第10話

📘 第10章:信じるということ



🔷 【夜の簡易医療相談所】


夜9時を過ぎても、待合室の椅子には人影が絶えなかった。


「……次の方、どうぞ。」


光生はカルテを確認しながら名前を呼ぶ。


ゆっくりと立ち上がったのは翔真だった。

包帯の巻かれた腕を気遣いながら、無言で診察スペースに入る。


「不破さん、こんばんは。調子はどう?」


淡い桃色の唇が優しく微笑む。

翔真は少しだけ視線を逸らし、低く答えた。


「……まぁ、普通です。」


光生は彼の隣に椅子を寄せると、そっと腕に触れた。

指先が包帯の端にかかる。微かに彼の身体が震えた。


「痛む?」


「……大丈夫です。」


短い返事。だが声は以前より柔らかかった。


包帯を解き、消毒液を含ませたコットンで傷を拭う。

膝の擦り傷、殴られた痕、手の甲の切り傷――どれも古くて新しい。


「白帳差別……ひどいよね。」


ぽつりと光生が言う。


「ここに来る人達も、“社会のゴミ”って言われることに慣れちゃってるけど……」


彼女の声は震えていなかった。

ただ、淡々と事実を並べるようでいて、瞳の奥には確かな怒りが宿っていた。


「でも、不破さんは人間だよ。」


翔真は唇を引き結び、無言で目を伏せた。



🔷 【灯の視点】


少し離れた棚の影で、灯は二人の様子を見ていた。


(光生さん……どうして、そんなふうに笑えるんだろう。)


自分には到底真似できない。

改訂者への恐怖が、どこかにあるから。

相手が何をしてきたかも分からないのに――


(私だったら、怖くて触れない。)


でも、光生は違う。

その笑顔は、決して嘘じゃなかった。


(……すごいな。)


灯はそっと拳を握りしめた。



🔷 【光生の告白】


包帯を巻き終え、光生はゆっくりと翔真を見つめた。


「不破さん。」


「……はい。」


低く掠れた声。

けれど、その瞳にはわずかな光が宿り始めていた。


「私ね……記録改訂法には、反対なんだ。」


一瞬、翔真が目を見開く。


「……なんで、そんなこと……」


「人の記憶を奪うなんて、間違ってる。

大切な思い出も痛みも奪われて……

それで“はい、生まれ変わりました”なんて、酷いと思う。」


光生の声は優しかった。

だが、その奥には決して曲がらない芯があった。


「……でも。」


光生は微笑んだ。


「でも、こうしてあなたと話してると……思うの。

もしかしたら、この制度にも救えるものがあるのかもしれないって。」


翔真の胸に、何かが落ちる音がした。



🔷 【翔真の視点 – 微かな揺らぎ】


(救う……?)


この女は、何を言っているんだ。

こいつは、俺を救うって言うのか。


(救いようなんか、ないのに。)


そう思いたかった。

けれど、今の自分に向けられるこの微笑みが、なぜか胸を軋ませる。


「……ありがとうございます。」


掠れた声が漏れた。



🔷 【光生の微笑】


光生は、ふっと笑った。


「ううん。ありがとうって言ってくれて、嬉しいよ。」


その笑顔が、柔らかく翔真の胸に触れた。


(どうして……この人の声は、こんなに優しいんだろう。)


胸奥で、長く凍っていた何かが、溶けかけていた。



🔷 【灯の視点 – 夜道】


帰り道、灯は光生と並んで歩きながら、横顔を盗み見た。


「光生さん……」


「ん?」


「……もしも、その人が、すごく酷いことをしてきた人だったら……それでも信じますか?」


光生は、足を止めて灯を見た。


「分からない。」


そう言って、微笑んだ。


「でもね、信じるって、過去を許すことじゃないんだよ。

その人の“これから”を信じることだと思う。」


灯は、泣きそうになるのを必死に堪えた。


(光生さん……

あなたがいるから、私はこの場所にいられる。)


夜風が二人の髪を揺らしていた。



🔚 第10章・完

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