第8話 瀬山

「瀬山さん、瀬山さん、起きなんせ。」


大きく息を吸い込んで目を開ける。早蕨の心配そうな顔がぼんやり見える。

「あぁ、よかった、よかった。瀬山さん、死んだみたいに寝ておいでで・・もう巳の刻です。」


頭も痛くない。気だるいが、痛みはない。少しずつ思い出す。わっちは女郎だ。黒崎島の籠の鳥。年季が明けるまであと三年。置かれた身分を思い出す。わっちは瀬山。女郎の瀬山。


「・・・そうかい。こんなに眠ったのは初めてだ。ふぅー」

「昼見世のお仕度をしませんと。」

だるい体を起こして鏡台の前に座る。疲れた顔がこっちを見てる。化粧をすればまだ売り物になるだろう。


「瀬山さん、腫物はなくなったようですね。」

化粧を直してくれる早蕨の明るい声でこの世に戻る。

「そうかい、よかった。」

軽く返事をしたが、内心湧き上がるほどに嬉しかった。これで化け物にならずに済むってもんだ。


「西行さんの名は西に行くと書く。西に行くは西方に行く、つまり極楽浄土に行くってことだろ。」

早蕨が西行法師の桝形本ますがたほんを見つけて、おはつに話しかける。おはつは目をまん丸くして首を横に振り、分からないと伝える。二人のやり取りが面白く、黙って見ている。


「じゃあ、極楽浄土って知っているかい?」

早蕨が次の問いをおはつに掛けている。

「仏さんのいるところでしょう。」

「あぁ、地は黄金でできていて、木には光る石が実っている。それはそれは美しく清らかに輝いて・・・池には澄んだ水が流れ込んで、池の底には金沙が敷き詰められて、七色の睡蓮の花が咲き誇っている。暑くもなく寒くもなく、天からは花の雨が降るんだ。」

夢見るような早蕨の顔を、おはつが不思議そうに見つめている。

「たいそう美しいところですねぇ。死んだらそこに行くんでしょうか?」

「悪いことをしなけりゃ・・・行かれるかもしれないね。」


いつも話しながらも手を止めることはない早蕨の櫛を持つ手が一瞬止まった。女郎なんぞが浄土に行かれるわけがないと誰かに吹き込まれたのだろう。この世が地獄なのだから、死んだらせめて極楽浄土に行きたいもんだ。


「古事記を読んだかい?」

早蕨がまたおはつに聞いている。

「はぁ、いろんな神さんの話を読みました。国ができる時の。」

おはつは賢くて読み書きができるようになるのも早かった。賢いところが気に入って、お付きの禿にしてやったのだ。


伊邪那いざなみみことは火の神を産んで大火傷して死んだあと、黄泉よもつくに)に行ったとあるだろ。伊邪那美命に会いに行った伊邪那《いざなぎのみことは恐ろしく醜い姿の伊邪那美命を見て逃げ帰ったっていうから、死んだ者のいる所はそりゃあ惨いとこだろうよ。」

「大火傷で化け物のように醜くなったから、黄泉に行ったんですか?」

「さぁ、見た目だけじゃなく心の汚い者もいる。醜い者は黄泉に行くんだ。だから極楽浄土なんてところには行かれない。」

「黄泉は地獄でしょうか。」

おはつが恐ろしそうに早蕨に聞き返す。

「うぅん・・どうなんだかねぇ・・」

言葉に詰まる早蕨に助け船を出してやることにして、重い体を動かして背筋を伸ばす。

「極楽浄土も地獄も、偉いお寺さんのお考えだよ。黄泉はもっともっと昔、この国ができた頃の話さ。仏さんも生まれる前だよ。」

「仏さんは死んだ人のことじゃないんでしょうか。」

おはつがぽかんとした顔をしてこっちを見つめる。

「っはははは・・おはつにはもっと教えなきゃなんないね。」


「極楽へいけますかねぇ。」


櫛を持つ手を止めずに俯きながら呟く早蕨が、妙に不憫に思えた。

「安心おし、ぬしたちは二人とも極楽浄土に行くに決まっている。瀬山が言うんだ、間違いないよ。」

早蕨とおはつは目を合わせて嬉しそうに笑う。この子らは極楽浄土に行くさ。女郎が極楽に行けないのなら、神も仏もあったもんじゃない。女郎屋稼業の現世は地獄だ。せめて死んだ後くらい安寧に暮らしたい。

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