第2話もやしの僕がジムに通うことになったわけ(ユージ)

今日はいるだろうか。仕事中ふとした瞬間に、そんなつぶやきが脳裏にこだまする。あらぬ方向を見つめ、僕はそんなことを考えている。休憩中ならいいんだけれど、仕事中に「今日はいるのだろうか」と考えて、止まってしまうというのは少しばかり病的だと思う。


誰のことかと言えば、コーチのことだ。雑念ばかりが去来するので、一息休憩を入れることにした。ちょうど仕事の区切りもいい。果たしてこれが仕事と言えるのか疑問ではあるが。


自動販売機のある休憩室で缶コーヒーを買う。福利厚生の一環らしいが、相場より安く買えると誰かが言っていたが、黙っていても売れる自動販売機はおそらくはドル箱に違いないと思う。自社は休憩所に分煙という文化がまだない未開の地。ニコチンとタールで染められたミドルエイジの男性たちが煙草を吹かしていた。一体彼らはいくらまでなら税金を払うのだろうか。徐々に首を絞められて感覚が麻痺しているのではないか。


「吸うか?」と会社の先輩にすすめられたことがあるのだが、中学生じゃあるまいし、「吸うか?」はないだろう。吸わずに就職したのだから、もう今から始める年でもないだろう。そっとしてほしい。


就職した。新人研修を終えた。現場に配属された。


親切にされたのは初日だけ。


「橋下くん、これお願い。10部ね」


「橋下くん、応接室にお茶、あったかいの、4」


「橋下くん」「橋下くん」「橋下くん」


これでは小間使いだ。面白くはない。忍耐力を培う訓練なのかもしれないが、雑用をどのように面白くするかを少しばかり考えてみようと思う。


これから本格的に仕事をするにあたり、不安があった。というのも、皆かなりの時間残業して命を削りながら仕事をしているからだ。サラリーマンに必要なのは、事務能力やコミュニケーション能力やなんやらの能力ではなく、もっと言えば脳力ではなく、体力、筋力なのではないか。僕が同僚に劣っているのは肉体だと思う。「24時間働けますか」という古いコマーシャルは冗談ではなく、リアルな問いかけだったのではないか。肉体改造をしようと思った。自分でやるのも続かないので、英会話教室に行く感覚でジムに行くことにした。英会話教室に行った方が自己投資としてよかったのかもしれないが。


担当してくれたコーチは、女性で、均整のとれた体つきをしていた。こういう風になりたいと思わせる肉体だ。例えば服を買うならオシャレな店員の方が良い。その肉体、魂の乗り物に憧れるし、笑顔の素敵ないいコーチでとても運がよかった。笑顔は伝染する。こちらまで表情筋が活動してしまう。


これがプロの仕事だと思う。運動していてどこの筋肉を意識しろと細かく言われることで、重心が安定する。あたりまえの事なんだろうが、スポーツと同じく、筋肉のトレーニングにもフォームがあるのだ。これは発見だ。探究心が湧き起こる。もっと知りたい。コーチの一挙手一投足を観察するようにした。和食の職人みたいだ。「見て盗め」。ただ、こちらは、本人の理解度に応じて適切な説明がある。何をどこまで知っているか探りをいれられるのを感じる。知識の測定をされている。単語を知っているかどうか見られているし、どこまでの知識を放り込めばそれから推測できるのかを計測されている。僕が筋肉は全て筋肉だと思っているのか、それとも筋肉にも種類があって、トラに襲われた時に緊急対応できるかどうかの速筋、トラに襲われた後にどれだけ継続して逃げ切れるかどうかの遅筋の2種類だと思っているのか。筋トレをすると持久力がつくとか、ランニングマシンに乗るだけで筋肉がつくとか思ってはいまいか。


こちらとしては全力で応答すればいい。聞かれたことに知っている限り簡潔に答えればよい。こちらがぴったり理解できる指導をしてくれる。「見て盗め」というのはある意味真実だと思う。学ぶという行為は真似ぶことからきているのだし。コーチの筋肉をお手本にする。どのように伸び、どのように緊張すればよいのか。


「橋下さまは、どうして鍛えようと思ったんですか、何かきっかけがあったんですか」


「入社したばかりなんですけど、皆さん残業をたくさんされていて、残業に負けないよう肉体改造しなくてはと思いまして」


大爆笑された。真剣なのにな。でもとても素敵な笑顔だと思う。魅了される。


筋肉を凝視していると、コーチの眼球と目があった。数秒見つめ合う。どうにも気まずい。正直に言った。


「すみません、素敵だなっと思って、見てしまいました」


じろじろと筋肉を見られるのは不快かもしれない。「見て盗め」とは相手に気づかれないようにというのも極意なわけで。露骨な視線は女性に失礼だろう。


コーチはとても魅力的だ。コーチとしても優れているし、とても魅力的な女性だと思う。コーチに会えることもモチベーションの要因になっている。「よく来ますね」と言われて、思わず「会えると思って」と言ってしまったのは瞬間失敗したと思った。お客さんからのアプローチは多いだろうし、迷惑なのではないか。そもそも恋人がいるのではないか。でも、女性として意識しているのは確かだ。恋に落ちるのに時間はかからない。


筋肉だけの付き合いだと考えていた。連絡先を教えられるまでは。自分は詐欺の被害にあうのではないか。高い壺をローン組むのではないか。いつの間にか宗教団体に所属することになるのではないか。不安を抱えて待ち合わせ場所に行った。


詐欺でもいい。ローンを組んでもいい。入信してもいい。恋をした。


完全に上の空だった。とても緊張した。いろいろ質問攻めにあったがなんと答えたのか覚えていない。家に帰ると、次会う予定だけ頭に記憶がある。


2回目に会った時に「付き合おっか?」と言われて思考停止した。もしもチャンスが少しでもあるんだったらと張り切った矢先の攻撃に、なすすべもなく。言葉が出ない。頷く動作をするばかりだった。ドッキリカメラが仕掛けられているのではないか。美人局ではないか。混乱した。「ヒトミって呼んで、ユージ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る