のコートの塊の中で、ぼくも一応、一人分の「人」として歩いているはずなのに、少し離れたところから見たら、ただ何かがまとまって移動しているだけに見えるだろう。
テレビのドキュメンタリーで、地面の上を一斉に移動する虫の映像を見たことがある。あの一匹一匹にも名前があるのかもしれない。でも、その名前を呼ぶ人がどれくらいいるのか、よく分からない。
コンビニの看板が見えてくる。白と緑と、他の色。朝の光の中でもそこだけが必要以上に明るく、輪郭を強調している。人工の灯台みたいだ。
店の裏手からバックヤードに入る。薄暗い空気と、油と洗剤の混ざった匂い。狭い部屋の天井にも、小さなカメラが一つ付いている。
ロッカーから制服を出して、無地のTシャツの上に羽織る。胸の名札には、ぼくの苗字が印刷されている。自分の名前を、ここで声に出して呼ぶ人はほとんどいない。
壁に貼られたシフト表で、自分の行を目でなぞる。今日の出勤時間と退勤時間。その横には、小さな数字で社員番号が印字されている。
紙の上では、ぼくはこの時間、この場所に「いる」ことになっている。
タイムカードを機械に差し込む。カチッという音と一緒に、カードの端に黒い数字が増える。何月何日、何時何分。機械は今日も、ぼくがここに来たことだけを、正確に覚えてくれる。
店長が奥から出てきて、軽く会釈を交わす。
「おはようございます」
「おはよう」
互いの名前は知っているのに、ここではあまり呼び合わない。呼ばなくてもシフト表と名札と勤怠システムが、十分に仕事をしてくれるからだ。
売り場に出ると、店内BGMが少し大きく聞こえる。揚げ物のケースから漂う油の匂い。整列したパン。冷蔵ケースに並ぶ飲み物とデザート。その前には、新商品のPOPが差してある。
レジに立って外を見ると、ガラスの向こうに高層ビルの壁と、通り過ぎる車の列が見える。外の光は空気で少し柔らかくなっているのに、店内の光はまっすぐで、逃げ場がない。
最初の客はスーツ姿の男性だ。ネクタイをきっちり締めて、目の下に薄くクマがあるように見える。昨日からの疲れなのか、もっと前からのものなのかは分からない。
缶コーヒーとパンが、カウンターに置かれる。
「お預かりします」
ほとんど身体が勝手に喋る。バーコードリーダーのピッ、ピッという音と、BGMが頭の奥で混ざる。男性は決済端末にタッチして、レシートを受け取り、ほとんど顔を上げずに店を出ていく。
次の客も、その次の客も、似たような組み合わせだ。パンとコーヒー。おにぎりとお茶。黒や紺のコート。
「温めますか」
「袋お分けしますか」
「ポイントカード、お持ちですか」
決まった言葉を、決まった位置で差し込む。
客も決まったように、
「大丈夫です」
「お願いします」
と返す。
声の高さや速さの違いで、その人の機嫌をなんとなく想像してみるけれど、想像したところで何かが変わるわけでもないから、すぐに忘れる。
やがて、列の後ろのほうに、小さな影が混ざる。
子どもだ。
小さなリュックを背負って、大人のコートの裾を片手でつかんでいる。もう片方の手には、カラフルなお菓子の袋。大人はスーツ姿で、もう片手にコーヒーカップとパンを持っている。さっきのスーツたちと、服だけ見れば同じだ。
二人の番が来て、パンとコーヒーとお菓子がカウンターに並ぶ。
「いらっしゃいませ」
いつも通り言って、バーコードを読み取る。コーヒーのカップから、少しだけ湯気が上がる。大人はスマホの画面を見たまま、カードを出す。
子どもは、カウンターの端に手をかけて、背伸びするようにしてこちらを見る。目が合う。丸い目が、ぼくを映している。
何か言おうとしたのか、子どもの口が小さく動いた。でも、その声はBGMと外の車の音と、他の客の足音に混ざって、ぼくの耳まで届かない。
代わりに、「○○ペイで」という大人の声だけが、はっきり聞こえる。
「かしこまりました」
決済端末の画面を示す。子どもはもう視線を外して、レジ横のガムの棚を眺めている。支払いが終わる頃には、二人はもう出口のほうに向かっている。
レジの前に、短い空白が落ちる。
人の声が途切れると、店内BGMだけが急に近くに寄ってきたように感じる。その数十秒の静けさも、防犯カメラの映像の中では、黙って記録されているのだろう。
少しすると、作業着姿の人たちの波が来る。工具を腰からぶら下げたままエナジードリンクを二本持ってくる人。おにぎりを片手で三つ掴んで持ってくる人。昼休み前の、身体を使う仕事の時間帯。
それも過ぎると、また静かになる。
客のいない時間、揚げ物のケースの中だけが、保温のライトで明るい。冷蔵庫のモーター音が一定のリズムで続き、コピー機のパネルが誰も触れていないのに薄く光っている。
レジ前に立ったまま、ぼくは何もしていない自分の手を見る。さっきまで小銭や商品を受け取っていた手。今は空っぽだ。何もしていないのに、その場を離れるのは少し落ち着かなくて、店内を見回す。
出入口のガラス越しに、信号待ちで止まる車の列が見える。青に変わると動き、赤で止まる。高層ビルの壁に反射した光が、道路の上を薄く滑っていく。
店長の声がバックヤードから飛ぶ。
「裏の棚、在庫見といて」
「はい」
レジを同僚に任せて、細い通路の棚へ向かう。
段ボールに印刷された商品名とバーコードと賞味期限。鉛筆で在庫表に数字を書き込む。一本足りない、一本多い。消して書き直す。その行に並ぶ数字だけが、「ぼくがいまここにいた」証拠みたいに残る。
レジの呼び出しベルが鳴って、在庫表をクリップで留めて棚に戻し、売り場へ戻る。
昼の波、年配のお客さん、小銭を落として床に散らばる硬貨。手の甲が一瞬触れそうになる距離で、一緒に拾い集める。さっきの子どもの手とは質感の違う、少し冷たい皮膚。感触はすぐに薄れて、指先に残るのは硬貨の冷たさだけ。
昼の混雑が落ち着いた頃、休憩に入るよう店長に言われる。
エプロンを外し、バックヤード奥の小さな休憩スペースへ。パイプ椅子と丸いテーブルと、古い冷蔵庫と電子レンジ。壁にはシフト表のコピーと、従業員向けのお知らせ。
ロッカーからスマホを取り出して画面をつける。通知はほとんどついていない。SNSアプリを開くと、誰かの結婚式、旅行、飲み会、誕生日ケーキ。知っているはずの名前と、知らない場所。最後にその人と話したのがいつか、すぐには思い出せない。
メッセージアプリを開けば、上のほうに仕事用と家族のグループ。その下に、「東京どう?」で止まっているトークルームがいくつか。どっちが返事をしていないのか、履歴を読み返さないと分からない。
そのとき、スマホが震える。
着信画面に表示された番号を見て、胸の奥が少しだけ縮む。「あの番号」だと、すぐ分かる。
親指が受話ボタンの上まで移動して止まる。ここで「もしもし」と言えば、休憩室の空気が、別の町の空気とつながる。
「ちゃんとやってるよ」と言うのか。「まあ、ぼちぼち」と濁すのか。「特に変わりない」と流すのか。どれも間違いではないけれど、「本当」かどうかもよく分からない。
悩んでいるあいだに、呼び出し音は三回、四回と続き、やがて途切れる。画面には「不在着信」の文字と、数字だけが残る。何月何日、何時何分。「出なかったこと」まで、スマホはきっちり記録してくれる。
スマホを裏返しにしてテーブルに置くと、休憩室が少し暗くなった気がする。冷蔵庫のモーター音と、壁の向こうの「いらっしゃいませ」が、薄く重なって聞こえる。
備え付けのインスタントコーヒーを紙コップに入れてお湯を注ぐ。立ちのぼる湯気を眺めながら、さっきの着信のことを考えようとして、途中でやめる。
「あとでかけ直せばいいや」と心の中で言う。たぶん、かけ直さない。その予感も一緒に、コーヒーと冷めていく。
休憩時間が終わり、スマホをポケットに戻し、またエプロンをつける。同じパイプ椅子には、次の誰かが座って、同じようにスマホを見て、同じようにため息をつくのだろう。
午後のレジは、昼とは少し違う表情の人たちで埋まる。ランチを選ぶ会社員、買い物かごをゆっくり持つ年配の人、幼稚園帰りのような服装の人。「この人はどこへ戻っていくんだろう」と一瞬考えては、レジに戻る。
夕方が近づくと、光の色がオレンジを混ぜ始める。弁当とビールの組み合わせ、ブラックコーヒーから缶チューハイへのスイッチ。昼にも来たような気がする顔が、またレジ前に現れる。
少し忙しくなったタイミングで、ぼくは釣り銭を数え間違えかける。硬貨を多く渡しそうになって、自分で気づいて手を止める。
「すみません」
後ろに並ぶ人たちの空気が、わずかに重くなる。ため息になる前の、我慢の気配。隣のレジの同僚が、「お待ちの方、こちらどうぞ」と明るい声で呼びかけて、列の一部を引き受ける。
数分後、列はいつもの長さに戻る。さっきのミスは、誰の記憶にもはっきり残らないかもしれない。ただ、レジのログには、一瞬だけ止まった時間として刻まれている。
時計を見ると、そろそろシフトが終わる時間だ。
最後の波が過ぎて、レジ前が空になったところで、交代のバイトが入ってくる。「おつかれさまです」と小さく挨拶を交わす。
タイムカードを機械に差し込む。カチッという音とともに、退勤時間が印字される。その一行で、今日の「ここにいた時間」が証明される。
制服を脱いでロッカーにしまい、朝と同じTシャツとズボンに戻る。スマホと鍵をポケットに入れ、従業員用の出口から外に出る。
外はすっかり暗い。
昼間見上げたビルの窓には、違う種類の光が灯っている。オフィスの白い光、マンションの黄色い光、テレビの明かり。コンビニのガラス越しには、さっきまで自分が立っていたレジカウンターと、今そこで「いらっしゃいませ」と言っている別の誰かの姿。
道路には、昼より多くの車が流れている。ヘッドライトの列が、一定のリズムでぼくの横を通り過ぎていく。さざ波みたいに、終わる気配がない。
家までの道を歩く。行きと同じ道。高層ビルの幹の間を抜ける。車の音を、今度はガラスなしで直接聞く。
信号待ちで立ち止まる。向こう側から集まってきた人たちが、青に変わるのをじっと待っている。スマホを見ている人、誰かと話している人、イヤホンをつけている人。そのうちの一人として、ぼくも横断歩道の端に立つ。
青になり、一斉に歩き出す。すれ違う肩、かすかに腕に当たる紙袋。振り返るほどでもない、ほんの一瞬の接触。
今日一日で、誰かに触れた回数は、きっと片手で数えられる。
マンションに着き、エントランスのガラスに映った自分の姿を横目で見る。コンビニ帰りの誰かと、自分の輪郭が重なる。
エレベーターで自分の階に上がり、廊下を歩く。どこかの部屋からテレビの笑い声、別の部屋からシャワーの音。閉じたドアの向こうにいる人たちの顔は知らない。
鍵を開けて部屋に入る。
朝とほとんど変わらない六畳がそこにある。床の服の位置が少しずれているのは、出るときに自分が蹴ったせいだろう。シンクの中の食器は、朝より少しだけ増えている。
靴を脱ぎ、鍵とスマホをテーブルに置く。スマホの画面には、昼休みに見たタイムラインの名残が、暗い状態で止まっている。
トイレに行きたくなって、ドアの前まで歩く。
やっぱり、ドアは閉めない。
ここに誰かが急に入ってくる可能性を、真剣に想像できない。「閉めなくてもいいや」という判断に、自分で少し笑ってしまう。笑っている顔を誰かに見られることもない。
シャワーを浴びながら、今日の一日をざっくり頭の中で巻き戻す。目玉焼き、タイムカード、スーツ、子ども、小銭、着信、うどん。
ニュースになるような出来事は一つもない。ただ、小さな断片がいくつか浮かんでは沈んでいく。
部屋着に着替えて、冷凍うどんを鍋に放り込む。キャベツを少し切って一緒に煮る。だしの素を目分量で入れて、湯気と一緒に立ちのぼる匂いをぼんやり眺める。
丼に移して、一口すする。熱さと、なんとなくの味。薄いのか、ちょうどいいのか分からない。「塩足そうかな」と一瞬思って、そのまま食べることにする。
この丼の中身を知っているのは、世界中でぼく一人だけだ。
食べ終えた丼を、シンクの皿の山に重ねる。スポンジを手に取るか一瞬迷って、「明日でいいや」と思う。明日のぼくに押しつける。明日になったぼくは、たぶん今日と同じことを考える。
部屋の明かりを少し落として、布団の上にごろりと横になり、スマホを手に取る。タイムラインには、さっきとは違う誰かの今日が積み重なっている。
画面以外の光は、カーテンの隙間から差し込む街灯と、遠くのビルの窓の光だけ。車の音は、昼間より低く、途切れずに続いている。暗い海岸に打ち寄せる波みたいに。
スマホを胸のあたりに置いて、目を閉じる。
「今日、何があったっけ」と考えてみる。
目玉焼き。スーツ。子ども。小銭。着信。うどん。単語だけが順不同で浮かぶ。昨日のことを思い出そうとすると、ほとんど同じ単語が並ぶ。
昨日と今日の差分をうまく説明できない。たぶん明日も、今日とあまり変わらない単語が、同じあたりに浮かぶのだろう。
高層ビルの森のどこかの片隅で、無人島みたいな部屋に戻ってきて、誰とも話さずに終わる一日。
その一日を、アラームとタイムカードと防犯カメラとスマホのログだけが、ちゃんと覚えている。
車の音が遠くで一定のリズムを刻み続ける。その波を聞きながら、ぼくの意識は、岸から少しずつ離れていくみたいに、静かに沈んでいった。
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