第11話 奴隷の日常

 朝は、音で始まった。

 鍋の底に木匙が当たる、乾いた音。

 水を汲む音。

 戸を開ける、控えめな気配。

 ルシェルは寝台の上で目を開け、天井を一度だけ見上げた。

 ――もう起きている。

 面倒だが、悪くはない。

 以前は、朝というものが曖昧だった。

 眠くなったら眠り、目が覚めたら起きる。

 薬草の生育と天候だけが時間の目安で、人間の“朝”などどうでもよかった。

 だが、今は違う。

「……そっち、静かにしなさい」

 扉の向こうへ声を投げる。

「すみません」

 低い声が返る。

 謝るほどでもないのに、とルシェルは思う。

 居間に出ると、すでに床は掃き清められていた。

 散らかっているのはいつも通りだが、足元だけが妙に歩きやすい。

 炉の前には、大きな背中。

 鍋を覗き込むアルトリウスの影が、朝の光を遮っていた。

 ――大きい。

 毎朝のようにそう思う。

 彼を従わせてから三日が過ぎようとしていた。

 森の中では、人間はもっと小さく、脆く見えるものだ。

 それなのに、この騎士は家の中にいると妙に存在感がある。

「勝手に台所を使わないで」

「火を起こしただけです」

「それが“使ってる”って言うの」

 不満げに言いながらも、鍋の中を覗く。

 刻んだ根菜と乾燥肉。味付けは最低限。

 失敗しにくい、実に無難な料理だ。

「……焦がしてないわね」

「一応」

「一応、ね」

 評価としては及第点。

 わざわざ口に出さないだけで。

「今日の予定」

 ルシェルは椅子に腰を下ろし、顎で示す。

「午前中は材料採取。星見草の若葉が開き始めてるはずだから、谷の方へ行くわ」

「承知しました」

「午後は掃除。棚の下、ずっと見て見ぬふりしてた埃があるの」

「……了解です」

 微妙な間があった。

 ルシェルは見逃さない。

「不満?」

「いえ。優しい命令だと思います」

「どこが」

「命に関わらないので」

「……人間の基準って、ほんと分からない」

 そう言いながらも、拒絶はしない。

 “優しい命令”と言われたことが、どこか落ち着かない。



 森へ入ると、体格差はいっそう際立った。

 アルトリウスの腕は長く、枝を払うたび視界が開ける。

 歩幅も大きく、気を抜くと距離が空く。

「前、見て。そこ、根があるわ」

「了解……っと」

 避けた瞬間、袖が軽く引かれた。

 気づけば、アルトリウスの腕の内側に収まっている。

「……近い」

「すみません」

 すぐに離れようとするが、足場が悪くうまくいかない。

「別に、突き飛ばすほどじゃないわよ」

 ルシェルは自分から一歩出る。

 アルトリウスの胸元が、見上げなければ視界に入らない高さにある。

「……やっぱり大きいわね」

 ぼそりと呟く。

「昔より?」

 返されたその一言に、ルシェルの言葉が止まる。

 意味が分からなかった――というより、分かりたくなかった。

「……一般論よ。男は女より大きいものよ」

 視線を逸らす。

 それ以上追及しない距離感は、やりやすかった。



 星見草は谷の影に咲いていた。

 淡い光を帯びた葉が風に揺れる。

「それ、触らない」

「はい」

「“はい”って言えばいいわけじゃないの。分からないなら聞きなさい」

「では、どこまで近づいていいですか」

 真面目な問いに、ルシェルは少しだけ考えた。

「……私の影から出ないくらい」

 言いながら、自分の足元に落ちる影をちらりと見る。

 その影を基準に、アルトリウスは寸分違わぬ距離で立ち止まった。

 まるで境界線でもあるかのように。

 それを見て、ルシェルは鼻を鳴らした。

(ほんと、融通が利かないというか……律儀すぎ)

 奴隷と呼ぶには真面目すぎる。

 従っているのは呪いではなく――

 それ以上の何かで、彼自身が勝手に“ここにいる”ような印象。

 その曖昧さが、たまにやけに面倒だ。

「役割についてですが」

「何よ」

「料理も、薪割りも、警戒もできます」

「警戒はいらない。魔獣なら私が気づく」

 きっぱりと言う。

「それに、この森では私の方が強い」

 当たり前のことだった。

 アルトリウスも否定しない。

「では、俺は“手”ですね」

「そう。手足」

「……光栄です」

 本心か皮肉か分からない。

 判断できない自分に、ルシェルは少し苛立つ。

「勘違いしないで。あんたは縛られてるだけ」

「承知しています」

 淡々と答えるその態度が、余計に奇妙だった。



 家に戻る頃には、昼を過ぎていた。

 湿った靴音を残しながら入ってきたアルトリウスを、ルシェルはちらりと見ただけで顎をしゃくる。

「……ああ、床。汚れるわね」

 それ以上は言わない。

「了解しました」

 アルトリウスは自分から外に出て、戸口の石で靴底の泥を丁寧に落とした。

 戻ると、何も言われないまま箒を手に取る。

 ルシェルはそれを横目で見て、興味なさそうに椅子に腰を下ろした。

「……もう今日はいいわよ」

 それは明確な区切りだった。

 命令でもなければ、続行の指示でもない。

「はい」

 短く返事をしてから、アルトリウスは一瞬だけ手を止める。

 ――それでも。

 床に落ちていた布切れを拾い、無言で棚の上に置いた。

 倒れかけていた瓶を、元の位置へ戻す。

 音を立てないよう、慎重に。

(……あ)

 ルシェルは小さく瞬きをする。

「誰も、続けろとは言ってないわよ」

 咎めるでもなく、確かめるように言うと、アルトリウスは箒を止めたまま答えた。

「散らかったままですので」

「……それ、今やる必要ある?」

「いえ。ですが」

 言葉を探すように、ほんのわずか間が空く。

「このままにしておくと、後で手間が増えます」

 それだけ言って、再び黙々と片付けを続ける。

 命令はない。

 呪いも、発動していない。

 ただ、彼は動いていた。

 ルシェルはそれ以上何も言わず、肘をついてその様子を眺めた。

(……厄介ね)

 理由は分からないまま、胸の奥に小さな違和感だけが残る。

 魔女の家は、少しずつ整っていった。

 箒の音が止み、今度は低い位置で衣擦れの気配がする。

 アルトリウスが片膝をつき、棚の下へ手を伸ばしていた。

 奥に溜まった影を確かめるように覗き込み、指先で何かに触れた瞬間、かすかに眉が動く。

 すると、棚の下から小さな瓶の蓋、乾ききった果実、羊皮紙の切れ端が次々と現れた。

「……また落として放置していたんですね」

 また、というアルトの言葉にルシェルは少しだけ苛立ったように返事をする。

 (まるでいつも私がそうしてるみたいじゃない?

 確かにそうだけど……それを知っているような口ぶり……)

「べ、別に放置したんじゃなくて……ほら、たまたまよ」

「なるほど。たまたま、ですね」

 淡々とした声。

 だが、ほんの一瞬――動きが止まった。

 拾い集める小物の感触。

 棚の奥に転がる紙きれ。

 散らかったままの配置。

 ――昔、ここで掃除をしていた頃と同じだ。

 懐かしさがよぎる。

 けれど、それを顔に出すことは決してない。

「……どこ見てるのよ」

「いえ。埃を確認していました」

 何事もなかったかのように続ける。

 その抑制が、逆にルシェルの胸の奥をざわつかせる。

「……あなた、命令されるの、妙に慣れてるわね」

 ふと、口をついて出る。

「騎士ですので。主の命令は絶対です」

「そう? それなら、“あの崖から飛び込め”とか言われたらどうするの?」

 ルシェルは窓の奥に見える景色を指さす。

 まっすぐ行った突き当たりの、途中で地面が途切れているその先を。

 からかうつもりで、少しだけ声に棘を混ぜた。

「ご希望とあらば?」

 即答だった。

 ルシェルは思わず振り向く。

「や、やめなさいよ! そういうの、あとで面倒なの嫌なのよ」

「ご安心を」

 アルトリウスは、ごく普通の声音で続ける。

「あなたがそんなことを命じるわけがないと、最初から分かっていますので」

 その言い方が妙に当たり前すぎて、ルシェルは言葉を失った。

「……勝手に信頼しないで」

「従属の呪いがあるので」

「今のは呪い関係ないでしょ」

「そうかもしれません」

 さらりと受け流される。

 ルシェルは舌打ちはしないまでも、小さく息を吐いた。

 箒のあとを追うように、アルトリウスは布で床を拭いていく。

 大きな手のわりに、動きは細かい。

 瓶の間を縫うように埃を拭い、棚の上の薬草の束を一度だけ丁寧に持ち上げては位置を戻す。

「そこ、ずらさないで。順番分からなくなる」

「失礼。以後、位置を記憶してから動かします」

「いらないところで真面目ね」

 口ではそう言いながら、乱れなく戻される瓶を見て、ルシェルはひそかに満足していた。



 夕方前には、家の空気が目に見えて変わっていた。

 床の隅に溜まっていた埃は消え、歩くたびにわずかに靴底がきしむ感覚が心地よくさえ感じられる。

「棚の下、終わりました」

 アルトリウスが報告する。

「ふうん……」

 ルシェルは椅子から半分だけ腰を浮かせ、棚の隙間を覗いた。

 いつもは見ない場所だ。見たくもない場所だ。

 そこが、今日は空っぽに近い。

「……まあ、許容」

「それは、評価と受け取っていいですか」

「“許容”って言ってるでしょう。好きに解釈しなさい」

 顔を背ける。

 アルトリウスが、かすかに息を吐いて笑った気配がした。



 日が傾き、簡単な食事を終えたあと。

 炉の火が落ち着き、家の中に柔らかな陰影が増える。

 アルトリウスは使い終わった皿を水桶のそばに並べていく。

 一枚一枚、欠けていないか確認しながら。

「割れても文句は言わないわよ」

「ですが、長く使えるものを壊すのは、もったいないので」

「倹約騎士ね。王都ってそんなに給金安いの?」

「いいえ。身についた癖です」

 淡々とした返答。

 ルシェルは帳面の端を指で叩く。

「今日の仕事、特に問題はなかったわ」

「それは、評価と受け取っていいですか」

「……好きにしなさい」

 アルトリウスは少しだけ笑った。

 その表情を、ルシェルは真正面から見ない。

 見ると、何かを意識してしまいそうで面倒だからだ。

(ほんと……変な人間)

 従属の呪いで縛ったはずなのに、縛られたような顔をしない。

 むしろ、自分からここに根を張っているようですらある。

「明日も同じ」

 告げる。

「掃除と、採取と、料理。それでいいでしょう」

「はい、主」

「だから、そう呼ぶなって言ってるでしょう」

 反射的に言い返す。

 なのに、声にはどこか力が抜けていた。

 こうして、奴隷の日常は始まった。

 命令は優しく、距離は近すぎず、

 体格差だけが静かに存在を主張する。

 奇妙で、穏やかで、面倒で――

 そして少しだけ、悪くない日々が。

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