第2話 快適な結婚生活と、わずかな違和感



 結婚とは、長期的な投資だ。


 多くの男はその単純な事実を忘れ、「愛だの恋だの」という不確定な要素で銘柄を選び、失敗する。


「あー、マジで嫁がウザい。またブランドバッグねだられたよ……」


「うちはもっと酷いぞ。先月、浮気がバレて慰謝料請求されそうだ」


 会社の給湯室で、同期たちが死んだ魚のような目で愚痴り合っている。


 彼らの妻は、学生時代から評判だった美人たちだ。

 だが、維持費は高く、リスク管理もなっていない。


 あんなものは「高利回りを謳う詐欺商品」と同じだ。


 その点、俺の妻・美鈴は「超優良物件」だった。


 結婚して三年。

 生活は快適そのものだ。


 美鈴は文句一つ言わない。

 ブランド品にも興味がないし、エステに行きたいとも言わない。


 彼女が欲しがるのは、スーパーの特売チラシと、新しい掃除道具くらいだ。


 家に帰れば、風呂が沸いていて、部屋はチリ一つなく掃除され、見た目は悪いが味は絶品の飯が出てくる。


 俺がすることは、月に一度、給料明細を渡して「いつもご苦労さん」と声をかけることだけ。


 これほどコストパフォーマンスの良い結婚生活が、他にあるだろうか?


 ただ――。

 時折、彼女に対して「得体の知れない気味の悪さ」を感じることがあるのも事実だ。


 それは、先週のことだった。

 急なトラブル対応で、帰宅が深夜二時を回った夜だ。


 連絡も入れられず、タクシーでマンションに帰り着いた俺は、静かに鍵を開けた。


 当然、美鈴は寝ていると思っていた。


「……あ」


 玄関のドアを開けた瞬間、足元に黒い塊があった。

 俺は心臓が止まるかと思った。


 美鈴だ。


 彼女は玄関の冷たいタイルの上で、膝を抱えるようにして座り込み、船を漕いでいたのだ。


「お前、何やってんだ……!」


「……っ! あ、あなた……!?」


 俺の声にビクリと肩を震わせ、彼女は飛び起きた。

 眼鏡がズレて、寝ぼけた目が泳いでいる。


「おかえり、なさいませ。あの、メールがなくて、心配で……」


「だからって、こんなところで待つ必要ないだろ。リビングにいればいいじゃないか」


「い、いえ。ここなら、鍵が開く音ですぐに気付けるので……すぐに、コートをお預かりできると思って……」


 意味がわからなかった。


 ただコートを受け取るためだけに、何時間もこの硬いタイルの上で待っていたのか?

 忠犬ハチ公でも、もう少し自分を大事にするだろう。


「……はぁ。わかったから立てよ。風邪引くぞ」


「はい。すみません……」


 彼女は慌てて立ち上がろうとしたが、


「あっ」


 短く悲鳴を上げて、その巨体がぐらりと傾いた。

 長時間正座していたせいで、足が痺れたらしい。


 ドスン、と大きな音を立てて、彼女は俺の胸元に倒れ込んできた。


「おい!」


「す、すみません! 足が、いうことを……!」


「まったく……不器用すぎるだろ」


 俺は舌打ちしながらも、彼女の体を支えた。

 重い。物理的にも重いが、その向けてくる感情の重さが、ずしりと腕に来る気がした。


 だが、不思議と不快ではなかった。


 彼女の体からは、ほのかに線香の匂いがした。

 きっと昼間、俺の実家の仏壇を掃除してくれていたのだろう。


 俺の親に対しても、彼女は異常なほど尽くしている。


(……こいつは絶対に、俺を裏切らないな)


 同期たちの妻のように、浮気をしたり、俺の稼ぎが悪いと罵ったりすることは、天地がひっくり返ってもあり得ない。


 俺の腕の中で、申し訳無さそうに縮こまっているこの女は、世界で一番安全な「資産」だ。


「風呂、沸かし直しますから……!」


「いい。シャワーで済ませる。お前もさっさと寝ろ」


「でも……」


「寝ろ。命令だ」


「……はい」


 俺は彼女を立たせ、背中を押して寝室へ追いやった。


 一人になったリビングで、俺は冷蔵庫からビールを取り出す。

 よく冷えていた。グラスも凍らせてある。

 

「……悪くねえな」


 独り言が漏れる。

 俺はこの生活に満足しきっていた。


 この平穏で、打算的で、一方的に搾取できる関係が、永遠に続くと信じて疑わなかった。


 そう。

 あの電話が鳴るまでは。

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