逃げ切った先に何があるか

エピファネス

第一章 逃走の正当性――逃げることは、選ばなかったことの証明だ

第1話 逃げた先で、天使に話しかけられた

 目を覚ましたとき、鼻を突くのは香の匂いだった。

 甘くもなく、心が落ち着くわけでもない。むしろ、どこか息苦しい。


 視界に入ったのは、低い天井と梁。白く塗られた壁には、剥げかけた宗教画が掛かっている。

 描かれているのは翼を持つ人影。顔は穏やかだが、目だけがこちらを見据えていた。


「……教会?」


 掠れた声が、自分の喉から出たことに少し驚いた。

 身体は重いが、動かないほどではない。ベッド――いや、簡素な寝台の上に寝かされているらしい。


「目を覚ましたか」


 低く、落ち着いた男の声。

 顔を向けると、祭服を着た中年の男が立っていた。髭は整えられ、表情は穏やかだ。だが、その視線はどこか測るようでもある。


「道端で倒れていたと聞いた。幸い、外傷はない」


「……そう、ですか」


 返事をしながら、久遠は状況を整理しようとする。

 最後の記憶は、仕事帰りの夜道。強い光と、足元が消える感覚。そこからは、何もない。


 つまり――。


(やっぱり、異世界転移か)


 驚きはなかった。

 逃げ続けてきた人生の延長線に、たまたま世界が変わっただけだ。


「ここは?」


「我らが主を信仰する村だ。小さな場所だが、規律は守られている」


 規律。

 その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。


「君の名は?」


 来た。

 最初の関門。


「……クオン、です」


 咄嗟に、苗字は飲み込んだ。

 必要以上に情報を出すのは悪手だ。


「クオンか。どこから来た?」


「……覚えていません」


 嘘ではない。

 わからないことを、わからないと言う。それだけだ。


 男は一瞬だけ目を細めたが、すぐに微笑を取り戻した。


「神の御心だろう。しばらくはここで休むといい」


 そう言って、男は立ち去った。


 扉が閉まる音を聞いた瞬間、空気が変わった。


「ふう……。相変わらず息が詰まる場所だね、ここ」


 軽い声。

 頭のすぐ横から聞こえた。


「……は?」


 反射的に声を出し、隣を見る。


 そこにいたのは――人、ではなかった。


 白い衣。背中には、申し訳程度の小さな翼。

 金髪碧眼。だが、宗教画に描かれるような神々しさはない。どこかだるそうで、柱にもたれかかっている。


「やっと起きた。君、見えるんだね」


 久遠は、言葉を失った。


(……天使?)


「その顔、正解。ま、低級だけど」


 天使は肩をすくめる。


「僕はセラ。ここ担当の、いちおう天使」


「……夢だ」


「違うよ。君が“例外”なだけ」


 セラは楽しそうに言った。


「普通の人間は、僕を認識できない。声も聞こえない。だけど君は――見えて、聞こえてる」


 最悪だ。

 心の底からそう思った。


(人外と関わりたくない)


 久遠は、布団を掴む。


「……俺、関わる気ないので」


「知ってる」


 即答だった。


「顔に書いてある。逃げたい人間の顔だ」


 その言葉に、久遠は何も返せなかった。


「でもさ」


 セラは、教会の奥――さきほどの司祭が消えた方向を見る。


「この村、よそ者には優しくない。

 正確に言えば、“仲間になる気がある者”にだけ優しい」


 嫌な予感が、背骨を這い上がる。


「君、価値観を聞かれるよ。

 神を信じるか。規律に従うか。共同体の一部になる気はあるか」


「……わからないって言えばいい」


「うん。いい逃げ方だ」


 セラは笑った。


「でもね、“知らない”は一時的な免罪符でしかない。

 そのうち、教えようとする。善意で。使命感で」


 押し付け。

 正しさの共有。


 久遠は、目を伏せた。


「俺は……不幸になりたくないだけなんだ」


 セラは少しだけ、真面目な顔になった。


「だったら覚えておくといい、クオン」


 天使は囁く。


「ここは、逃げ続けるには狭すぎる」


 鐘の音が鳴り響く。

 祈りの時間だ。


 久遠は知らず、息を飲んでいた。


 ――逃げなければ。

 この村から。

 この価値観から。


 だが、逃げた先に何があるのかは、まだわからない。


 わからないからこそ、逃げるしかなかった。

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