第35話

📘 第35章:偽りの日常



(この日常は……誰のためにある?)



2051年。年始。


改訂者専用区域は、無音の静寂に包まれていた。


廊下の天井を這う無数の監視カメラ。

壁面に埋め込まれたバイタルセンサーが、入居者の心拍、脳波、血圧、そしてECHO発現率を、途切れることなく中央管理棟へ送信し続ける。


この区域が建設されたのは、2046年。不破家殺害事件の直後だった。


結城維人が榊原廉也へ進言した。


「“彼ら”は社会の中で管理するには危険すぎます。専用区域を。」


管理しやすい環境と、国民の恐怖心軽減。

この施設は国家の理想と安全の象徴となった。



区域内部は家族単位の個室棟、医療棟、そして工場棟で構成される。

この施設の運営は税金ではなく、工場棟での売上によって賄われていた。


義務教育は廃止され、全てタブレット遠隔授業へ置き換わった。

子どもたちは教師と教室を知らず、生活空間から一歩も出ずに成長していく。



🔷 【黒峰家 – 新年】


6畳ほどの簡素なリビングに、安価な正月飾りと白味噌雑煮の湯気が漂っていた。


黒峰新太は、月陽とカルタをしていた。


「はい、“いぬも歩けば”……!」


「“ぼうにあたる!”」


月陽が笑顔で読み札を取る。

新太も微笑み返した。


(……ああ……俺は……黒峰 新太。妻と娘がいて……これが、日常……だよな……?)


幾度ものメンテナンスを経て、彼の意識は黒峰新太として安定していた。

過去への違和感は、思考の奥底に閉じ込められていた。



🔷 【区域内放送】


その時、壁面スピーカーから無機質な女性AI音声が流れた。


「おはようございます。本日も社会復帰プログラムを遵守してください。」


新太は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに視線をカルタへ戻した。


(……プログラム……?)


小さな違和感が波紋のように広がり、すぐに消えた。



🔷 【朝食 – 違和感】


ある朝のことだった。


月陽が、牛乳をコップに注ごうとした。


しかし手が震え、白い液体がテーブルに零れ落ちる。


「月陽……ちゃんと注がないと。」


新太が優しく注意する。


その瞬間、月陽は慌てて手を引き、今度は自分のコップを倒してしまった。



「月陽!」


鋭い声が響いた。


沙耶が立ち上がり、冷たい視線を娘に突き刺す。


「パパの言うことを、ちゃんと聞きなさい!」



月陽は怯えた瞳で母を見上げ、しかしすぐに微笑み直した。


「私はね、パパの言うこと何でもきくね。ママも言うこと聞ける?」



その言葉を聞いた瞬間、


新太の頭の奥に、誰かの声が響いた。


(まだ小さいんだから……全部をちゃんとするのは無理よ……)


柔らかく、優しく、

しかし胸を鋭くえぐる声。



沙耶は険しい表情で月陽を見下ろした。


(……この子も、この人も。完璧であってくれればいい……それだけで……)


唇を震わせ、奥歯で噛み締めた。



「月陽、濡れた服を着替えてきなさい。」


「……はい。」


小さな背中がリビングを出て行く。


新太は、こぼれた牛乳を見つめていた。



🔷 【灯と月陽 – 幻影の母】


数日後。


ナースステーション廊下を歩いていた灯に、月陽が駆け寄ってきた。


「ともりお姉さん、おはよう。」


「おはよう、月陽ちゃん。」


月陽はクレヨンを握りしめ、小さく笑った。


「この前もね、ママの絵描いてたんだ。……ママはね――」



「月陽。」


冷たく鋭い声が割り込んだ。


沙耶が背後に立っていた。


「もう診察の時間よ。行きなさい。」


「……うん。」



月陽は振り返り、灯に微笑む。


しかしその笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。



🔷 【灯の心情】


月陽が去った後、灯は廊下の壁に手をつき、静かに目を閉じた。


(ママを……光生さんを……思い出して……でも、それは……この子から“家族”を奪うことにも……)


(でも……このまま……奪われたままでいいはずない……)



🔷 【章ラスト象徴フレーズ】


(この日常は偽物。でも、この子の笑顔だけは……本物にしないと。)


作戦実行まで、あと2ヶ月。



🔚 第35章・完

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