第28話

📘 第28章:潜入の始まり



2050年。午前5時30分。


まだ薄暗い研究棟前に、白石灯の影が静かに立っていた。


冷たく閉ざされた自動ドアが、彼女の職務IDを読み取り、無機質な電子音と共に開く。


(今日から……ここで……)


NOISEから託された任務。

改訂者専用区域への“看護師”としての潜入。


だが胸の奥には、任務以上に重い葛藤が渦巻いていた。


(黒峰新太……翔真さんなの……?)


IDタブレットに映る顔写真。

名前は“黒峰 新太”。

顔は違う。しかし、声紋と体格データは一致していた。


(顔は違う……でも声と体格はデータと一致する。でも……)


歩を進めるたび、靴底が白い床を叩く音が無音空間に響いた。



廊下は一面、無機質で白く塗り込められていた。

天井には微かな蛍光灯の唸り。

空調音さえ感じられない静寂。


両脇には、改訂者たちの個室が並ぶ。

重厚な金属扉には小窓があり、その奥に置かれたベッドと、生気を奪われたかのような人影が映る。


各部屋のドア上にはモニタリングカメラが設置され、赤いランプが常に点灯していた。



「お疲れさまです。今日からこちら担当ですよね?」


前方で看護師の上原美咲が立ち止まり、カルテを手渡した。


「この部屋が月陽ちゃん。昨日も絵を描いてましたよ。」


「ありがとうございます。」


受け取ったカルテを抱え、灯は深呼吸した。



静かに扉を開けると、部屋の隅で小さな少女がしゃがみこんでいた。


クレヨンを握りしめ、白紙の端に何かを描いている。


「……こんにちは。」


灯が声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。


透き通るような瞳に、淡い金茶色の髪。


「ねぇ、お姉さん、名前は?」


無垢な問いかけ。しかしその瞳の奥には、わずかな怯えが滲んでいた。


「……白石灯(しらいし ともり)です。今日からここで、お手伝いさせてくださいね。」


少女はかすかに笑ったが、またすぐに俯き、紙に視線を戻した。



廊下に出ると、医療班オフィス前で沙耶と結城が話していた。


「先日の事故……あれはECHO兆候では?メンテナンスを前倒しすべきです。」


黒峰新太の事故は、わずか数日前の朝食配膳時に起きた。


いつも通り廊下を歩いていた彼は、月陽の部屋前で足を止めたという。


扉の小窓越しに見えたのは、少女が白紙に描いた一枚の絵。


薄く滲むクレヨンの女性の顔は、どこか優しく微笑んでいて――

その表情が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。


次の瞬間、新太は急に立ち上がろうとした。


支えもないまま、前傾姿勢のまま崩れ落ちる。

配膳台の角に側頭部を強打し、床に倒れ込むと、頭部からは鈍い音と共に血が滲んだ。


救護班が駆けつけたときには、彼は意識混濁状態で、

月陽の部屋を見つめながらかすれた声で何かを呟いていたという。


頭を強く打った影響で、事故直後の記憶は朧げになり、

沙耶はただちにメンテナンスを結城に進言した。


「ECHO兆候ではないか――」


結城はモニターに映る黒峰新太の映像から視線を外さない。


「そうだな……今はまだECHO化には早い。」


沙耶は不安げに結城を見つめた。



灯はカルテを抱えたまま、病室へ向かった。


個室のベッドには、白いシーツに沈む男性が横たわっている。


黒峰 新太。


(この人が……本当に……翔真さん……?)


カルテに視線を落とす灯。


その時。


微かにシーツが動き、新太が目を開けた。


ぼんやりと天井を見つめ、そして灯に焦点を合わせる。


灯は息を呑み、震える声で言った。


「あなたは――黒峰 新太(くろみね あらた)さん。記憶を失っていますが……ご家族が、ずっとあなたを待っていました。」


新太の瞳は虚ろで、しかしその奥に、一瞬だけ暗い深淵が覗いた。



夜。

勤務終わりの灯は、月陽の寝顔を見つめていた。


微かに動く胸。穏やかな呼吸。


小さな手には、母を思わせる女性の絵が握られている。


(この子まで……奪わせない……)


涙を堪え、灯は小さく囁いた。


「必ず……守るから。」


白い天井の蛍光灯が、涙の粒を鈍く照らしていた。



🔚 第28章・完

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