第53話

📘 第53章:白い嘘、黒い真実


(汚れのない白衣は、

時に、どんな闇よりも恐ろしい。)



🔷【深夜の琥珀】


地下室の時計の針が、午前2時を回っていた。


月陽はようやく興奮が冷め、紋之丞が用意した簡易ベッドで、小さな寝息を立てている。


灯(ともり)は、その寝顔をしばらく見つめた後、そっと毛布を掛け直した。


眠れない。


体が疲れているはずなのに、脳裏にはまだ、昼間の「眩しすぎる光景」が焼き付いていた。


ふらりとカウンターへ向かうと、闇の中で紫煙が揺れていた。


透也だ。


彼は灯の気配に気づくと、無言でボトルと新しいグラスを差し出した。


「……眠れないか。」


「ええ。……少しだけ。」

灯は隣に座り、琥珀色の液体を注がれるままに見つめた。


地下特有の、湿った空気とタバコの匂い。

それが今は、消毒液の匂いよりもずっと落ち着く。


🔷【観察者の告白】


「……聞いてもいいか。」


グラスの氷がカランと鳴った後、透也が静かに口を開いた。


「お前なら、もっと早く俺たちに接触できたはずだ。……なぜ、半年もあそこにいた?」


責める口調ではない。純粋な疑問だった。


灯は、グラスを両手で包み込むように持ち、しばらく沈黙した後、ぽつりと答えた。


「……見たかったんです。」


「見たかった?」


「ええ。……『RE:CODE』が作り出した世界を。そして、罪を忘れた人間が、本当に生まれ変われるのかどうかを。」


灯の脳裏に、この半年間の日々が蘇る。

記憶を消され、新しい人格を植え付けられた黒峰新太。

彼は、驚くほど「完璧」だった。


「新太さんは……本当に良い人でした。看護師である私を気遣い、沙耶さんを愛し、道ゆく子供に微笑みかける。……そこには、かつての『翔真』のような暴力性も、狂気も、微塵もありませんでした。」


灯の声がわずかに震える。

「私、怖くなったんです。……もし、人間が記憶を書き換えるだけで、こんなにも幸せになれるなら。私たちがやっていることは、ただ彼らの『更生』を邪魔しているだけなんじゃないかって。」


罪人が、罪を忘れて善人になり、社会に貢献する。

それはある意味、理想的な結末だ。

誰も傷つかず、誰も悲しまない。


「正直、揺らぎました。……このまま彼を見守り続けるのも、一つの『正義』なのかもしれないって。」


🔷【砂上の楼閣】


「……だが、戻ってきた。」


透也の言葉に、灯は強く頷いた。

その瞳に、強い意志の光が宿る。


「はい。……気づいてしまったからです。」


あの日々の中で、灯だけが気づいていた違和感。

新太がふとした瞬間に見せる、焦点の合わない瞳。

そして、何か大切なものを探すように、無意識に胸を押さえる仕草。


「あの方の幸せは、嘘で塗り固められた『真っ白な部屋』のようなものです。綺麗で、温かいけれど……そこには『出口』がない。」


灯は、眠っている月陽の方へ視線を向けた。


「それに……あの方の光は、月陽ちゃんという『影』を切り捨てることで成り立っています。……過去をなかったことにして、娘の存在すら忘れて手に入れた笑顔なんて……。」


灯はグラスを強く握りしめた。


「そんなものは、幸せとは呼びません。……ただの『逃避』です。」

どんなに辛くても、どんなに汚れていても、ここには「真実」がある。


月陽という、確かに愛し、愛された証拠がある。

その「痛み」から目を背けて生きる新太の姿は、灯にとって、もはや救いではなく、空虚な「砂の城」にしか見えなくなっていたのだ。


「だから、私は選びました。……綺麗な嘘よりも、泥だらけの真実を。」


🔷【共犯者の夜】


灯が一気にグラスを煽ると、喉が熱く焼けた。

それは、生きている実感の味だった。

透也はふっと短く息を吐き、タバコを灰皿に押し付けた。


「……そうか。」

多くは語らない。


だが、その一言には、深い納得と共感が込められていた。

彼もまた、妹を殺した男が「善人」として生きる欺瞞に、誰よりも怒りを覚えていたのだから。


「おかえり。灯。」


「……はい。ただいま戻りました。」

灯は小さく微笑んだ。


その笑顔は、もう迷いのない、NOISEの一員としての顔だった。

二人のグラスが、カチンと小さく音を立てる。

それは、これから始まる「偽りの世界」への、静かなる宣戦布告の音だった。


🔚 第53章・完

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