アラビアのロレンス3
1917年7月、アカバの陥落はアラブ反乱に一筋の光明をもたらした。紅海の小さな港をオスマン帝国から奪ったこの勝利は、T.E.ロレンスとファイサル・イブン・フサインに一時の喝采を浴びせたが、砂漠の風はすぐに新たな試練を運んでくる。ロレンスは英国陸軍少佐としてアラブの自由を掲げつつ、英国政府の裏切り――サイクス・ピコ協定によるアラブ分割の密約――に苛立ちを募らせていた。彼の青い瞳は、砂漠の地平とロンドンの冷たい机上を行き来し、心は任務と裏切りの間で軋んでいた。
勝利から数日後の夜、ロレンスはファイサルの陣営で作戦を練っていた。テントの外ではラクダが低く唸り、松明が砂に赤い影を落としていた。ファイサルは地図を広げ、「アカバは我々の足場に過ぎん。次はダマスクスだ。オスマンの鉄道を叩け」と命じた。
ロレンスは地図に目を落とし、「鉄道を叩くのはいいが、ファイサル殿、君の夢がロンドンの紙切れに潰されないことを祈るよ。サイクス・ピコの密約を知ってるだろう?あれは砂漠を切り刻む貴族の落書きさ。君の大アラブ王国が、英国とフランスの間で玩具にされる未来が見えるよ」と皮肉った。
ファイサルは目を細め、「知っている。だからこそ、君に頼むのだ。英国を説得して、我々の独立を認めさせろ。君の舌が砂漠の剣より鋭いことを証明してみせろ。さもなきゃ、我々の血は砂に染まるだけだ」と挑発した。ロレンスは内心、「この老獪な族長に比べれば、オスマンの砲弾の方が正直で扱いやすい」と苦笑しつつ、「説得か。ラクダに紳士協定を教える方がまだマシだよ。だが、君の夢が紙切れに負けるなら、私の舌も砂に埋まるさ」と呟いた。
数日後、ロレンスはアラブ戦士を率いてヒジャーズ鉄道への襲撃に出た。砂漠の闇に紛れ、ダイナマイトが線路を吹き飛ばし、オスマン兵の叫びが響いた。だが、反撃は苛烈で、弾丸がロレンスの肩をかすめた。彼は血に濡れた白いアラブ服を見下ろし、「この赤は英国の名誉か、それとも私の愚かさの染みか。どちらにせよ、洗濯屋には出せないな。ロンドンじゃ勲章をくれるかもしれないが、砂漠じゃただの血糊だよ」と呟いた。
戦士の一人が「少佐、退け!」と叫ぶと、彼は「退くだと?砂漠で退くのはラクダにでも任せとけ。俺はまだこの血まみれの舞踏会で踊り足りんよ。オスマンに一曲付き合ってもらうさ」と笑い、痛みを堪えて指揮を続けた。戦闘後、彼は傷口を布で縛り、「オスマンは鉄道を失い、私は肩を失いかけた。公平な取引だな。だが、次はもっと高くつくぜ」と自嘲した。
その夜、ファイサルの屋敷で宴が開かれた。中庭では椰子の葉が風に揺れ、松明が赤い光を投げていた。テーブルにはマンサフの濃厚な子羊、クッバのスパイス香る揚げ物、ファッタの重厚な層が並び、クナーファの甘いシロップが燭光に輝いた。
ロレンスは葡萄酒を手に、「砂漠でこんな饗宴とは、ロンドンの貴族が嫉妭で砂をかぶって転がるな。だが、ファイサル殿、この料理に策略の隠し味は入ってないだろうね?君の独立の夢と同じで、甘すぎて怪しいよ。サイクス・ピコの密約が、この子羊みたいに俺たちを切り分けるつもりだろ」と皮肉った。
ファイサルは笑い、「我々の友情の証だよ、ロレンス殿。だが、君の舌が砂漠の剣より鋭いことは忘れんよ。オスマンより君の方が手強いかもしれん。葡萄酒でその舌を和らげてくれ」と応じた。ロレンスは「友情か策略か、その境界は砂漠の蜃気楼より曖昧だ。だが、葡萄酒が美味いなら、今夜はそれで我慢しておくよ。君の夢が紙切れに負ける前に、せめて腹を満たしておこう」と杯を傾けた。
宴が進み、ファイサルが「今夜は特別な客が待っている」と意味深に告げると、ハレムの帳が静かに開いた。そこにはハディージャが立っていた。薄紅色のヴェールを纏い、オリーブ色の肌が松明に映え、長い黒髪が波打っていた。彼女の背後にはサミラ、ナディア、アリヤが控えていた。ハディージャは一歩進み、大きな瞳でロレンスを捉え、「少佐、私の心はあなたを追いかけて砂漠を彷徨ったわ。私の夜に火を灯しに来てくれる?私の砂漠はあなたの足跡で埋まってるの。あなたがいなければ、私は風に吹かれる砂粒に過ぎないわ。君の瞳が私の星よ」と囁いた。
彼女の声は可憐でありながら、甘い毒と執着を含んでいた。ロレンスは「君の言葉は砂漠の蜃気楼より危険だよ、ハディージャ。火を灯すどころか、私を丸ごと焼き尽くしてしまいそうだ。だが、燃えるなら君の炎がいいさ。オスマンの砲火より温かく、ロンドンの霧より俺を惑わすよ」と呟いた。ファイサルが「楽しんでくれ」と肩を叩き去ると、ロレンスは内心、「この族長、砂漠の王より悪魔的な演出家だ。私の魂をハレムに売り渡す気か。サイクス・ピコより狡猾な取引だな」と毒づいた。
ハディージャはロレンスの手を引き、ハレムの奥へ導いた。部屋は絹の帳で仕切られ、ジャスミンとムスクの香りが漂い、燭台の灯りが揺れていた。サミラ、ナディア、アリヤが彼を囲んだ。
サミラは黒髪を指で梳き、金の腰帯を軽く鳴らしながら、「少佐、ご存知かしら?砂漠の風はいくら吹いても私の髪より優しくはないわ。でも、あなたの心を軽くするには、私の足音で十分よ。ベドウィンの娘が教えてあげるわ、砂漠の男は踊るより戦う方が得意だってね。君の傷、私が癒してやろうか?」と微笑んだ。
彼女の声には荒々しい砂漠育ちの率直さと、生き抜く知恵が混じっていた。ロレンスは「君の足音か、サミラ。確かに、オスマンの砲弾よりは耳に優しいが、私の心はラクダの背より頑固だよ。だが、君の教えなら聞いてやるさ。傷を癒すより、俺の皮肉を笑ってくれ」と皮肉った。
ナディアは紫のヴェールを纏い、豊満な体を絶妙に隠しながら近づき、「少佐、私の故郷ダマスクスじゃ、男はオアシスを求めて彷徨うものよ。でも、あなたは彷徨うより壊すのがお好きかしら?ヒジャーズ鉄道を吹き飛ばしたみたいに、私のヴェールを吹き飛ばしてみる?でも気をつけてね、私のオアシスは砂漠の幻より深いわよ。君の疲れ、私が吸い取ってあげる」と囁いた。
彼女の言葉には商人の血からくる狡猾さと、没落した過去への静かな怒りが滲んでいた。ロレンスは葡萄酒を傾け、「オアシスか、壊すか、だなんて哲学的な問いだね、ナディア。私は壊すより迷う方が得意だよ。君のヴェールに隠された答えを探すのは楽しそうだが、ダマスクスまで彷徨う体力は残ってないな。君のオアシスで溺れる前に、葡萄酒で我慢するさ」と応じた。
アリヤは緑の瞳で彼を見つめ、金のリングを指で遊ばせ、「少佐、私の腰は罠じゃないわ。あなたの魂を捕らえるのは、私の目よ。南アラビアの香料商の娘として教えてあげるわ。砂漠の男は目で取引するの。逃げたいなら、今のうちにラクダに乗って走りなさい。でないと、私の視線で君の魂を値踏みしちゃうわよ。君の傷、いくらで売れるかしら?」と挑発した。
彼女の声は冷たくもあり、誘うようでもあり、ロレンスを試す意図が隠されていた。彼は彼女の瞳を見据え、「逃げるだと?アリヤ、君の目は砂漠の地図より複雑だ。だが、私は地図を読むより道に迷うのが性に合ってるよ。値踏みされるなら、せめて高値をつけてくれ。俺の魂は安売りしないぜ」と笑った。
三人はロレンスを囲み、サミラは彼の肩に手を置き、「少佐、私の踊りは見なくていいの。砂漠の女は触れなきゃ分からないわ。あなたの傷口、血の匂いがするわね。私の手で癒してあげようか?ベドウィンの知恵で君をラクダより元気にしてやるよ」と囁いた。ナディアはヴェールを彼の腕に絡め、「私の動きはオアシスより深いよ。見るだけじゃなくて、飲んでみなさい。少佐の疲れ、私が吸い取ってあげる。ダマスクスの商人なら値切るけど、君には無料でいいわ」と誘った。
アリヤは指で彼の顎を撫で、「私の罠は腰じゃない。言葉よ。少佐、あなたの舌が私に勝てるかしら?砂漠の交易路じゃ、私の目が勝負を決めるの。君の魂、高く売れるなら私が買い取ってやるよ」と微笑んだ。
部屋は彼女たちの気配で息づき、ロレンスは「君たち三人で私を絞め殺す気か?なら、せめてファイサルに遺言を預けておくよ。『砂漠の三姉妹に魂を奪われた英国人』とね。だが、オスマンよりは優しい死に方かもしれない。サイクス・ピコの密約よりはマシだよ」と呟いた。
登場人物
◯T.T.ロレンス(トーマス・エドワード・ロレンス):
英国陸軍少佐。第一次世界大戦中、アラブ反乱を支援した実在の人物。知性とシニカルなユーモアを持ち、本作では砂漠の誘惑に翻弄されつつも皮肉で応じる。
◯ハディージャ:
ファイサルの第四婦人。可憐な美少女で、ハレムの侍女としてロレンスを誘惑し、ファイサルの策略に一役買う。オリーブ色の肌と大きな瞳が特徴。
◯エリザベス・マーガレット・ハミルトン:
ロレンスの許婚。1890年生まれ、27歳。ロンドンのハミルトン家出身の貴族令嬢で、オックスフォードで歴史学を学び、外務省で働く才女。金髪に灰色の瞳を持ち、気品と知性を備える。ロレンスと1915年に婚約したが、任務で疎遠に。
◯ファイサル・イブン・フサイン:
アラブ族長。大アラブ王国を夢見る指導者で、オスマン帝国からの独立を目指す実在の人物。老練で狡猾、策略家としてロレンスを利用する。
◯サミラ:
ファイサルのハレムの侍女。黒髪と金の腰帯が特徴で、ベリーダンスでロレンスを魅了する。 ベドウィン出身の率直さと知恵。砂漠の荒々しさと女としての自信を持つ。
◯ナディア:
ファイサルのハレムの侍女。紫のヴェールと豊満な体型で、妖艶な動きを披露する。ダマスクス出身の狡猾さと哀愁。商人の血と過去の傷を匂わせる。
◯アリヤ:
ファイサルのハレムの侍女。緑の瞳と金のリングで、ロレンスの心を揺さぶる。南アラビアの知性と冷たさ。交易の知識と観察眼でロレンスを試す。
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