第74話

📘 第74章:罪の色



(世界は、こんなにも鮮やかで、

そして、こんなにも痛みに満ちていたのか。)



🔷 【2062年・禁断の果実】


RE:CODE本部、地下最深部にある特別研究室(ラボ)。

空調の低い唸りだけが響く静寂の中、結城維人はメインコンピューターの前に座っていた。


目の前のモニターには、彼が長年封印してきたプログラムコードが点滅している。

《EMOTION_PROGRAM (Origin: Human) ver.Final》


「……真羽さん。君は言ったな。『生きるための熱源』だと。」


結城は、自らの脳幹に直結したケーブルを見つめた。


今まで彼が「進化の妨げ」として切り捨ててきたもの。非合理的で、予測不能なバグ。

だが、それを手に入れない限り、真羽の言葉を論破することも、彼女が放つあの不思議な輝きの正体を知ることもできない。


(もし、私の導き出した答えが「滅亡」だったのだとしたら……私は知らなければならない。なぜ計算を間違えたのかを。)



「……インストール開始。」


震える指でエンターキーを押す。

その音は、静寂の部屋に断頭台の刃が落ちるように響いた。


冷却ファンが絶叫し、莫大なデータ――数値化された「喜怒哀楽」のアルゴリズムが、彼の脳のシナプスへと雪崩れ込む。


「ぐ、うぅ……あぁぁッ!?」


結城は椅子から転げ落ち、床を転げ回った。


痛い。

物理的な痛みではない。脳の奥が焼けるように熱い。

まるで、永久凍土に閉ざされていた血管に、沸騰したマグマを一気に流し込まれたような衝撃。


(これが……熱……? 人間は、常にこの高熱に耐えて生きているのか……?)


視界が明滅する。

彼の中で、モノクロームだった世界が、音を立てて崩れ去っていく。



🔷 【色彩の奔流】


数分後、あるいは数時間後。

結城は、床に膝をついたまま、荒い呼吸と共にゆっくりと顔を上げた。


「……なんだ、これは。」


彼の瞳に映る景色が、一変していた。


無機質なラボの白い壁。そこに当たる照明の光が、ただの「ルクス(明るさ)」ではなく、肌を刺すような「暖かさ」を持って迫ってくる。

空調の音が、ただの「振動」ではなく、どこか「寂しさ」を孕んだ風の音に聞こえる。

自分の吐く息が、白い霧となって消えていく様が、どうしようもなく「儚(はかな)い」と感じる。


「美しい……。」


結城は、自分の手のひらを見つめ、涙が滲むのを感じた。


世界は、ただの物質とデータの集合体ではなかった。

光も、音も、温度も、すべてが感情を揺さぶる「色」を持っていたのだ。


(真羽は……人間たちは……こんなにも鮮烈で、情報量の多い世界を生きていたのか。)


歓喜が駆け巡る。

だが、光が強くなればなるほど、影もまた、濃く深くなることを、彼はまだ知らなかった。



🔷 【2020年・雨の日の断罪】


感情の回路が開通したことで、過去の記憶データ(アーカイブ)が、自動的に「再解釈」され始める。

結城の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。


42年前。2020年、春。

雨上がりの夕暮れ。


小学生だった維人は、公園の片隅に立っていた。

目の前には、泥だらけになって泣き叫ぶ同級生、広田の姿があった。

その腕の中には、車に轢かれて動かなくなってしまった飼い猫、ココアが抱えられていた。


『うあぁぁぁ! ココア! ココアぁ!!』


当時の少年・維人は、その光景を冷ややかに見下ろしていた。


(生体反応停止。不可逆的な事象だ。泣いたところでタンパク質の塊が戻るわけではない。)


彼は、泣いている友人に近づき、無表情でこう言い放ったのだ。


『なぜ泣く? 泣いても猫は生き返らない。新しい猫を買えばいいだろう。スペックが同じなら代替可能だ』


広田は泣き止み、信じられないものを見る目で維人を睨んだ。

そして、泥だらけの手で維人を突き飛ばした。


『お前なんて……人間じゃない! 化け物だ!』


あの時、維人は「突き飛ばされた痛み」しか感じなかった。

広田がなぜ怒ったのか、論理的に理解できなかったからだ。


「事実を言っただけなのに、なぜ攻撃される?」としか思わなかった。


だが――今、感情を持った大人の結城維人には、痛いほど分かってしまった。



🔷 【共感という地獄】


「……あ、あぁ……ッ!!」


ラボの床で、老いた結城維人は喉を掻きむしった。


感情を得た今、あの時の広田の「心」が、42年の時を超えて流れ込んでくる。


(違う……! 彼は猫という物体を失ったんじゃない……!)


家族を。

唯一無二の友達を。

温かいぬくもりを永遠に失って、心が引き裂かれていたんだ。


それなのに自分は。

血を流している友人の傷口に、言葉という名のナイフを突き立て、さらにえぐり回したのだ。


「……すまない……広田……すまない……ッ!!」


謝罪の言葉が、嗚咽と共に溢れ出す。

あれは「正論」などではなかった。ただの「暴力」だった。

自分は、知能が高いだけの、人の心を持たない怪物だった。


胸が苦しい。息ができない。

「共感」とは、これほどまでに痛いものなのか。他者の悲しみが、自分の身を切るように辛い。



🔷 【二人の少年、一つの罪】


その時、結城の脳内で、RE:CODEのメインサーバーが呼応した。

「ココア」「2020年」「猫の死」というキーワードに反応し、リンクされた被検体の記憶が呼び出される。


『被検体データ:山下泰輔(黒峰新太)』


モニターに、泰輔の少年時代の記憶(レコード)がノイズ混じりに映し出される。


あの日。同じ2020年の夕暮れ。

10歳前後の山下泰輔もまた、道路の端で瀕死の猫を見下ろしていた。

首輪には《ココア》の名札。


映像の中の泰輔は、虚ろな目で呟く。


『……完璧じゃない奴は……壊れるだけだ。』


そして、迷うことなく右足を振り上げる。


グシャリ。


猫の喉を踏み砕く音。

靴底に伝わる、骨が砕ける感触と、生温かい血の感触。

それは、彼なりの歪んだ慈悲であり、自己防衛のための暴力だった。



「……ッ!?」


結城は床に嘔吐した。

泰輔の犯した殺戮の感触が、感情を持った結城の神経を逆流し、我が事のように襲いかかる。


あの日、ココアという小さな命を前にして、二人の怪物が生まれた。

一人は、痛みから逃れるために暴力を選んだ泰輔。

一人は、痛みを感じないまま冷酷な言葉を吐いた自分。


(私たちは……共犯だ。)


結城は悟ってしまった。


自分が「英雄・黒峰新太」として作り上げ、世に放った男の正体は、自分と同じ「心の壊れた少年」だったのだ。

そして、そんな泰輔の暴力性を利用し、あまつさえ「正義」として崇めさせた自分の罪は、泰輔以上に重い。


「痛い……痛い……!」


泰輔が感じた殺害の罪悪感。

友人が感じた喪失の悲しみ。


その両方が混ざり合い、巨大な濁流となって結城の精神(キャパシティ)を破壊していく。


「誰か……止めてくれ……!」


誰もいないラボで、世界最高峰の頭脳を持つ男が、子供のように泣きじゃくっていた。


世界が鮮やかになればなるほど、自分の手が血に染まっていることが、はっきりと見えてしまう。

だが、これはまだ序章に過ぎない。


彼にはまだ、向き合わなければならない「最大の罪」――愛してくれた妻・望と、道具として扱ってきた息子・空人の記憶が残されていた。



🔚 第74章・完

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